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あれは高校の倫理社会の授業だった。
いつもまじめな真崎先生が、唐突に「夫婦ゲンカは寝れば治る」とつぶやいた。いきなりなぜそんなことをいったのかはわからない。彼は決して冗談などいわないタイプだったから、この意外な一言に教室が一瞬ざわついた。しかし何の説明もないまま、倫理の授業はつづいた。
半年ほど前、杉本さんから仲の悪いご夫婦について相談を受けたとき、一瞬、あの「寝れば治る」のフレーズが頭をよぎった。
まさか女性相手に、そんな品のない話をするわけにもいかないから、私はだまっていた。だがよく聞いてみれば、相談したかったのは夫婦仲のことではなく、彼らの子どものことだった。
14歳になる大樹(ひろき)くんは、ぜんそくの発作で苦しんでいた。病院にも通っているが、全く治る兆しがない。それどころか日ごとに発作がひどくなって、最近ではチアノーゼまで見せるようになっていた。
肝心の病院が頼りにならないばかりか、担当の医師からは、「夫婦仲が悪いのが原因だ。それが子どもには精神的ストレスになって、ぜんそくの発作が起きるのだ」といわれてしまった。その挙げ句に「夫婦でカウンセリングを受けなさい」と強い口調で指示されたのだという。
彼らは医師のいう通り、わらをもすがる思いでカウンセリングを重ねた。子どもの前で夫婦ゲンカもしないと決めた。それでも大樹くんの発作は一向に治まらない。あまりにひどい症状がつづくので、父親はこの子が死んでしまうかもしれないと思い詰めた。そこで知り合いの杉本さんを介して、私に相談したのである。
しかし残念ながら、私はこれまでぜんそくの子どもを診たことがなかった。そもそもぜんそくのくわしい知識すらない。ぜんそくといえば、四日市ぜんそくのように、大気汚染が原因だったころのイメージしかなかったのだ。
ところが今では、ぜんそくはアレルギーや精神的ストレスが主な原因だといわれているらしい。
「精神的ストレスが原因だって!?」
ストレスと聞いた瞬間、私のなかには疑いのフラグがバシッと立った。
そういえば、ぜんそくではなくても、ぜんそくに似た症状の人なら何人も診たことがある。彼らは胸椎が大きくズレていて、何か月も咳が止まらなくなっていた。そのズレを矯正したら咳が止まったので、因果関係は明らかだった。
胸椎がズレると、そこにつながっている肋骨もズレる。その結果、呼吸するための筋肉である肋間筋が引きつってしまう。そのせいで咳が止まらなくなるみたいである。
この症状を、カゼが長引いているとかんちがいする人もいるし、ぜんそくに似たひどい症状になる人もいる。もし大樹くんがそのパターンだったら、私にもなんとかできるかもしれない。
そこで「あまり効果を期待しないでください」と杉本さんから伝えてもらったうえで、大樹くんに会ってみることにした。
お父さんに連れられてやってきた大樹くんを見ると、立派な体格のお父さんとは対照的で、かなりやせている。シャツの上からでも、あばらが浮いているのがわかる。いかにも虚弱そうな少年だ。
さっそく体を調べてみると、案の定、胸椎が何か所も大きくズレていた。ここまでズレていれば、呼吸に影響が出ないわけがない。このズレた胸椎を矯正すれば、何か効果が出るかもしれない。
ズレている骨を一つ一つゆっくりと矯正していくと、その様子を、お父さんが横から心配そうに見つめている。彼の慈愛に満ちた表情を見ているうちに、私はひらめいた。そうだ。お父さんにも矯正の仕方をおぼえてもらって、家でもやってもらおう。これはわれながらいいアイデアだ。
施術の翌日、お父さんから電話がかかってきた。何かあったのだろうか。少し不安になりながら電話に出ると、大樹くんの調子はかなりいいらしい。いつもなら予兆めいた症状のあと、ぜんそくの発作が起きるのに、昨晩はほとんど症状が出なかった。それを聞いて私も安心した。やはり彼の発作は、胸椎のズレが原因だったのだろう。
その後も何回か大樹くんは来院した。ときにはお父さんの代わりにお母さんが連れて来ることもあった。そうやって矯正をくり返しているうちに、とうとう彼の体からは、ぜんそくそのものが完全に消えてしまった。
夫婦仲のほうは相変わらずだというから、やっぱり大樹くんのぜんそくは、精神的ストレスのせいなんかじゃなかったのだ。それがわかって、私はさらに満足だった。(つづく)
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