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小説『ザ・民間療法』挿し絵081
大腸がんの手術を乗り越えて、須藤さんが無事に退院した。ところが元気ではあるものの、まだ排便がうまくできないのでとまどっているようだった。

「そりゃ腸を切り取ったんだから、ムリもないヨ」といって励ます。お医者さんからも、時間がたてば徐々に元の状態にもどると説明されていたし、これでしばらくの間、彼女はがんで死ぬことはないだろう。

大腸がんは5年たって再発しなければ「完治」の扱いになるから、それまでの間は私も定期的に様子を見にくることに決めた。まずはこれで一安心だ。

須藤さんががんの宣告を受けた日から、私もずっと真剣勝負がつづいていた。その極度の緊張から解放されて、やっと一息つける状態になったのだ。ところがそんなホンワカムードをぶちこわすように、一本の電話がかかってきたのである。

それは、例の音楽事務所を経営している寺田さんからだった。彼はいつも腰痛の友だちを見つけては私に紹介してくれる。だが今回は腰痛ではなかった。

「ヨー、大腸がんの友だちを診てもらいたいンだけどサ…」

前置きもなしに彼はこういきなり切り出すと、「大腸がん」と聞いてひるむ私などおかまいなしに話をつづける。彼にとっては腰痛も大腸がんも、大したちがいはないのだろう。とにかく友だちが困っていたら、放ってはおけないタチなのだ。

友人の下田さんは45歳で、FM局のディレクターをしている男性だという。検査で大腸がんが見つかってそのまま手術する予定だったのに、担当の医師と反りが合わなくて病院を出てしまったらしい。

その後も一切、病院には行かないで、ずっと仕事をつづけている。心配になった友だちが説得を試みても一向に耳を貸さず、病院をかたくなに拒否している。そこでとっさに寺田さんの頭に浮かんだのが、私の存在だったというわけだ。

音楽業界といえば、少々ヤクザな仕事柄のせいか、寺田さんの周囲には社会的に問題のある人が少なくない。彼は、そんなめんどうな人ばかり私に任せようとする。あるときなど、麻薬中毒で演奏ができなくなったミュージシャンを、私の手で何とかしてくれと預けられたこともあった。

下田さん本人も、以前から私のうわさを聞いていたのだろう。私にだったら診てもらいたいといっているらしい。しかし他のことならまだしも、がんは困る。須藤さんたちはたまたまうまくいったけれど、次もまたうまくいくとは限らない。かといって、むげに断るわけにもいかないから困るのだ。

そんなことは気にもとめないのが寺田さんである。そこでまずは彼の顔を立てて、一度だけ彼の事務所まで来てもらって話を聞くことにした。ところが実際に会うと下田さんの表情がかたい。今までのがん患者はみな女性だったからなのか、今回は印象がちがった。

その暗い表情のまま、彼の口からポツリポツリと語られた話では、彼のがんはかなり広範囲に広がっていて、手術では人工肛門になる予定だったらしい。だが実際のところ、医学知識もない下田さんには、自分のがんの状態はよくわかっていないようだ。それでも、彼のがんが須藤さんや京子さんとはレベルがちがうことだけは感じられた。

そこでためしに体を見せてもらう。案の定、左の起立筋はグッと盛り上がっていて、がんのある体であることはまちがいがない。さらに、全身の筋肉も板みたいにかたい。農薬を頭からかぶってしまった河野くんよりも、もっとかたい印象だ。

下田さんは中肉中背のごくふつうの体型で、特別なトレーニングなどはしていないのに、彼の筋肉は鍛え上げた人のようにかたいのである。

それよりも何よりも、がん特有の例のツブツブが気になる。おなかの左下の部分に軽く触れてみると、かたいイクラを敷き詰めたようなザラついた感触が、服の上からでもしっかりと手に当たるのだ。この感触が、彼のがんは須藤さん以上のレベルであることをはっきりと告げていた。

むりだ。この体を引き受けることなどできない。ここまでの状態の人に、私は手出しはできない。申し訳ないけどお断りしよう。そう思って顔を上げた瞬間、気配を察知した寺田さんが先回りして、「たまに、ちょっと診るだけでいいから」といって、私の言葉をさえぎった。下田さん本人も、「ぜひぜひ」と必死に頼んでくる。

「あぁ…」と思ったが仕方がない。ここまでいわれては断れない。「何回かやるだけやって、様子を見ることにしましょう」。それだけいうと、彼の自宅の住所を手帳にメモした私は、「食事にでも行こう」という寺田さんの誘いをお断りして、そのまま事務所をあとにした。

大腸がんへの施術。またあの緊張の日々がつづくのか。しかも末期に近い彼の状態では、とうてい良い結果が出せそうにはない。そう思うと沈み込むように体が重くなっていき、家までの道のりが果てしなく遠くに感じられるのだった。(つづく)


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