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いつもお世話になっている樹森さんから電話があった。「ちょっと診てあげてほしい人がいるのヨ~」と、相変わらず元気な声である。

それよりも、樹森さんのところでベビーシッターをしている瀬戸さんの妹さんが、その後どうなったかが気になっていた。私がすすめて受けてもらった検査で、脳に動脈瘤が発見されたことまでは聞いていた。

樹森さんが聞いた話では、瀬戸さんの姉が脳動脈瘤破裂で急死していたので、すぐに手術に踏み切ったらしい。その後の経過も順調だと聞いて、私はやっと安心できた。樹森さんと二人で「よかった、よかった」といいあったあと、彼女は今日の電話の本題に入った。

実は彼女はかなりの売れっ子作家さんなのである。その仕事関係で、マンガ雑誌の編集者がいるらしい。その彼が担当しているマンガ家が、締め切り間近だというのにへばってしまって、仕事が進まないで困っているというのだ。

ことあるごとに樹森さんから私の話を聞いていた彼は、私ならなんとかできると思ったらしい。締め切りまででいいから、私に彼の体をもたせてほしいと頼んできたのである。

徹夜でへばっているのなら寝ればいいだけだが、その余裕がない。締め切り前の切羽詰まった状況は樹森さんにも覚えがあるから、編集者氏の頼みを無下に断ることもできなかったようだ。

いつものことながら、樹森さんから「とにかくちょっと行ってあげて」と強くいわれたら、私は断れない。今日の予定をあちこちやりくりして、なんとかその日のうちに、そのマンガ家の仕事場まで行くことになった。

うちから井の頭線に乗って吉祥寺駅で降りる。繁華街を抜けて指示された住所まで来ると、住宅街に古めかしい一軒家が立っていた。その傷だらけの木製扉の前で呼び鈴を押す。なかから「ハイ」とも「オイ」ともつかないくぐもった声がしたと思ったら、少しだけ開けた扉の間から、不健康そうな若者がノッソリと顔を出した。

彼は私の顔を見るなり、「ア、先生ですね」といって扉を大きく開けた。どこか懐かしい造りの玄関で靴を脱ぐと、すぐ手前の部屋に机が並んでいる。そこには彼と同じように疲れ切った感じの若い人が5人、机にかじりついて一心不乱にペンを走らせていた。これがマンガ家の仕事場なのか。

私が入ってきたのを見て、彼らのうしろに立っていた男性が、「あ、先生、よろしくおねがいします!」というと、スーツのポケットから名刺を出した。超がつくほどの有名出版社である。どうやら彼が樹森さんの知り合いの編集者らしい。

彼の案内で隣の部屋に行くと、座敷にふとんが敷いてあった。事前に用意したというよりも、ずっと敷きっぱなしなのだろう。にごった空気がただよっている。彼に「センセーッ」と呼ばれて入ってきたのは、彼らのなかでもひときわ疲れ切った感じのする青年だった。

編集者氏は「しっかり治してあげてくださいね!」と私にいうと、急いで隣の作業部屋へもどった。だがしっかり治すも何も、単なる睡眠不足による過労じゃないのか。そんな体を手技でどうしようもないのである。

とはいえ、とりあえず一通り体をチェックしてみると、疲れのせいで、若いのに体の張りがすっかり消え失せていた。髪もヒゲも伸び切っているから、昔うちの近所で寝起きしていた薄茶色のノライヌを思い出す。

背中を見ると、背骨に大きなズレはない。これなら問題はなさそうだ。やっぱり単に疲れているだけである。仕方がないので、一応、背骨のまわりを軽く刺激して、疲れが取れやすい状態にしてみよう。

本来なら、私の刺激でリラックスして、そのままちょっと寝てもらうと一挙に元気が回復するものである。しかし今はそのちょっとが許されないのだ。そこで、彼が眠り込んでしまわないように、会話をしながら刺激を始めた。

おどろいたことに、彼はまだ二十歳になったばかりなのだという。憧れのマンガ雑誌で連載が始まった途端、一気に人気に火がついて忙しくなった。締め切り間際には連日徹夜がつづく。おかげで、すでに父親の年収をはるかに超える収入なのだという。

その話を聞いて、私の手がピタリと止まった。マンガの世界はなんてすごいんだろう。同じ美術業界とはいっても、景気に全く左右されることなく、売れないまま絵を描きつづけている美大の仲間たちとはえらいちがいである。

私だって絵描きのころは売れなかった。だが特殊美術の仕事を始めて、テレビ局に出入りしていたころは徹夜つづきだったことを思い出していた。

当時のテレビ業界の1日は24時では終わらない。打ち合わせが26時から始まって、そのまま朝の番組の収録がスタートするのも当たり前だった。2日も3日もつづけて徹夜することだって珍しくもなかったのである。

徹夜に弱い私は、寝不足で足がむくんで靴が脱げなくなることもあった。車を運転していて赤信号で眠り込むことも多かったから、事故死や過労死のリスクは非常に高かったはずだ。

しかしそれだけハードな毎日でも、このマンガ家の彼みたいに稼いでいたわけではない。そう思うと、動きが止まったままのわが手をじっと見た。いやいや、人生は人それぞれだから比較しても始まらない。気を取り直して刺激をつづけた。

逆に疲れさせてもいけないから、今日はこれぐらいにしておこう。私はただ彼の疲れが取れることだけを祈りながら施術を終えると、隣の部屋にいる編集者氏に「終わりましたよ」と声をかけた。

彼がもどってきて「どんな感じですか」と聞いてくる。「体そのものに問題はないけど、このまま無理をさせると過労死しますよ」と昔の自分に重ね合わせて忠告しておいた。

ところが彼は、「イヤ、締め切りにさえ間に合えばイイんで」といって、先のことなど全く心配していない様子である。代わりのマンガ家などいくらでもいるという意味だろうか。やっぱりマンガ業界は恐ろしい。

こんなタコ部屋みたいなところに長居は無用である。まだ世間話でもしていたそうな編集者さんを尻目に、私はそそくさと家を出た。

いくら稼げたってあれじゃあナ。そう思うと、ボロ雑巾みたいになってマンガを描いているあの青年が哀れに思えてくる。そのまま駅に向かって歩きかけると、静かな住宅街の屋根の向こうに、街のネオンがかげろうのようにぼやけて見えた。(つづく)

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