*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 034

「私は気功に向いているのかもしれない」

そう思うと練習が楽しくて仕方がない。毎週、日曜にナカバヤシ先生のお宅に行くのが待ち遠しいほどだった。夢中で通い続けてしばらくたったころ、ようやく治療のための気功を教えてもらえることになった。

治療に使う「気」というのは、相手を倒すための「気」とは全くちがった種類なのである。しかも漢方医学では、各臓器ごとにそれぞれちがった「気」があって、気功師は患者の病態に合わせて、それらの「気」を使い分けて治療に当たるのだ。

たとえば、胃の「気」が弱くなったり強くなりすぎたりすると、胃が病気になる。それに対して気功師は、自分の胃の「気」を患者の胃に送ってパワーを補ったり、逆に強すぎる「気」を弱めたりする。そうやって「気」のバランスをとることで胃の病気を治すのだという。

気功で病気治療をやるには、まずは自分のそれぞれの臓器から、「気」を出せるようにならなければならない。なかでも気功治療でもっとも重要なのは、腎臓から出す腎気(じんき)である。

腎気は生命の「気」とも呼ばれる。したがって、治療で無闇に腎気を使っていると、自分の生命エネルギーが無くなってしまうのだ。だから腎気を使うのは、よほど重病の人を治療するときに限定し、しかも少量を効率よく使わなくてはならない。

これらの「気」をちゃんと使い分けられるようになって初めて、気功治療が行えるようになる。つまり、なんでもかんでも「気」を出せればいいというものではない。そこがバトルのときとちがうところである。

また同じ「気」でも、その質には良し悪しがある。良くない「気」は邪気と呼ばれる。邪気は病気の原因になるので、すみやかに取り払わなければならない。

ところが気功師が邪気を払おうとすると、そいつがモゾモゾと手から入り込もうとする。だからこそ、自分を守るためにも、邪気を払う技術は非常に重要になってくるそうだ。

なんだか恐ろしげな話である。ここでひるんでいる場合ではないので、まずは一つ一つの内臓に対応した「気」の出し方から練習する。

確かに、相手を倒すときに出す「肺気」とちがって、治療目的の「気」を出すには相当繊細なテクニックが必要だ。イメージした臓器から「気」が出せているのか、自分ではよくわからない。確かめようにも確かめようがないところもむずかしい。

ここまでで、とりあえず気功治療への理解は深まったと思うが、果たしてこれで本当に病気が治るのだろうか。ここがいちばん肝心なところである。

そういえば、まだナカバヤシ先生が病気を治しているところは見たことがない。一度見てみたいものだ。そう考えていたら、ちょうど腰が痛み始めた。われながらなんと都合がよい体ではないか。

そこで恐る恐る、先生に気功で腰を治してもらえないか頼んでみた。すると先生は「ヨシッ」と応じて、私の腰に手を当てた。手を当てて「気」を入れるときには手の平を患部に密着させる。こうすると、「気」をもらさず体内に送り込めるのだ。

手を当ててもらっていると、ジンワリと腰に心地よさが伝わってくる。手のぬくもりのせいかもしれないが、3分もするとなんとなく腰が軽くなってきた。さきほどまでのズキズキとした痛みも消えたようだ。

これが「気」の効果なのだろうか。仮に単なる気のせいだったとしても、私の体感では気功治療に効果はあるようだった。

先生の話では、今のは「気」による治療だが、たいへんな病気のときには意念の力もいっしょに使うらしい。

丸めた紙の内側の字を読みとってみせてくれたときのように、意念でもって相手の体のなかを見ていく。そこで何か悪いモノが見つかれば、意念の力で焼き払うか、外から「気」を送り込む。この方法で難病を治療するのだという。

ところが「気」というのは、必ず強いほうから弱いほうへと流れる性質があるので、もしこちらの「気」が患者よりも弱ければ、治療効果も小さくなる。

しかし力の差がはっきりしていれば、「気」を受けた側はほぼ眠ってしまう。今回、私は先生から「気」を入れられても眠らなかった。すると、私の「気」の力は強いと思ってよいのだろうか。

さらに意念の目で見ていくと、体に黒いモノがへばりついている人がたまにいるらしい。その黒いモノはひどい悪さをするので、すぐに取り去る必要がある。しかしそれに対処するには、これまた特別な方法があるのだという。

もうこうなってくると、私の理性では判断もつかないほど、あちら側にはディープな世界が展開しているのだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング