小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

カテゴリ: Essay

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 私は日本でもっとも美しい仏像は、法隆寺の百済観音像だと思っている。

百済観音像といえば、飛鳥時代を代表する仏像の一つである。

その左右対称ですらりとした八頭身は、アルカイック様式を思わせる。


 しかし日本では、このようなプロポーションを持つ仏像は他にはない。

日本のほとんどの仏像は、顔が大きくて寸胴で脚が短い、まるっきり日本人体型そのものなのである。

渡岸寺の十一面観音像にしても、あれだけ美しい姿でありながら、脚は極端に短い。

なぜ日本の仏像はこんなに脚が短いのだろうか。


 以前読んだ本には、拝観者が仏像を仰ぎ見るのに都合が良いように、下半身を短くしてあるのだと書かれていた。

当時はその説明で納得していたが、よくよく考えてみればそんなわけがない。

仏像を見上げるのなら、遠近法では逆の表現になるはずなのだ。


 遠近法には、大きく分けて線遠近法と逆遠近法とがある。

線遠近法では遠くのものを小さく、近くのものを大きく表現する。

一般的に遠近法として知られているのは、この線遠近法のことである。

逆遠近法では、その反対になる。


 信仰の対象となる仏像であれば、大きさを強調するためには、線遠近法を用いて脚を長く上半身を短くしたほうが、より効果的だ。

現に百済観音像の場合は、そのように造られているのである。

それなのに、なぜ日本の仏像の多くは逆遠近法で造られているのだろうか。


 実は遠近法と逆遠近法には、遠近の向きだけでなくもう一つ大きな違いがある。

それは視点の違いなのだ。

線遠近法の場合は、作者は鑑賞者と同じ視点に立って、見る側の目線で対象物を造り上げる。

ところが逆遠近法となると、作者の視点は対象物の側に立つ。

そして内側から鑑賞者を見る。

つまり、視点が180度逆転するのである。

すると日本の仏像を造った仏師の目線は、拝観者の側ではなく仏の目線だったことになる。

日本の仏像の脚が短いのは、単にわれわれに似せたわけではなく、仏が衆生を見下ろしている形を表現した、特殊なものだったのだ。(花山水清)

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地球ものがたり インカの村に生きる
関野 吉晴
ほるぷ出版
2012-11-01

 昨日から、探検家の関野吉晴氏の『インカの村に生きる』という本を再読している。

ここに登場する「インカの村」とは、ペルーの標高4300mの高地にあるケロ村のことだ。

標高4300といわれてもピンと来ないだろうが、富士山よりもさらに500mも高い。


 このケロ村では、インカの時代とほぼ同じ、自給自足の生活が続いている。

本書では、そのケロに生きる人々の暮らし、貴重な習俗の記録が、数多くの写真で綴られているのだ。

どうしてこれほど美しいのか、ため息が漏れる。

この写真の美しさもさることながら、ファインダーを覗く彼の視線もすばらしい。


 だがさらに驚かされるのは、彼の体力なのである。

ケロ村までは車の通れるような道もなく、岩山を縫うようにして徒歩で登っていくしかない。

しかも、平地ではない。

標高4300mである。

当然、空気も薄いのだ。


 高山病は2500~3000mぐらいで発症するといわれている。

日本人に人気の高いあのマチュピチュ遺跡は標高2400mだ。

あそこでは、近くまでは行ったものの、高山病で目的地まで到達できない人も多いし、毎年何人もの日本人観光客が、高山病で亡くなっているときく。


 以前、恩師の相沢韶男先生が、バスでチベットのラサに向かった。

途中で立ち小便しようと思って下車したら、先に用を足していた人がそのままバタッと倒れた、と話してくれた。

そのラサだって標高3600mだ。


 かつて私も、ヒマラヤのふもとにあるガントクという街に行ったことがある。

ガントクには、軍隊しか通らないような険しい道を、延々と登っていくのだ。

いたるところに崖崩れがあり、谷底は遥か彼方にかすんで見えた。

そこでせいぜい標高2000mぐらいだったが、私にとっては大冒険だった。


 ケロはそこからさらに2000m以上も雲の上なのだから、尋常ではない。

そこに大荷物を背負って徒歩で行くなど、信じがたい体力だ。

高地となれば気温差も大きいはずだから、私など到底生きてたどりつける自信はない。

運良く到達できたとしても、また歩いて降りてくるという試練が待っている。

そんなことに思いを巡らすと、軽いめまいとともに、この写真の1枚1枚のありがたみが、さらに脳天に沁みてくるのであった。(花山水清)

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 日本で最初に銀行を創ったことで知られる渋沢栄一が、新一万円札の顔に決まった。

選考の経緯は知らないが、彼の経歴をみれば、これまで登場しなかったのがおかしいほどだろう。

実は渋沢栄一は私の祖先に当たる人物なのである。

ただし、祖先といっても血の繋がりはない。

そしてここからの話が少々長くなる。


 渋沢栄一の孫が、日本の民俗学の基礎を築いた渋沢敬三である。

その敬三の一番弟子だったのが、歩く巨人とうたわれた宮本常一であった。

さらにこの宮本の愛弟子が、私の師である相沢韶男だ。


 相沢には萱野茂という友人がいた。

萱野茂といえば、二風谷アイヌ資料館を作り、アイヌ文化の保存に尽力したことで有名な人物である。

相沢は『萱野茂アイヌ語辞典』の編纂や、アイヌ民具の実測などを通して、彼とは何かと交流があったのだ。

そんなある日、相沢と萱野の会話で、渋沢敬三の話が出た。

萱野は「オレは金田一京助先生を介して渋沢敬三の孫弟子に当たる」といって、暗に相沢より自分のほうが上だと自慢した。

それを聞いた相沢は、後で宮本常一にあったときに、「宮本先生は渋沢敬三の弟子ですよね。すると私は渋沢の孫弟子と名乗ってもイイわけですか?」とたずねてみたのである。

すると宮本は、腕を組んでしばらく間をおいてから、「ウン、イイ」と大きく頷いた。


 そんな話を、私は相沢先生と飲んでいるときに聞いた。

そこですかさず私も「つーことは先生、なんですか、相沢先生が渋沢の孫弟子ということは、私は渋沢のひ孫弟子ということでイイんですか」と聞き直してみたのである。

すると先生はおもむろに腕を組み、しばらく間をおいてから「ウン、イイッ」と大きく頷いてくれた。

というわけで、新一万円札の渋沢栄一は私の祖先に当たるといえるのだ。

だからといって、私のもとに多めに渋沢先生が集まってくるわけではないことはいうまでもない。(花山水清)

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 先日、北海道の海辺でキテン(ホンドテン)を見かけた。

岩場でチョロチョロと愛らしい動きを見せたと思ったら、突然、海に潜ったのである。

テンが海に潜る?

こんなシーンを見た人など、めったにいないのではないだろうか。

海水でずぶ濡れになって岩に上がり、プルプルと体を振ってしぶきを飛ばす姿は、何ともいえずかわいかった。


 そういえばずっと前にも、もっと衝撃的な場面に出会ったことがある。

あれは今から30年以上昔のこと、北海道の大雪山系に岩内仙侠までドライブした。

そこから山道を車でさらに奥へ進むと、森のなかに名も知らぬ小さな沼があった。

人が立ち入ることなどほとんどない、いつクマが出てきてもおかしくないような、そんなところだった。


 私がその沼に見とれていると、目の前にとつぜん1メートル以上ある動物が泳ぎ出し、そして水のなかに潜っていったのである。

ほんの一瞬のできごとだったが、私の頭のなかには「カワウソ!」という文字が点滅していた。


 私はある博物館で、絶滅したといわれるニホンカワウソの剥製を見たことがあった。
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あのとき沼で遭遇したのは、そのニホンカワウソと同じものだったのだ。

もちろん、北海道でもニホンカワウソはとうに絶滅している。

見まちがうとしたら、テンか野生化したミンクしかない。

だが、それでは大きさが違いすぎる。

今でこそ、ペットとして輸入されたカワウソを飼うことがブームらしいが、30年も前にペットのカワウソなどいなかった。

だから、ペットが逃げたものでもない。


 やはりあれはオオウソ・・・いやオオカワウソだったことはまちがいない。

そして今でも、美しい沼の風景とともに、あの映像は私の脳裏に焼き付いているのである。(花山水清)
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 昔、インドの田舎でゲストハウスに住んでいたことがある。

ある夜、日本から電話があった。

電話があったといっても、電話機があるのは私の部屋から100m以上も離れたところである。

そこまでの道のりは、ちょうどその日の昼間、コブラが出て大騒ぎになった草むらを抜けて行かなければならない。

徒歩だし、もちろん街灯などない。

真っ暗ななかを、懐中電灯を頼りにしてやっとたどりついたら、電話口からは懐かしい日本語が響いてきた。


 電話を切って、また暗い草むらを抜けて部屋まで戻ると、玄関口で何やら動くものがある。

あわてて懐中電灯で照らすと・・・サソリだった。

昼がコブラで、夜、サソリ。

しかもちょっとしたロブスター並のサイズである。

電話一本受けるのも、かなり命がけなのだった。


 その後、間もなくして日本に帰ったが、私には住むところがない。

仕方ないので、しばらくは知人の家に居候していた。

はるばるインドまで電話をかけてくれたのも、居候させてくれたのもこの人、スタント界のレジェンド、高橋勝大さんである。

通称「ボス」、私もそう呼んで、長いことお世話になってきた。

インドから帰ったばかりの私は栄養失調だった。

体重が50キロにも満たない状態だったのに、ボスのお宅で三度々々豪華なタダ飯をいただいて、生き延びたのである。

私が今(命)あるのは、ボスのおかげだ。


 私の大師匠である民俗学者の宮本常一も、当時の日銀総裁だった渋沢敬三の邸宅に居候していた。

渋沢から、「日本一の食客」といわれていたという逸話もある。

その環境があったればこそ、彼は民俗学であれだけの業績を残せたのだ。

果たして私の場合はどうだろうか。


 ボスの体には、40数ヶ所もの骨折の痕がある。

「身体を使うことに関しては、誰にも負けたくなかった」という言葉の通り、スタントマンとしてやむを得ない事情もあっただろうが、他人にはいえないほどの痛みを抱えて生きている。

私が治療の世界に足を踏み入れてからは、その一つ一つを練習台にさせてもらってきた。

その成果の結晶が、現在のモルフォセラピーなのだ。


 あれからもう四半世紀が過ぎようとしている。

今では大勢の人が、モルフォセラピーの技術の継承者となり、世界へと飛び立っていった。

ボスは私の恩人というだけでなく、モルフォセラピーの功労者でもあるのだ。

 
 そのボスが最近、スタントマンとしてだけでなく、生身の人間としても生き様が注目されている。

特にこのインタビュー記事(「常に最善の準備で先手必勝を。スタント界の生きる伝説・髙橋勝大さん|クレイジーワーカーの世界」)など、極めておもしろい内容になっている。

彼ほど「粉骨砕身」という言葉が似合う人もいないことがよくわかる。

このインタビューがそのまま本になってくれたらいい。

題名は『仕事に(文字通り)命を懸けた男』、副題は「日本一痛い思いをしてきた男の生き様」にしよう(笑)


 このインタビューのなかでボスは、「僕はすごく神経質で臆病なんです」と語っている。

命懸けの仕事だからこそ、本人が大胆で向こう見ずなタイプでは、命がいくつあっても足りない。

だからこそ、細心の注意を払って準備をし、結果が読み切れる状態で仕事に臨むのだ。


 恐れ多いが、私も似たところがある。

体を扱う仕事である以上、慎重で臆病でなければ、患者にとっては危険なだけだ。

他人様の体で一か八かの冒険をするわけにはいかない。

だから、施術者は神経質で臆病であるべきだと思っている。

これも、ボスから教わったことなのかと気づくと、またしても頭が下がるのであった。(花山水清)

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