小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

カテゴリ:小説『ザ・民間療法』 > インド編

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小説『ザ・民間療法』挿し絵004-1
世には「釣りバカ」と呼ばれる人種がいる。初めて竿を出したあたりで、いきなり大物を釣り上げてしまった人の成れの果てだ。最初に大物が釣れたのは、いわゆるビギナーズ・ラックである。たまたま運が良かっただけなのだ。だが、その感触が忘れられずにのめり込んでいく。

私の場合は、母親の発作に続いて、スタッフの腰痛まで治せてしまった。2度目の成功体験である。これで体を治す魅力に取りつかれないわけがない。それがだれも釣り上げたことがない魚だったとなれば、感激もひとしおだ。

ところが治療も釣りと同じで、いつでも大物が釣れるわけではない。逆にめったに釣れないからこそ、「今度こそは」と深みにはまっていく。釣りバカのバカたるゆえんは、そのうち大事な仕事まで放り出して、釣りに没頭するようになるからだ。

例に漏れず、いつしか私も特殊美術の仕事にはエキサイトできなくなった。腰痛を治したときの、あの興奮を再現したくて、とうとう仕事までやめてしまった。だからといって、治療を仕事にしようとも思わなかった。釣りバカが転じて、漁師になる人などまずいないのと同じである。

そこで私も、しばらくは「これからどうしたものか…」と、うつうつとしながら貯金を食いつぶして暮らしていた。そんなあるとき、友人がインドの聖者・サイババに会いに行くという。あのころは世界中でサイババ・ブームだった。彼のもとを訪れる「サイババ詣で」と称するツアーが、日本でも大人気だったのだ。

だが私は彼に興味はなかった。ただ何か変化するきっかけが欲しかった。物理的にも心理的にもインドは遠かったが、それがいい気がした。そこでツアーのグループに同行して、とりあえずインドまで渡ってみることにしたのである。

どうせ行くなら、短期の観光旅行ではつまらない。いっそのこと1年ぐらいインドに滞在して、あとは世界中を放浪してみよう。そう決めたら話は早い。まず、身の回りのものを全て処分した。インドに行くためのわずかな手荷物と現金以外は、家財道具から何から一切合切、部屋中で育てていた大量の観葉植物まで友だちに譲った。これでもう思い残すことはない。

旅立ちの朝、何もなくなってガランとした部屋を見回す。そこには俗世を離れて、このまま悟りの境地に到達できそうな静寂があった。あの澄み切った感覚は格別だった。断捨離が流行するのもわかる。しかしいくら断捨離がはやっても、私のように「転出先インド」とだけ記して、住民登録まで処分した人はいないだろう。

「インドに立つ、しかも帰るのはいつだかわからない」
そんな話をうわさで聞いた人は、私がついにインドまで修行に行くのだと思っていたようだ。もちろん本人にはそんな気は毛頭ない。私は知らなかったが、「インドの山奥で修行して~♪」という歌が浸透していたのである。90年代の前半は、まだある意味ではそんなノンビリした時代だったのだ。(つづく)
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小説『ザ・民間療法』挿し絵005-2-2
インドに到着した私は、しばらく仏跡を散策して過ごしていた。日本から同行したグループが、いよいよサイババの元へ出発する段になって、そこで彼らとは別れた。

「あなたにはサイババのところよりも、オーロビルのほうが向いている」
顔見知りになったインド人から、そうアドバイスされたからだった。

私はささいなことでは悩んだりもするが、逆に重要なことだと、後先考えずに行動に移すタイプである。この性質は、海外旅行では役に立つことが多い。それを体験的に知っていた。このときも、調べもしないでオーロビル行きを決めた。

だが同じインド国内とはいえ、オーロビルは遠いのだ。まずはカルカッタから飛行機でマドラスまで飛ぶ。今度はバスに乗り込んでポンディチェリまで行く。そこから先は、オートリキシャに揺られていけば、オーロビルに着く。

こう書いていくと、だれでもかんたんに着けると思うだろう。ところが私が教えられたオーロビルへの行き方は、「着いた先々で、地元の人に教えてもらいなさい」という至極かんたんなものだった。

「そりゃそうだよな」と思う人もいるだろう。だがこれがインドではなかなか難しい。インドなら、どこでも英語が通じると思ったら大まちがいだ。地元の言葉にしても、隣の村ですら話が通じないこともあるという。

さらに地元の人に聞くといっても、インド人は日本人とちがって「すこぶる親切」なのである。道を聞かれて、「知らない」などとは絶対に答えない。異国の人が道に迷っているのだから、何としても答えてあげようと考えるらしい。

だから、とにかく思いつくままの方向を指差してくれる。彼が、道を知っていようがいまいが関係ないのである。そうなると、あとは彼の勘を信じるか、自分の勘を信じるかだけである。

日本で暮らしていると勘など必要ないが、海外に出るとめっぽう野性の勘が鋭くなる。突然命の危険にさらされるような場面が続けば、自ずとそうなるものなのだろう。そうやって勘だけを道連れに、何とかオーロビルまでたどり着いたら、移動だけで丸々3日が過ぎていた。

オーロビルといえば、それなりの街を思い描いていたが、着いてみたらそこは広い森だった。その森の中心に、巨大な瞑想施設がある。そこを取り巻くようにして、小さなコミュニティが点在しているのだ。各コミュニティは10人程度で構成され、コミュニティごとに、自給自足の質素な生活から、プールつきの豪邸暮らしまで、それぞれが思い思いに暮らしていた。

元々このオーロビルは、インド人思想家のオーロビンド・ゴーシュとフランス人女性「マザー」らが開いたアシュラムだった。アシュラムとは、共同生活をしながら修行するところである。1960年代の終わりごろからヒッピー全盛の時代には世界中から人が集まって暮らしていたらしい。

しかし私が着いたころには、中心となる指導者はいなかった。外国人が集まって永住しているだけで、その多くはヨーロッパ各国から来た人たちだった。そこには国境も何もない。お互いを束縛する空気もない。ただ、むせ返るように濃密な花の香りに包まれて、ゆっくりと時間が過ぎていく場所だったのだ。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵006-1
はるばるカルカッタから3日もかけて、オーロビルにたどりついたものの、私には現地に知り合いがいるわけではない。とりあえずすぐにでも泊まれそうな場所を探す。そこで最初に案内されたのは、フランス人が設計したゲストハウスだった。

南フランスを思わせる瀟洒なデザインの部屋には、真ん中に天蓋付きのベッドが据えられていた。まるでおとぎ話にでも出てきそうな甘い雰囲気だ。ところが現実は甘くない。おとぎの国になどいざなってはくれない。なんといってもここは南フランスではない。暑い盛りの南インドなのである。

ベッドにレースのカーテンが下がっているのだって、優雅に見えてもダテじゃない。寝る前には、必ずそのカーテンをマットレスの下にたくし込んでおく必要があった。さもなくば、寝ている間に、ヘビやサソリがベッドのなかにまで入り込んでくるのである。

なるほど建物をよく見ると、おしゃれな見かけとは裏腹に、あちこちがすき間だらけだ。これは決して南インド仕様にはなっていない。そのすき間から侵入するのは、ヘビやサソリだけではなかった。夜になれば、天井付近を羽のある虫ばかりか、コウモリまでがワサワサと飛び交い、梁の上では、ネコかと思うほどのドでかいネズミが走り回る。そして壁にはトカゲが張り付いている。彼らはみな、室内を這い回る巨大なゴキブリを狙っているのだった。

当然のことながら、オーロビルの暮らしは室内だけが問題ではなかった。草むらを歩いていれば、私の横をコブラが音もなく追い越していく。家に入ろうとしてドアノブに手をかけると、手首の上にドサッとヘビが落ちてきたりもする。あるときなど、勢い余ってそのままヘビごと部屋のなかに入ってしまったので、地元の人を呼んでつかまえてもらった。

「こいつは大丈夫。あとで遠くに捨てて来てあげる」
彼はそういって私を安心させようとしてくれた。だがこれだけヘビがいるところで、遠くに捨ててこなければいけないようなヘビは、どう考えても「大丈夫」ではない。

この地では、部屋のなかで切れたコードを見つけたら、それは必ず動き出すのである。私はオーロビルには1年ほどしかいなかったが、その滞在中に見かけたヘビは、優に20種類は超えていただろう。そいつらのどれが毒ヘビなのかも見分けがつかない。「顔に毒を吹き付けるヤツがいるから気をつけろ」といわれたこともあったが、そんな近くでの対面は避けたい。

しかしそれだけヘビがウジャウジャいる分、そのヘビを食べるクジャクやマングースも、たくさん住んでいたからにぎやかだった。来たときにはひ弱な都会モノに過ぎなかった私も、次第にこの豊かすぎるほど豊かな自然に慣れていった。そして少しずつ自然との間合いも取れるようになり、月明かりを頼りに、裸足で散歩したりできるようにもなった。そういうときには犬を連れていく。犬は危険を察知すると、吠えて教えてくれるので安心なのだった。

私だけでなく、オーロビルではみな靴など履かない。私が暮らしたコミュニティでは、食事のときは屋外の大テーブルに集まる。フランス、イタリア、ドイツ、ポーランド、スイス、スペイン、日本。国籍は違うが、英語を介して毎日時間を忘れて話し込んだ。

しかしどんなに熱中して話しているときでも、みな足は椅子の上に乗せ、決して床には下ろさない。テーブルの下には、常にヘビやサソリがウロウロしているからだった。この習慣になじみすぎた私は、日本に戻ってしばらくたっても、なかなか足を下ろせなかった。あのころの私の行儀が悪かったのは、そんなわけだったのだ。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵007
私が暮らしていたオーロビルでは、定住者たちはオロビリアンと呼ばれていた。彼らはここで、思いつく限りのさまざまな仕事に従事している。インセンスや藍染製品、アクセサリーを作って売る人、アンティーク家具を扱う人、本格的な宝石商から、ファッション・デザイナーやマッサージ師までいた。

そのなかに、ポーランドからやってきて、長い間、ニームという木の薬効を研究している男性もいた。ニームは日本では高級品らしいが、南インドならどこでも見かけるありふれた木だ。その葉っぱの汁を体に塗ると、虫除けになるのだと彼が教えてくれた。

オーロビルは高温多湿だからか、めったやたらと蚊が多い。ヤツらには日本の虫除けスプレー程度では、全く太刀打ちできない。ところが地元の人たちは、体中にビッシリと蚊がたかっていても、平気な顔をしている。だからといって、みながニームを塗っているようでもなかった。代々ここで暮らしているうちに、蚊に対する免疫ができているのだろう。私だって、蚊に刺されたぐらいでガタガタいいたくはない。だが、蚊が相手ならまだ何とか我慢もできた。しかしこの地の敵は蚊だけではなかったのである。

ある日のこと、集会所で映画を見ていたら大雨が降った。雨水は泥といっしょになって、みるみるうちに建物のなかにまで浸入してきた。すると部屋のすみにでも隠れていたのか、壁の下からサソリが一斉に飛び出してきたのである。

サソリなんか一匹だけでも十分驚きなのに、そのときは数だけでなく、種類の多さにも目を見張った。なかにはクモとサソリの中間ぐらいの、妙な姿のヤツまでいる。どちらにしても、みなえらく足が速い。

「サソリって案外と足が速いんだな。運動会の徒競走のようじゃないか・・・」
などと感心している場合ではなかった。彼らが向かう先にあるのは、私の足なのだ。もう片っ端から退治してまわったが、なかには私に向かってピョンと飛んで来るヤツもいて、全く衝撃的な光景だった。

「サソリの毒は後から効くのよ~」なんていう歌もあったが、サソリの毒はハチに刺された程度のものらしい。しかしいざ刺されたときのために、ここではみな家に小さな「黒い石」を用意していた。その石を患部に貼っておくと、毒を吸ってくれる。そして毒を吸い尽くした時点で、石はポロリと落ちるのだという。「そんなことがあるのか?」と疑問に思ったが、結局その石の効力を試すチャンスはなかった。

新参者の私には、あれこれ知らないことばかりだったが、実はオーロビルで一番厄介なのは、サソリではない。サソリに似た、スコーピオン・アントと呼ばれる毒アリなのだ。

このアリは、木の上からポトポトと落ちてきて、下を歩いている人間の首のまわりに噛みつく。噛まれると、バチッと火花が散ったような痛みとともに、患部がひどく腫れ上がる。ここではみな、日常的にコイツにやられている。だがこの腫れも、通常なら2、3日もすると自然に治ってしまうものらしい。

ところが私はちがった。あるとき、向こうずねに電気が走った。その痛みでスコーピオン・アントだとわかったが、すぐに噛まれたところが熱をもって腫れ上がってきた。そして何日たっても腫れが引かない。そればかりか、噛まれたところから化膿して、足が象のように太くなってきたのである。

これはマズイ。こうなると伝承療法ではすまない。さすがに現代医療の出番だろう。だがオーロビルには、病院どころか診療所の類すらない。バイクで30分ほどのところに、地元の人が行く小さな診療所があるだけなのだ。

もちろん私の住んでいるあたりには電車もないし、バスもない。車を持っている人もほとんどいないから、移動手段となるともっぱらバイクなのである。

私も日本ではバイクに乗っていたので、近くのレンタル屋でバイクを借りた。ヘルメットはないが、日本とちがって、ノーヘルごときでつかまることはない。それどころか3人でも4人でも、乗れるだけ乗って走るのがふつうだ。自分一人だけならいたって快適だし、ノーヘルで風を感じて走るのは気持ちがいい。象の足のままでも、バイクの運転に支障がないのは幸いだった。

近所の人に教えられた通り、でこぼこ道を運転して行った先には、みすぼらしい診療所があった。なかに入ると、医者らしき人がいる。医者であるから、愛想がない点は日本と同じだった。

だが彼は、私の腫れ上がった足を見るなり、いきなりメスを取り出した。と思うと、化膿している患部にグッサリとそのメスを突き立てた。そして容赦なく、グルリと患部をえぐり取ったのである。説明どころか麻酔すらない。私が叫ぶ暇すらなく、わが向こうずねにはポッカリとドカ穴が開いていた。

呆気にとられている私をしり目に、彼はそのドカ穴に消毒用のガーゼをグイグイと詰め込み始めた。あまりの痛みで頭のなかが真っ白になる。気絶できたら良かったのに、と思うほどだった。

痛い体験といえば、私は以前、友人の歯科医に麻酔なしで歯を削ってもらったことがある。
私が興味本位に頼んだことなのに、彼のほうが「こりゃ拷問だな」と顔をしかめていた。あれ以来、私は痛みに強いと自負していたのだ。ところがこのドカ穴の激痛は、その比ではなかった。

しかもその後も、毎日2度ずつ拷問が続いた。傷口の消毒のために、くっついたガーゼをベリベリと引き剥がすときと、再度ガーゼを押し込むときの2度である。これが私がインドで一番痛かった体験だが、それからしばらくして、私は2番目の激痛も体験することになるのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵008
インド人には菜食主義者、つまりベジタリアンが多いといわれる。確かにインド行きの空路の機内食にも、ベジかノンベジかの選択肢が用意されていた。当然、オーロビルでもゲストハウスで提供される食事は、ベジタリアン食が基本となっていた。

最初に住んだゲストハウスでは、室内のヘビやサソリ、ゴキブリの多さに困惑した私だが、それよりもきつかったのが食事の内容だった。食事に不満をいうのは、あまり聞こえの良いものではない。しかしそこでの食事はほとんど豆が主体だったから、ベジタリアンというよりもヴィーガンに近かったのだ。

そもそもインドでは、肉食よりも菜食のほうが精神性が高いと思われている。だから地位が上がるほど、ベジ傾向が強くなる。そんな話を聞いたこともある。そのころの私も、ぼんやりとそう思っていた。

ところが暑さで食が進まないうえ、豆中心の食事を続けているうちに、180cm近い身長の私の体重が50kgを切り始めた。ベルトをしないとGパンがずり落ちる。そのベルトの穴も、一つまた一つと内側へ進み、とうとう穴が足りなくなる始末だった。

飽食が日常の都会でなら、たまのヴィーガン食も趣の一つといえるだろう。だが、連日摂氏40度を超す酷暑の南インドでは、豆だけでは体がもたないのである。このまま菜食を続けることに身の危険を感じた。「もうここでは生きていけない。こうなったら、精神性よりも目先の体調のほうが重要だ」そう判断して、別のところに移ることにしたのである。

新しいコミュニティに移っても、あいかわらず菜食がメインだった。しかしそこには専門のフランス人の調理人がいて、毎回腕をふるってくれる。しかも菜食中心ではあっても、牛と豚以外なら、肉だって食卓にのぼるのである。なかでも彼のハト料理は絶品だった。そこらで見かけるハトを見る目が変わるほど、彼の創意に富んだ料理のおかげで、少しずつ体力も回復していった。

その転居先のゲストハウスは、前のところよりも造りはシンプルだった。その分、気密性には優れている。あれこれと生き物が侵入してこないので、ベッドには天蓋も必要ない。ところが「これはよかった」と喜んだのもつかの間のことだった。気密性の高さが災いして、ベッドには大量にダニがわいていたのである。それに気づいたときには、すでに遅かった。初めの晩から、あっという間に全身数十カ所もダニにくわれてしまっていた。

痛いのもつらいが、かゆいのもまたつらいものだ。私はあっさりと降参し、マットレスを引きずり出して部屋の外に干した。そこに、わざわざポンディチェリの街まで行って探してきた殺虫剤を、「これでもか!」と入念に吹き付ける。

「そんなの体に良くないよ」
まわりで見ていた住人たちは、そうやって心配気に忠告してくれる。そりゃ私だって、肌に触れる寝具にそんなものは使いたくはない。だけど仕方がない。何といわれようと、私は肌の弱さでは定評のある日本人なのだ。ダニにくわれまくっては、かゆくて寝ていられないのである。

そんな説明を続けながら、満遍なく殺虫剤を吹き付け終わった。そこでふと顔を上げると、他の部屋の前にもマットレスが並んでいるではないか。そして次から次へと私のもとにやってきて、「殺虫剤を貸してくれ」とせがむのだ。そうやって、結局全員がマットレスをしっかり殺虫した。

「背に腹は代えられない」というが、やはり「背と腹(のかゆみに)は代えられない」のは、世界共通だったのだ。(つづく)

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