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この仕事を始めて、早くも3度目の冬を迎えようとしていた。北国生まれの私にはちょっぴり心ときめく季節の到来だ。しかしこのヒンヤリとした安アパートでは、ワビしさが漂い始める時季でもある。

少しふとんでも買い足そうか。そんなことを考えていると、手元にあった電話が鳴った。例の寺田さんからである。また患者さんの紹介かナと思ったら、忘年会のお誘いだった。

忘年会といっても、ただの飲み会とはわけがちがう。彼の音楽事務所が主催する忘年会は、かれこれ10年以上もつづいた大パーティーなのである。参加するのは音楽関係者だけではない。テレビ局や芸能プロダクション、モデル事務所に広告代理店など、いわゆる業界の人たちだ。私もテレビ番組の美術制作を担当していたころから、毎年呼んでもらっていた。

この会は年々ハデになって、今年は日比谷にある記者クラブを借り切って盛大にやるらしい。大勢の人が集まる場所は苦手だけど、業界を離れた私にはなつかしい顔ぶれがそろう日である。お世話になった方たちに挨拶できるチャンスでもあるので、毎年参加している。

彼からの電話のおかげで、わびしさも一気に吹き飛んだ。そうなると、ふとんよりもまずは忘年会に着ていく服を考えなくちゃ。ちょうどこの週末に、信濃町の明治公園でフリーマーケットがある。あそこなら何か調達できるだろうから、のぞいてみよう。

何を隠そう私はフリマが大好きだ。世の中には「古着は着ない」という人もいるらしいが、私なんかほぼ「古着しか着ない」。古着が安いからなのはもちろんのこと、値段を交渉していると、インドでの日々を思い出してこれまた楽しい。

忘年会当日。仕事を終えた私はいったん家にもどって、フリマで買ったばかりの真っ赤な革パンツに着替えた。古着とはいえ、私にとってはおニューの晴れ着なのだから、たいそう気分が良い。足取りも軽く会場へと向かう。着飾った人でごった返した受付を通り抜けると、入口の近くには、すでに酔いが回って赤い顔をした寺田さんが立っていた。

私を見るなり、「ヨウ、来たか~」といってクシャッと笑う。彼の隣には、同じ事務所の山中さんもいた。「久しぶり~」と声をかけてみたが、ちょっと元気がないみたいだ。例によって飲み過ぎだろうか。

寺田さんに目をやると、「コイツ飲みすぎてサ、この前、胃潰瘍で手術したばっかなんで今日は飲めねえんだとヨ」と説明してくれた。胃潰瘍なんか、酒飲みの勲章だとでもいいたげな口ぶりだ。それを聞いて、山中さんも照れくさそうにしている。

そこまでいうと寺田さんは、参加者たちがかたまって談笑している渦へと消えていった。今日はホスト役なので、じっくり腰を据えて話している場合ではないのだろう。

残された山中さんが、私に何かいおうとした。その声をさえぎるようにして、「がんでしょ」と、思わぬ言葉が私の口から飛び出した。いった私自身があわてている。しかし山中さんは怒るでもなく、ただ寂しそうな目を私に向けると、コクッとうなずいた。その瞬間、私の耳からは忘年会の喧騒がかき消えた。

彼は、自分ががんだなんてだれにもいえないまま、胃潰瘍で通していたのだ。だが、今どき胃潰瘍で手術することなどまずありえない。彼の表情を見れば、残された時間が少ないのがわかる。なぐさめたくても、こんな状況を埋めてくれる言葉など、私の語彙にはなかった。

絞り出すようにして、「私に何かできることがあったら」といいかけると、彼は「もう、いいんだ」といって口を閉じた。彼の目のなかには、迷いの色は見えない。すでにすっかり諦めているのだ。

山中さんはまだ40過ぎたばかりである。その彼が、これほどの覚悟を決めるまでには、どれほど涙を流したことだろう。それを思うとたまらなくなって、私はとっさに彼の肩を抱き寄せた。

本来、私はハグが大変苦手である。人からハグされる機会は何度もあったが、どちらかといえば拒絶反応に近い感覚をもっている。ところがこのときばかりは、言葉にならない感情に押し流されて、もうどうにもならなかった。

山中さんも私に体を預けたまま、二人で立ち尽くしていた。私の手には、彼の細くなった体から命の火が消えかかっているのが伝わってくる。その感触が、彼のなかの孤独な絶望感を際立たせていた。

「がんはすでに治る病気になった」。医師たちは口を揃えてそういっているじゃないか。それなのに山中さんは、もう手の届かない所に逝こうとしている。

山中さんだけではない。私のまわりのがん患者たちは、病院での治療でさんざん苦しんだ揚げ句、その多くはボロきれみたいになって敗れ去っていった。私にはどうしても、彼らの姿と山中さんが重なってしまう。

ここで涙など見せてはいけない。彼にも失礼だ。奥歯を噛みしめて天井を見上げると、そこにはシャンデリアの灯りが連なって、どこまでもキラキラ、キラキラと流れていくのだった。(つづく)

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