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それにしても、「左」というのはどこか不気味である。
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それにしても、「左」というのはどこか不気味である。
背骨は左にしかズレないし、背中の起立筋も左だけが盛り上がる。人の体の「左」に現れる異変は、何か不吉なサインなのだろうか。その不気味さそのままに、大腸がんの下田さんの起立筋は、相変わらず左が盛り上がったままなのである。
施術のために彼のマンションに通い始めて、もう3か月になろうとしていた。まちがいなく彼にはタイムリミットが迫っているのに、いつまでもこんなことをつづけるわけにはいかない。
いくら工夫してみても、彼のがんに対しては施術の効果が現れない。それはこの左の起立筋の状態を見ればよくわかることだった。背骨の矯正で、あれほどの激痛が消えたのはせめてもの救いだったが、日に日に私の焦りは増していった。
そろそろ終わりにしなければいけない。しかし、依然として彼は病院に行こうとはしない。いちばん最初に大腸がんだと診断された病院で、担当医との間に何があったのだろう。彼は一切語ろうとしないし、思い出すのさえ不快な様子だった。
下田さんに限らず、医師から投げられた心ない一言で、患者が深く傷ついたという話はよく聞く。だが病院などいくらでもあるのだから、他の病院に移ればいいだけではないか。
たった一人の医師のせいで、病院での医療のすべてを拒否するなんて、どう見ても合理的ではない。その結果、民間療法家でしかない私に身を任されても、責任が重すぎる。
私の施術が救いになるならまだしも、彼のがんはすでに私の手には負えない状態だ。こうしている間にも、彼の体内でがんが広がりつづけているかもしれない。そう思うと、本人よりも私のほうが不安に耐えられなくなってきた。やっぱり病院に行くようにすすめてみよう。
しかしただすすめただけでは、彼もすんなり「ウン」といわないだろう。そこで私は事前に策を練った。実は私の患者さんのなかに、大学病院の消化器科の医師がいる。キャリアも十分だし、人柄も信頼できる。彼になら任せて安心なので、下田さんのこれまでのいきさつを説明し、本人が納得したら、そのまま治療に入る段取りを組んでおいた。
次の日曜日、下田さんへの施術を終えた私は、意を決して病院での治療の話を切り出した。すると今回は、拍子抜けするほどあっさり承諾してくれたのである。彼も内心、そろそろ潮時だと感じていたのかもしれない。翌週には入院して検査を受けることになった。
検査の結果では、3か月前と比べてがんの大きさに変化はなかった。やはり最初の病院と同じで、手術で患部を切り取ってから人工肛門になることは避けられないようである。
それでも、私はこの結果にかなりホッとした。私が施術していた間に、もう手術すらできないほどがんが進行していたらどうしようか。そう考えてずっとハラハラしていたのだ。
がんになった芸能人が、どこかの民間療法を信じこんで、病院での治療を拒否して手遅れになったという話はよくある。もし下田さんのがんが進行していたら、結果として私も同類になってしまうところだった。
いくら本人が強く望んで始めたこととはいえ、手遅れになるのだけは避けたかったのだ。これでやっと、3か月もの間つづけてきた施術の緊張から開放されて、私は泣き出したいほどだった。
思えば、何の進展も見られないまま、毎週毎週、彼の元に通い続けるのはあまりにもつらかった。引き受けたときには、彼をなんとかしてあげたいという思いだけでなく、私のなかにも「もしかして」という期待があったかもしれない。
これが安易だった。確信もないのに、責任の取れないことに手を出すべきではなかったのだ。やはりこの苦い体験を教訓とするしかない。今後は、病院で治療を受けていないがん患者さんには、決して施術しないでおこう。そう心に決めた。(つづく)
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