013 小説『ザ・民間療法』挿し絵

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オーロビルでは有名な話がある。

あるところに、がんにおかされて医師からも見放された男がいた。彼はダライ・ラマのところに行けばチベット医学の秘薬があると聞いて、人づてにダライ・ラマを紹介してもらった。そこで手渡された秘薬を飲んだら、がんが消えてしまったというのである。

この話が本当かどうかはわからない。しかし歴史上、チベット医学はインドの伝承医学であるアーユルヴェーダにも、多大な影響を与えてきた存在だ。だからそういう奇跡のようなこともあるのかもしれない。

アーユルヴェーダは、エステティックサロンを通して、日本でもよく知られるようになった。だが本来のアーユルヴェーダは、薬を使った治療がメインで、インドではアーユルヴェーダによる医師資格も認められているのである。

もちろんインドの薬局では、現代医学の薬の他にアーユルヴェーダの薬もたくさん売られている。しかしインド人の多くは、現代医学のほうを信じているようだ。現代の中国人が、漢方医学よりも現代医学を信頼しているのと同じことだろう。

あるとき、これだけ暑い日が続くにもかかわらず、私はかぜを引いてしまった。かぜぐらい寝ていれば治るものだが、咳が止まらない。あまりにも咳が続くので、眠ることさえできないのである。これには弱った。

私は体調が悪くても、薬を飲む習慣がない。いざというときでも、極力飲まずにすませたいと思っているから、薬嫌いの部類に入るだろう。だがこれだけ眠れない日が続くと、私が頼りにしている自然治癒力まで落ちてしまう。日本ならいざしらず、ここでこれ以上体力が落ちるのは避けたい。そこで仕方なく、わざわざポンディチェリにある薬局まで、咳止めを買いに行ったのである。

店に入ると、ギョロ目でいかつい顔をした店主が、ヌッと奥から現れた。私が「何日も咳が止まらない」というと、ニコリともしないで、「ふつうの薬とアーユルヴェーダの薬のどっちがいいか」と聞くのである。インド航空の機内食で、ベジかノンベジかを選択するのにも似て、これはインドでは当たり前のことなのだろう。

私は、咳止めの薬なんか大して効かないだろうと軽く考えていた。そこで単なる好奇心から、アーユルヴェーダの薬を頼んでみた。すると店主は、「ふん」と鼻を鳴らしただけで、店の奥に消えた。私がしばらく待っていると、彼はラベルも貼っていないボトルを手にして戻ってきた。

そのいかにも手作り風のボトルを見ると、薬というよりも食品衛生上の不安がよぎる。彼は、「くれぐれも飲みすぎないように」とだけ告げた。「飲み過ぎたらどうなるのだろう?」と思うと、さらに不安が増す。しかし自分で頼んだのだから仕方がない。いわれるままに40ルピーほど払って帰ってきた。

部屋のベッドに腰掛けて、改めてボトルを見る。このアーユルヴェーダの咳止めは、シロップになっているようだ。付属の小さなカップに1杯を、朝晩2回服用するのである。昭和40年代あたりまでは、日本の薬局でも胃薬などはその店のオリジナルの薬を売っていた。だが異国の地で、得体の知れない薬を飲むのは勇気がいる。そうやって躊躇している間も、ひっきりなしに咳は続いていた。

得体が知れないといえば、東京で暮らしていたころ、知り合いの台湾人から薬をゆずってもらったことがある。私から頼んだわけではない。大変高価な漢方薬が手に入ったからといって、好意で勧めてくれたので断れなかったのだ。おかげで、乾燥したコブラの卵を飲むはめになってしまったが、口に入れた瞬間のあの強烈なカビ臭さは、とうてい忘れられるものではない。

ところが同じ不気味さではあっても、コブラの卵と違ってこれは単なる咳止めシロップである。あそこまでひどい味ではないだろう。そこで意を決して、指定のカップ1杯のシロップをのどに流し込んだ。

途端にブルッと震えが走った。ムチャクチャ甘い! 猛烈に甘い! 甘さのベクトルが、壁を突き破ったように甘いのである。これほど甘いものを口に入れたのは、いったいいつ以来だろう。人生初の甘さだったかもしれない。こんな味があるのかという衝撃はあったが、それでもコブラの卵よりはましだった。

私は、しばらくその怒涛の甘さに気を取られていたが、ふと気づくと咳が出ていない。あれだけ来る日も来る日も続いていた咳が、もののみごとにピタリと止まっているのである。それに気づいた途端、今度は改めて恐ろしさがこみ上げてきて、またブルッときた。

日本でも、のど飴をなめているうちに咳がやわらぐことはある。しかしその効果は、のど飴に含まれている薬の効果ではない。飴をなめることで、唾液によってのどが潤うからである。
ところがこの激甘シロップにこれだけ即効性があるとなると、明らかに薬の成分によるものだ。きっとこれはエフェドリンの効果なのである。日本の咳止め薬でも、薬効の主成分はエフェドリンだ。しかしエフェドリンは麻薬的な効果も大きいので、日本の薬事法では容量がかなり制限されている。その分、効きも悪いのだ。

しかしこの咳止めシロップはちがった。もちろんインドにも薬事法の制限はあるはずだが、日本とはレベルがちがう。これだけの効果であれば、かなり危険な量のエフェドリンが入っているはずだ。これなら副作用で、ある一定数は死んでいるかもしれない。咳は止まったけれど、心臓も止まったというのでは笑えない。

確かにアーユルヴェーダには、優れた秘薬が存在するのかもしれないが、「命と引き替えに」というただし書きが必要かもしれないな。そんなことを考えているうちに、咳から解放された私は、やっと眠りについたのだった。(つづく)

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