あれから私は、大腸がんの手術を控えた須藤さんの家に通う日がつづいていた。
それにしてもがんてヤツは、病気というよりも地震のような天災に近い気がする。地震は何の前触れもなくドカンとやってきて、一挙に今までの生活を一変させてしまう。がんだって、何の予兆もなしにいきなり「がんです」と宣告されるのだから、本人にとっては青天の霹靂だ。
他の人と全く同じ暮らしをしていたのに、がん患者になった途端、「あなたはがんの人」といって区別される。みんなと同じ列に並んでいたと思ったら、「今日からあなたはこっちの列ですよ」といわれるようなものだ。その理不尽さには、だれしもとまどうばかりだろう。
しかし実際のところ、あなたはある日突然がんになったのではない。体のなかでがんが発生して、それががんとして発見される大きさに成長するまでには、有に10年以上がたっているのだ。だから決して昨日今日できたわけではない。
それではどうして、がんができてしまうのだろうか。その原因の一つに発がん物質がある。たとえば肺がんで亡くなった芳子さんは、長年タバコを吸っていた。そのせいで、発がん物質であるニコチンによって肺がんになったと考えられる。
それなら須藤さんは、なぜ大腸がんになってしまったのか。今から10年以上前に、何か特別なことでもあったのだろうか。そこで本人に、何か思い当たることはないかとたずねてみた。
彼女は「サテ?」と首をひねったが、何か頭に浮かんだようで、表情に暗い影が差した。そして当時の記憶をたどるようにして「実は…」といいながら、いつになく重い口調でこんな話をしてくれた。
今から14年ほど前、独立して今の会社を立ち上げたころのことだ。あるパーティーに参加した彼女は、それまで所属していた会社の女性社長Hの隣に座った。
そこでは当たり障りのない近況報告をしながら食事をしていたが、途中で須藤さんはトイレに行くために席を立った。しばらくして席にもどると、飲みかけのジュースを口にした。ふと「味が変だな」とは思ったものの、のどが渇いていたので残りを一気に飲み干した。
ジュースがのどを通って胃袋に落ちた。そう感じた瞬間、胃が強烈にむかついて、がまんできなくなり、トイレにかけこんで激しく嘔吐した。しかもジュースどころか、胃のなかのモノがすっかりなくなるまで吐いても、まだ吐き気がおさまらない。
あまりの気分の悪さに、パーティーを途中退席してタクシーで家にもどった。ところが這うようにして部屋にたどり着いたころには、吐き気だけでなく呼吸まで苦しくなってきた。「これは危ない」。そう感じた須藤さんは救急車を呼んで、そのまま緊急入院した。
入院後もさらに彼女の症状は悪化していった。手足の皮膚がズルリとむけて、しまいには頭髪が全て抜け落ちてしまったのである。毒を盛られた「四谷怪談」のお岩さんそのままの姿の自分を見て、一時は「もうダメか」とまで思い詰めた。それでも幸い命だけは助かったが、しばらくは苦しい入院生活がつづいたのだという。
なんともすさまじい体験である。予想外の話の展開に、私もとっさには返す言葉が見つからない。気になるのはそこまでの症状を引き起こした原因だが、結局、病院の検査では、何らかの物質による中毒症状らしいとしかわからなかったようだ。
しかしタイミングから見れば、あのジュースが原因だったはずだ。パーティーの参加者で同じ症状の人はいなかったようだから、単なる食中毒ではないだろう。あのとき彼女がトイレに立ったすきに、だれかが須藤さんのジュースに毒を入れたのではないか。しかもその「だれか」とは、隣席のあの女性社長Hの可能性が高かった。
それまでにも、Hの周囲では何人もが不審な死を遂げているといううわさがあったのだ。そのなかには須藤さんの知り合いも含まれていた。その人もHの元から独立して、会社を立ち上げようとしている矢先に亡くなったのである。
須藤さんがポツポツと語る内容は、あまりにも非日常的でにわかには信じがたいほどだった。それでも、もしこれが本当にHの仕業だとしたら、とんでもない話である。Hは今ごろどうしているのだろう。恐る恐る聞いてみると、何か事件を起こして今も刑務所に入ったままだという。全くサスペンスドラマのような話である。
14年もたった今となっては、そのときの須藤さんの症状が、毒物のせいだったかどうかはわからない。もちろん、それが彼女の大腸がんの原因なのかも確かめようがない。
だがその毒物のせいで、彼女の左の脊柱起立筋が盛り上がるようになったのだとしたらどうだろう。がん患者の体に特有のこの異常は、その毒物が原因だと考えられるだろうか。どうにかしてそれが何なのかを特定したい。私はこれが、何か自分に与えられた大きな課題のように感じ始めていた。(つづく)
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