*小説『ザ・民間療法』全目次を見る

*応援クリックもよろしくお願いいたします!

にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング

久々の日本は真夏だった。
ところが連日40度を超すインドの気候に慣れた身には、30度台では暑くない。むしろ寒い。栄養失調でガリガリに痩せた体ならなおさらだ。
こんなときは家でゆっくりと温かいフロにでも浸かって、長旅の疲れをいやしたい。
だが、私には帰る家がない。日本を出るとき、家どころか生活道具から住民票にいたるまで、一切合切を捨ててインドに渡ったのだから、今の私はホームレスなのである。
どうしよう。
国籍だけはあるから、何とかなるか。しかし現実はそれほど甘くはない気もしてきて、成田空港の到着ロビーでしばし考え込む。
そういえば出国のとき、友人たちは「帰ってきたら寄りなさい」といってくれたはずだ。それを思い出して、胸のなかにポッと灯りがともる。
イヤ待て。
転居通知のハガキに「お近くにお立ち寄りの節は」と書かれていたって、文面通りに新居に押しかける人などいないではないか。
迷惑かな。そりゃメイワクだよな。
ところがどっこい、私はインド帰りである。彼の地では、ダメモトで何でもいうだけはいってみるものなのだ。
怖じ気づいている場合ではない。とりあえず手帳にメモしてある友人にかたっぱしから電話して、「泊めてくれ」と頼んでみた。すると予想外に、だれも断らない。みな快く受け入れてくれたのである。
ありがたい。これで当面の居場所は確保できた。
まずは、銀行通帳と印鑑を預けてあるマリちゃんちに行こう。この通帳と印鑑だけが、日本での私の持ち物の全てだから、受け取るついでに泊めてもらうことにした。
つかの間の安心感に包まれた私を乗せて、リムジンバスが静かに走り出す。車窓を流れていく風景を眺めていると、ふと私の周りに異空間が広がり始めた。
何かがちがう。
インドでは都会はもちろん田舎だって、どこへ行っても混沌とした喧騒がやさしく私を包んでいた。
ところが日本では、これだけ大勢の人がいても叫ぶ人など一人もいない。こんなに車があるのに、けたたましいクラクションの音も聞こえてこない。
バスが走っても土ぼこりも立たない。デコボコ道で揺れて、バスの天井に頭を打ちつけることもない。高速道路には牛もラクダもいない。
大きく息を吸い込んでみても、あの濃厚な花の香りもスパイスの匂いもしない。まして、シートの下にコブラやサソリも隠れていない。こんな「ないない尽くし」の日本では、周囲の人間から身を守る必要すら「ない」のだ。
だがこの雰囲気は、あまりにも安全過ぎて身の置きどころがない。安全と安心はちがうというが、戦地から帰還した兵士もこんな感覚なのだろうか。いや、インドを戦地と比べてはインドにも兵隊さんにも失礼だ。
そういえばインドから帰国した人間の一部は、ある風土病に感染しているらしい。一度この病気にかかると、せっかく母国に帰っても一向に環境になじめないのだという。
「かぶれ」と呼ばれるこの風土病は、インド型のほかにアメリカやヨーロッパなどの西洋型もあるようだ。語尾に「ざんす」がつく「おフランス型」、何かと肩をすくめてみせる「アメリカ型」などの症状は有名だが、「インド型」にかかった人は、他人に会うとつい両手を合わせて「ナマステ」と口走る。
症状はファッション感覚にまで及び、色褪せたTシャツに冬でも素足に革サンダルを好むようになってしまう。こうなると外から見ただけでも診断がつく。私のなかに立ちのぼってくる周囲への違和感からすると、私もすでに感染しているのかもしれない。
そんなことを考えているうちにリムジンバスは終点に着いた。そこでは出国前と変わらぬ笑顔でマリちゃん夫妻が出迎えてくれた。
その懐かしい顔を見てホッとしたが、バスを降りた私を見た二人は、口々に「痩せたね~!」「焼けたね~!」といって目を見張る。
インドなら、どれだけ痩せていようが日焼けしていようが全く目立たないが、彼らの目にはいかにもインド帰りに見えたことだろう。
そんな久々の再会を祝って、マリちゃんの夫のコタくんが、「まあ、1本」といってタバコをすすめてくれる。
「お、紙巻きだ」
インドでは、乾燥させたタバコの葉を丸めただけのビリが一般的だから、紙巻きは高級なのである。ありがたくおしいただいてから、火を着けて一息つく。
すると今度は「どうだ、軽くなっただろう?」とコタくんが同意を求めてくる。
「ホウ?」
私が手のなかでタバコの重さを確かめていると、二人が顔を見合わせる。その表情から察するに、どうやら私はかなり妙になっているようだ。
「タバコが軽い」といえばニコチンやタールの話だし、日本では紙巻き以外のタバコのほうが珍しい。そんなことはすっかり忘れていた。
そういえばインドでは、日本語を使う機会がほとんどなかった。コミュニティのメンバーとの夕食の際、それぞれの国でネコのことを何というかが話題になったことがある。
スペイン、フランス、ドイツと回ってきて、いざ私の番になったら、ネコという言葉が出てこない。「あれ? キャットはキャットだろう」という言葉だけが頭のなかで繰り返されていた。
自分でも脳血管障害かと疑ったほどだから、私の「かぶれ」は帰国よりずっと以前に発症していたのかもしれない。
その場を何となくごまかして、やっとたどりついたマリちゃんの家でも、食事のときに私は両足を床に降ろすことができなかった。
それからしばらくたっても、靴のなかに何もいないか確かめてからでないと靴が履けないし、ペットボトルの飲料を買ったら、キャップが開いていないかも入念にチェックする。サンダルを買うときには、左右のサイズが同じかどうかを確かめている自分にも気がついた。
まちがいない。劇症のインド型だ。もちろん治療薬などないから、ただひたすら自然治癒を待つしかない。
こじらせてさらに重症化するようなら、日本での暮らしに支障が出る。そうなるともうインドへもどるしかないが、それは私の体力ではムリなのだ。
そうだ。私は体力を回復するのが先決だ。
マリちゃんちに2晩泊めてもらってから、次の友だちの家に向かう電車のなかで、そう心に決めた。体力さえもどれば何とかなる。あとのことはそれから考えればいいだろう。(ナマステ)(つづく)
*応援クリックもよろしくお願いいたします!

にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング