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小説『ザ・民間療法』挿し絵082
下田さんがパートナーと暮らしている中目黒のマンションは、幸いにも私のアパートから歩いて行ける距離にあった。彼は平日は仕事に出かけているので、日曜の午前中に行って施術することになっていた。

最初の約束の日、急ぎ足で歩いてみたら20分ほどで着いた。電車だと乗り換えを含めて遠回りになるし、お金もかかる。この距離なら電車で行くよりも早いから助かった。

案内された部屋に入ると、さすがFM局の人だけあって、室内には高そうなオーディオ機材がズラリと並んでいる。私の部屋など、オーディオどころか音の出るものすらない。そもそも物がない。あるのは、知り合いのおばあちゃんからもらった一組のふとんと茶碗ぐらいなものだ。

それはさておき、下田さんに施術するにあたって、私と彼との間で条件を決めておいた。第一に、決して私の施術でがんがよくなるなどと期待しないこと。期待して期待通りの結果にならないと、裏切られたと感じてショックも大きくなる。だから、あえて京子さんや須藤さんの話も一切しなかった。

第二に、施術に対して私は一切お金も物も受け取らない。やるからには最善を尽くすが、何かあっても責任を負えないからである。この条件を告げると、彼は申し訳なさそうな顔をしたが、その表情は相変わらず暗い。これからのことを考えれば、それも仕方のないことだろう。

この2つの条件に納得してもらったところで、最初の施術に入る。ところが実際に彼の体を刺激してみると、おどろくほどかたい。予想していたよりもはるかにかたくて、それはもう亀の甲羅を指でもみほぐしているみたいだった。

これまで施術してきたがん患者だって、みんな女性にしては筋肉がガッチリとかたかった。それですら散々手こずったのに、男性ではレベルが段ちがいだったのだ。

ただし私がやる刺激は、力を入れればいいわけではない。いわゆるマッサージのような力の使い方はしない。その分、何が本人の負担になるのかもわからないので、今日はほんのさわりだけにしておいた。これでは先が思いやられる。

だが「先」といっても、京子さんや須藤さんたちみたいに、「手術まで1か月」といったタイムリミットがあるわけではない。彼の場合は無期限だ。それでもがんが進行している以上、のんびり攻めるわけにもいかないので、毎週日曜になるたびに彼のところに通った。

しかしこれまでの人たちとちがって、施術を2回、3回と重ねても、刺激に対して反応がない。痛みが全く出てくれないのである。これほど反応が出ないのでは、がんを抑え込むことはできない。時間の経過とともにがんが広がるだけだから、さすがに焦る。

果たして彼の体は、今どういう状態なのだろう。次第に私のなかで不安が大きくなってきた。そこで下田さんに、一度病院で検査を受けてもらいたいと頼んだ。そうでなければ、恐ろしくてもう手出しができない。

いろいろと説明して彼も納得してくれたので、前にトラブルのあった病院とは別のところで検査を受けることになった。私としては、このままその病院で治療してもらえるのではないかという期待もあった。

ところがどっこい。期待は裏切られるものである。なんと検査の結果、以前の検査画像よりもがんが少し小さくなっていた。その結果を聞いた下田さんは喜んだ。そして病院での治療ではなく、逆に私の施術への期待が高まってしまったのだ。

しかし私の感触では、彼の体は決してよくなってはいなかった。私の悩みは深まったまま、彼のマンションに通いつづけてもう1か月半が過ぎようとしていた。

その日は9月としては記録的な暑さで、最高気温が37度を超した。炎天下のアスファルトの上はいったい何度になっていただろう。下田さんの部屋に着いたときには、汗が吹き出していた。

タオルで汗を拭き拭き、いつも通りに玄関でブザーを鳴らしてから部屋に入る。すると足元の床に彼が転がっていて、背中を丸めて痛みに耐えているのだ。冷房が効いた部屋のなかで、痛みでうなりつづける彼の額からは脂汗が流れていた。

これまで彼のこんな姿を見たことがない。ぼうぜんと見つめる私に向かって、部屋にいた彼女は、「たまにがんのところがこんなふうに痛くなるんですよね」と淡々と説明してくれた。

今でこそ見慣れているが、彼女も以前は、あまりに彼が痛がるのを見かねて薬局へ駆け込んだこともあったらしい。そこで「がんの痛みに効く痛み止めをくださいッ」と頼んだら、店主は血相を変えて、「そんなモノ置いてるわけないでしょ!」と吐き捨てるようにいったのだという。

だがいくら見慣れているとはいえ、いつもならそろそろ痛みが引くはずなのに、今日は長引いている。さすがにちょっと心配そうだ。

がんの痛みと聞いて、同じ大腸がんの須藤さんが腹痛だったときの様子を思い出した。あのときは単に背骨がズレていただけだった。それなら下田さんの痛みも、ひょっとするとズレのせいかもしれない。

彼のうしろに回って背骨を調べてみると、予想通り、腰のあたりで背骨がズレている。これだ。これだけ大きくズレていれば、おなかに激しい痛みが出てもふしぎではない。すかさずその骨を正しい位置にもどすと、彼のうなり声がピタリと止んだ。

やっぱりそうか。彼の場合も、がんのせいだと思っていた痛みは、背骨のズレによる痛みだったのだ。(つづく)


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