小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

カテゴリ:小説『ザ・民間療法』 > 開業編

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039
整体の学校を卒業した私は、いよいよプロの整体師として開業することにした。とはいっても、ちゃんと場所を構えて看板を上げるようなゆとりなどない。

不動産バブルは崩壊していたが、それでも東京都内の路面店となれば、べらぼうに家賃が高いのである。ここで店舗を借りようと思えば、礼金や保証金、前家賃だけで家賃の半年分以上は必要だ。最低限の安アパートを借りるだけで四苦八苦していた私に、それほどの大金を捻出できるはずもなかった。

しかも自営の整体での開業では、経営が安定するのは相当先になるだろう。そうでなくても1990年代の整体といえば、性風俗の隠れ蓑的な怪しいイメージが強かった。そんな商売に部屋を貸すとなると、大家さんとしては不安になる。不動産屋だってあまり斡旋したがらないから、審査も通りにくい。そういう時代だった。

仮にそれらの障害を乗り越えて店舗を借りられたとしても、客商売なら設備だってそれなりに揃えなくてはならない。するとますます出費がかさむ。そればかりか、どんな一等地に立派な店舗を構えたって、そこに肝心のお客さんが来てくれるかどうかは、全く別問題なのである。

どんな商売でも予想外のことが起きるものだ。開業時には半年分ぐらいの運転資金がなければ、あっという間に立ち行かなくなってしまう。開店早々、経営に行き詰まり、借金を背負って閉店する可能性も大きい。

そこで考えた。
やっぱりいきなり店を構えるのはやめよう。まずは出張専門でやってみるのだ。出張で相手の家まで行って施術するだけなら、店舗を借りなくてもいい。設備を揃える必要もない。携帯電話さえあれば開業できるじゃないか。そう決めたら、問題が一つクリアできた。

次の問題は、お客さんをどうやって集めるかだ。
昔ならチラシでも配るのだろうか。だが店舗がない以上、配布エリアが絞れない。すると範囲が広くなって、その分費用も格段に大きくなる。もちろんそのチラシの反響があるかもわからない。そんなことでは心もとないから、チラシもダメだ。

ここでふとひらめいた。それなら紹介制にしよう。
最初は知り合いに施術してまわり、その人たちから新規のお客さんを紹介していただくのだ。これがうまくいけば、路面店につきものだといわれる、タチの悪いお客を相手にすることもないし、「みかじめ料を出せ」などと脅されることもない。

逆にお客さんの立場でも、いきなり路面店に飛び込んで施術を受けるよりも、知り合いの紹介のほうが安心だろう。私のウデが悪ければ紹介されることもないから、よりフェアな関係になれる。これでまた一つ不安が減った。

あとは施術料金をいくらにするか。これも悩みどころである。
これまでは、練習台になってもらう名目で無料で施術してきた。次からはお金をいただくとなると、少しばかり気まずい。だが有料でなければプロではない。気まずいからといってあまり安くしては続けられないし、高すぎてもいけない。

出張整体の相場なんかあるのだろうか。考えてみてもわからないので、よほど遠方でなければ、交通費込みで8000円に決めた。

そうと決まったら、残るのは宣伝だ。
紹介制なのだから、知り合いに名刺を配ればいいだろう。名前と携帯電話の番号と「1回8千円」と入れて、奮発して3千枚も印刷した。これが開業のときの唯一の投資となった。

まずは挨拶がてら、一通り名刺を配って歩く。30枚も配り終えたあたりから、少しずつ予約が入り出した。最初の予約は開業へのご祝儀みたいなものだろう。全くもってありがたいことである。

そうやって知り合いからの予約が一巡するころには、今度は見ず知らずの人からも紹介で予約が入るようになった。保険の営業と同じで、営業先が身内だけでは先細りになるのは目に見えているから、これはまずまずの滑り出しだ。

ところが順調に私の手帳が予約で埋まり出したら、なぜだか「あっちが痛い」「こっちが痛い」「実は〇〇病で」という人からの予約が増えてきた。整体でリラックスしてもらえたらイイかな、くらいに軽く考えていた私には、ちょっと意外だった。

そもそも整体をはじめとする民間療法では、「治療」という言葉は使えない。「治療する」とか「治す」という表現は、医師法で守られた医師だけが使えるものなのだ。

まして何か具体的な症状を「治します」なんて、絶対にいえない立場なのに、効果を期待されても困る。整体の学校でもそこまでは教わっていない。

たしかに病院で治らない病気は山ほどあるようだし、民間療法に期待する人が多いのもわかる。それを逆手にとって、難しい病気を「治す」と評判のカリスマ治療家がいることも知っている。

彼らはテレビに出演し、それぞれの得意技をオーバーアクションでやってみせる。なかには患者の関節からバキバキッとすごい音を鳴らして、観客の度肝を抜く人もたくさんいた。

そういうスゴイことをやった分だけ、効果も大きいと思う人も多いようだが、私にはあんなことは恐ろしくてできないし、やりたくもない。

実は整体のような民間療法のプロなら、必ず傷害保険に加入している。施術によって患者の体に何か不具合が生じたら、それを保険で補償するのである。

ところが私が加入している保険では、あの関節をバキバキいわせるアジャストと呼ばれる手技には保険が下りない。アジャストは血管を傷つけたり、骨が欠けることもよくある危険な行為なので、やれば事故が起きて当たり前。そんな手技は最初から補償の対象外なのだ。

そもそもアジャストで何かが治るわけでもないので、かっこよく見えても手を出すべきではない。人体には、できるだけ大きな力や衝撃を与えないようにするのが安全だ。

私も素人のときには思いもしなかったが、プロになって経験と知識が増えてくると、人の体に触れること自体が怖くなってきた。安全第一という思いは、日を重ねるごとにさらに強くなっていく。

今では名医と評判の外科医も、初めての執刀前夜には、自分の不手際で患者が死ぬかもしれないと考えると、不安で寝つけなかったらしい。そこで思わず、「ナムアミダブツ」と手を合わせて祈ったのだという。

信仰心などなくても、自分が人の生死の鍵を握っているとなれば、そういう心境になって当然だ。そしていつしか私も、神に祈るような気持ちで、人の体に立ち向かっていくことになるのだった。(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵040
整体の仕事を出張専門で開業した私は、紹介のおかげで予約がたくさん入るようになった。これなら仕事としてつづけられそうで、まずは一安心である。ところが整体と銘打っている以上、整体を提供しなくてはならない。これが予想以上につらかった。

「整体師は白衣を着たドカタだ」と自嘲気味にいう人もいたが、実際にやってみると、予想以上に体力が必要だった。まして出張専門なのだから、店舗で座ってお客さんを待つ間に休憩するようなわけにもいかない。施術が終わったら、すぐに次の場所へ移動しなくてはならないのだ。

東京近郊限定とはいえ、今は車などもっていない私は、もっぱら電車やバスを乗り継いで移動する。これは上り下りする階段の数だけでも相当なものだった。予約がたくさん入るのはありがたいが、インド帰りで栄養失調から回復しきっていない私には、1日に何人も施術できるものではなかった。

施術中にエネルギーが切れて、絶望的に眠くなることも多かった。ほめられた話ではないが、そんなときは例の気功の技で眠ってもらう。相手がいびきをかき始めた瞬間を見計らって、私もちょっとだけ寝ることで、その場をしのいだ。

この短時間で熟睡するテクニックは、特殊美術の仕事のころに会得したものである。単なる美術作品の制作とちがって、テレビ局相手の仕事ではどうしても徹夜がつづく。車の運転中に、はげしい眠気に襲われることもたびたびあった。

そういうときは、信号が赤になったら、すかさずハンドルに突っ伏して寝てしまう。信号が青になると、後ろの車が必ずクラクションを鳴らして起こしてくれる。それを合図にパッと起きて、また次の赤信号まで車を走らせるのだ。こうやって一瞬でも熟睡できれば、かなり寝た気がするものだった。もちろんこんなことはおすすめできない。

さすがにあのころほど眠くはないが、整体をつづけることには、体力的な限界があるのを自覚するようになった。そこで私の施術は、以前使っていた、軽い力で背骨のズレをもどす技へとシフトし始めた。

体力的な問題だけではない。人から教わったことを繰り返すより、オリジナルな技を作り上げたい気持ちもあった。オリジナルに向かうのは、美術家の性癖かもしれない。だがこのやり方のほうが、具体的な症状がある人には有効なようだった。そうなると、施術のおもしろみもちがってくる。

私の習った整体では、技の組み立てがルーティンで、だれに対しても同じ施術になる。それでは特定の症状に積極的にアプローチできないし、時間も同じだけかかってしまうのだ。

最小の力で、短時間でおさまる最も効率のよい方法を見つけたい。そんな療法が開発できれば、ひょっとして新しい治療体系、ひいては全く新しい医学体系までできるかもしれない。

これはあながち無謀な夢物語でもない。以前、特殊美術の仕事のころ、テレビ局でスタッフの腰痛を劇的に治せたのだから、あれが再現できればいいのではないか。あのやり方は、私にとっては美術の延長だった。


たとえば特殊美術では、キティちゃんのような平面のイラストをもとにして、立体のキャラクターを作ることがある。その際、まずは中心線に沿って左右対称な形を作らなくてはならない。

平面から立体を作るとなると、補わなくてはいけない情報が多すぎて、相当な難題なのである。試行錯誤の結果、やっとできあがった立体物も、それがちゃんと左右対称になっているかは、目で見ただけではわからない。必ず両手で触って確かめる。そうすることで、かなりの精度で仕上げられるのだ。

この技術をそのまま人の体に応用すれば、体の中心軸となる背骨がまっすぐでないところや、骨の位置の左右のちがいがはっきりとわかる。症状があるところは、体の形がいびつになっているようなので、左右のちがいさえ確認できれば、あとはゆっくりと、背骨をまっすぐにしたり、骨を左右対称な位置にもどせばいいだけだ。

この作業なら、ルーティンな整体の技とちがって、ほぼ指先だけしか使わない。だから体力を消耗しないですむ。体力が乏しい私向きだし、年をとってもつづけられるだろう。そして何よりも大切なことだが、このやり方だと、患者さんからもたいへん好評なのだった。(つづく)


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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 041
考えてみると、人から人への「紹介」はおもしろいものだ。
以前、タモリのお昼の番組に「ともだちの輪」というコーナーがあった。そこではその日のゲストが次のゲストを指名する。すると思いもよらない人同士のつながりが見られて、番組内でも一番人気のコーナーだった。

たしか、知り合いを6人たどればアメリカ大統領までつながるという話もある。そこまでつながらなくても、私に患者さんを紹介してくださる輪も、今では紹介の紹介程度まで広がった。もちろん仕事なのだから、紹介は多ければ多いほどありがたい。

ところが私が忙しくなると、自分の予約が入れにくくなってしまうのを心配して、「だれにも教えない」と心に決めている人もいた。それを本人から聞いても悪い気はしなかったし、人間の心理としても興味深かった。

その一方で、まわりの人に宣伝しまくって、次から次へと紹介してくれる人もいる。そんな一人に友人の近野さんがいた。

看護師をしている近野さんは、職場で疲れが溜まっていそうな同僚を見つけては、私の施術を受けるようにすすめてくれたのだ。おかげで私の患者には医療関係者がやたらと多くなった。ときには勤務先の病院に呼ばれて、診察台のうえで医師や看護師さんたちに施術することまであった。

そんなご縁から、ある助産師さんたちの職場にも呼ばれたことがある。
助産師の仕事は出産の補助だけではない。彼女たちが別名「おっぱい先生」と呼ばれているのは、産後のお母さんたちに授乳の指導をしたり、母乳の出が悪い人には、乳房をマッサージして改善させたりもするからである。

助産師として出産に立ち会うとなれば24時間体制だし、そのうえ授乳の改善は重労働なのでみな疲れ切っていた。そこで私が、彼女たちの疲れを取るために助産院に通うことになったのだ。

ところがそのうち、母乳の出が悪いお母さんたちからの依頼も増えてきた。
母乳が出にくい人は、もともと体調がすぐれない。出産の疲れも取れないのに授乳は昼夜を問わないから、睡眠不足でますます体調が悪化する。その結果、さらに母乳の出が悪くなって、しまいには乳腺炎にまでなってしまう。

しかしそういうお母さんたちでも、背骨のズレをもどしてあげると母乳の出がよくなった。そんなことが関係あるのかと思う人もいるだろうが、背骨がズレていると筋肉が固くなって血流が悪くなる。母乳は血流が命ともいえる存在なので、血流の改善が母乳の改善に直結しているのだろう。

そんなこんなで私の出張整体は、一時は「母乳専門か?」と思うような方向になっていた。しかし誤解も生じやすいので、若い女性の胸のあたりにはできるだけさわりたくないのだ。おかげで私にとっては緊張の日々なのだった。(つづく)

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 042


私の整体は出張専門なので、いろいろなお宅に出かけていく。
一人暮らしの小さなアパートから高級住宅街の豪邸、企業の会議室や高級ホテルにいたるまで、行き先はさまざまだった。

友人の近野さんのおかげで(せいで)、私の患者には医師をふくめた医療関係者が多くなっていた。先日も近野さんの紹介で、高橋さんというお医者さんのお宅にうかがった。

高橋さんは東京都内で大学病院の消化器科に勤務しているそうだ。たとえ相手が医師だろうが、さしあたって他の人に施術するときとのちがいはない。

ところがいつも通りの施術で軽くおなかに手が触れたとき、手のひらに何か異質な感触のものが当たったのである。それは腸のあたりだった。

「これは何だろう」
口には出さないが、気になって丹念にその部分を指先でなぞって調べていると、高橋さん本人も「わかりますか」と聞いてくる。

実は彼も、前からその部分の異常な感触が気になっていた。自分の専門領域なので、職場で一通り検査してみたが、それが何であるかははっきりとはわからなかったのだという。

「何でしょうね?」と聞かれたが、専門の医師が調べてわからないものが、ついこのあいだ整体で開業したばかりの私にわかるわけがない。そもそも民間療法では、何かの症状に対して病名を診断する行為すら、法律上は許されていないのだ。

だがこの体験が、私にとって大きなターニングポイントとなった。
今までは特殊美術で使っていた技を使って、骨についての異常ならかんたんに見つけられるようになっていた。しかし骨と内臓はちがう。内臓となると体の外から見ても、手でさわってみても何がどうなっているのかよくわからない。

昔見た時代劇で、女優さんが「おなかの子が!」といいながら胃の位置に手を当てていた。それぐらい、一般的には内臓の異常どころか、それぞれの位置すらわからないものなのだ。

ところが特殊美術の技術を使えば、手で触れることで内臓の形だけでなく、質感のちがいも識別できることがわかってきた。しかもこの技術は大して特別なものでもないようだ。

洋服の表面をサラッとなでて、その生地が綿か絹か化繊かを当てるぐらいはだれでもできる。別に指でさわらなくたって、着た瞬間の肌触りでも、それぐらいのちがいはすぐわかる。

このセンサーを人の体に応用すると、内臓の形や質感のちがいだって判断できるようになる。しかも何か異常のある内臓は、しこり状態になっていたり、逆に弾力が部分的に失われていたりして、健康な状態とは明らかにちがっている。まるで「私はここにいますよ」と訴えているようなのだ。

こういうことがわかり始めると、私のなかで人の体に対する関心が、いわゆる健康のカテゴリーからははずれてきた。そしてだんだんと美術のモチーフになっていった。

ひょっとして医学というのはアートの延長なのだろうか。いや、むしろアートそのものなのかもしれない。そんなことを考えるようにもなっていた。この先には何があるのか。そう思うと、とてつもなくエキサイティングなのだった。(つづく)

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 043
私の親しい友人である寺田さんは、ロック専門の音楽事務所をやっている。彼の紹介のおかげで、ロックミュージシャンたちからの予約も多くなっていた。

音楽の好みとしては、私はロックよりも圧倒的に藤圭子のファンである。だが、私は金髪のロングヘアーだし、(栄養失調で)細身の体に黒革のパンツを履き、(インドで仕入れた)ごつい装飾品をジャラジャラいわせていたせいで、「ロッカーですか?」と聞かれることが多かった。

寺田さんからも「オレらより、よっぽどロッカーっぽいよな」といわれていたほどだから、彼らとしても親しみやすかったようだ。

そのうちの一人である鈴木さんから、先日、彼のコンサートに誘われた。藤圭子ならなんとしても行きたいが、ロックとなると、その日は何か用事ができそうな予感がする。

そもそも私はロックコンサートで客席が総立ちになるのが苦手だ。そういって断ろうと考えていたら、先を見越した鈴木さんから「Mセンセイには座ったままでいられる席を用意しました」といわれてしまった。

ロッカーに似つかわしくないキラキラした目でそこまでいわれては、これはもう断れない。あきらめて出かけることにした。

コンサート当日。その日は仕事先から渋谷の会場へ直行する。かなり大きな会場の周辺は、いかにもロック好きそうな若者で混み合っていた。私もいつも通りロッカー風だから、ファッション的には目立たないだろう。つらくなったら途中でこっそり帰らせてもらおう。

ところが約束通りに用意されていた私専用の特別席を見ると、えらく目立つ場所である。こんなに前の席では途中退場するわけにもいかない。開始前から興奮で浮き立つ観客たちに囲まれて、場ちがいな沈んだ気分で腰を下ろす。すると私を待っていたかのように、耳をつんざくギターの音とともにコンサートが始まった。

いきなり熱狂の渦が私の席以外を包み込む。この時点ですでにつらい。始まったばかりだというのに、「もうあと何分だろう・・・」とそんなことばかりが頭に浮かんでくる。

そうやってじっと耐えていると、熱狂がだんだんと静まり始めた。気づくと、私の前にある巨大スピーカーからは何の音も聞こえてこない。今度は会場がざわつき始めた。

「なんだろう」そう思って見上げると、ギターを弾きながら歌っていたはずの鈴木さんに、何か異変が起きたらしい。彼のまわりにはスタッフが集まっている。どうやら手がつって、演奏ができなくなってしまったようだ。その状況を観客は固唾をのんで見守っている。

すると突然、鈴木さんがマイクを握った。そして必死の形相で、「Mセンセイはいますかーッ!お願いしまあああすッ!!」と叫んだのである。

「え? 私!?」

彼の突飛な絶叫に観客がおどろいている。だが呼ばれた私はもっとおどろいた。あわてて楽屋まで行くと、ステージからもどった鈴木さんの手を、スタッフが冷やしているのが見えた。

ロックやヘビメタのミュージシャンは激しい動きが信条だ。特にヘッドバンギング、通称ヘドバンによる頭を振る動きのせいで、首の骨が大きくズレてしまうことが多い。そのズレによって頭痛や吐き気が止まらない人もいるし、手に痛みやしびれなどの症状が出る人もいる。頻度からいっても、これは立派な職業病なのである。

鈴木さんをみると、やはり首の骨が大きくズレていた。彼の体には慣れているので、わりと安心して軽くズレをもどしてみると、すぐに手が動くようになった。彼は骨のおさまりもいいほうだから、これでもう大丈夫だろう。

「ヨシ、これなら」ということで、鈴木さんは勢いよくステージへもどっていった。その後ろ姿を楽屋から見送った私は、この日の役割を果たした気がしたので、そのまま会場をあとにした。

「やっぱり私にロックは向いていない」

そんな言葉をかみしめながら、やっと取り戻した静寂に包まれて家路についたのだった。(つづく)


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