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私は仕事が終わると、渋谷の街を抜けて駒場に帰る。いつもなら人混みを避けてマークシティのなかを通るのに、なぜかこの日は急に外を歩きたくなって、そのまま道玄坂に向かった。
ファッションビルの109あたりにさしかかったところで、点滅していた信号が赤になった。ボンヤリと交差点の向こうに目をやると、華やかな色合いの若者で混み合うなかに、何か黒っぽい影みたいな物がある。
「なんだアレ?」
黒い影は、ブラックホールみたいに私の視線を吸い寄せていく。目を凝らすと、信号機の脇に古びた藍染の作務衣を着た、初老の男が立っていた。
「なんだ、人だったのか」
人だとわかったあとも、まわりのキラキラした明るさとはあまりに対照的なので、彼から目が離せない。信号が変わると、彼はうつ向き加減のままこちらに向かって歩き出した。その動きを見た瞬間、頭のなかに電気が走った。
「会田先生だッ!」
黒い影に見えた男性がだれだかわかったら、あちらでも私に気がついて、パッと表情が変わった。
「おなつかしゅうゥ!」
先生の元へかけ寄った私の口からは、妙な言葉が飛び出した。あまりになつかしすぎて、ちょっと頭が変になったのだろう。
「イヤァ、なつかしいな、何年ぶりだよオイ!今どうしてる?」
会田先生も、顔をクシャクシャにして私との再会を喜んでいる。以前と変わらない先生の水戸なまりを聞くと、ひどくなつかしくて泣きそうだ。
先生には、私が美大生だったころに大変お世話になっていた。油絵科の学生だった私は、民俗学の会田先生から、民具の実測図の作図方法を教わっていたのである。
作図はおもしろい。美術の世界はオリジナリティーこそ命なのに、逆に作図では、オリジナリティーなど一切必要とされない。そういうところが、新鮮で魅力的だった。
民具実測図がたいそう気に入った私は、博物館などに出かけて行っては作図するほどのめりこんでいた。そんな私を見て、会田先生はわざわざ私の地元で、博物館員の職を探して世話してくださったのだ。
ところがいざ就職試験を受けてみると、あっさり落ちてしまった。出題の傾向が例年とちがいすぎたとか、ヤマがはずれたなんて言い訳するのも虚しい。結局のところ力不足だっただけだ。だがそれ以来、先生に顔向けできなくて疎遠になっていた。
思えばあれから20年以上が過ぎた。こんな恩知らずの私のことを、先生はずっと心配してくれていたらしい。実家に遊びに来てもらったこともあるほど親しかったのに、本当に申し訳ないことをした。
「イヤァ、これから急いで行かなきゃならん用事があってナァ」
先生はしきりに時計を見ては、ここで別れるのがいかにも名ごり惜しそうだ。
「近いうちに、必ず大学に遊びに来てくれ」
そういって手書きの名刺を私に握らせると、私とは反対の方向へ足早に去っていった。
あまりに短い時間のできごとだったから、先生から目を離すと、今再会した記憶が消えてしまいそうだ。私は先生の背中がまた黒い影になって、人混みのなかに消えてしまうまで見送った。
次の週になるとすぐに先生に電話して、大学に会いに行く日を決めた。当日は国分寺駅で西武線に乗り換えて、武蔵野にあるキャンパスまでやってきた。ここには卒業してから一度も来たことがないのに、あきれるほど違和感がない。
正門を抜けると、構内には学生たちのにぎやかな声があふれている。そこかしこに絵の具だらけのつなぎを着た子がたむろしていて、あのころとちっとも変わっていない。どこかに昔の自分がいるんじゃないか。そんな気さえしてきた。
あのときはまだ講師だった会田先生は、今では教授になっている。先生の研究室をのぞくと、天井までうず高く積まれた資料の隙間から、あの藍染の作務衣の端っこが見えた。
「オオォ~、来たか~~」
私に気づくと、先生は満面の笑みで改めて再会を喜んでくれた。2人は空白になっていたこの20数年間のできごとを、猛烈な早口で埋め尽くすと、近況までたどりついたところでようやく一息ついた。
そこで、当時私が熱中していた民具実測図の話から、最近使っている解剖図の話題になった。
「センセェ、解剖図は医学の基本なんだから、さぞかし正確なのかと思ったらちがうんです。縮尺や寸法といった大事な情報が入っていないんで、民具実測図どころか図にもなっていないんですヨ。あれじゃ役に立ちません」
私はつい、日ごろはぶつける相手のない解剖図への不満を、会田先生相手に話し始めていた。先生に甘えているような気もしたけれど、それを聞いた先生の目が、一層輝きを増した。
「ホォ~、民具実測図から解剖図まで行ったのか~。おもしれぇな~、美術から医学に発展するなんて、聞いたこともないナァ」
「イヤ、先生、解剖図というのはあのレオナルド・ダ・ヴィンチが、人体という立体を平面で説明するために考案したんです。だからそもそも美術のほうが、医学よりも先進的だったんですヨ」
自分が描いたわけでもないのに、私はダ・ヴィンチの功績をちょっと自慢げに説明した。さらにつづけて、現代の解剖図なんて、500年たってもいまだにダ・ヴィンチの作品には遠く及ばないのだ、などという話まで熱く語っていた。
「そうか!それなら今度、うちの学生に解剖図を描かせてみるか」
会田先生は私の話に大きくうなずきながら、しきりに感心している。そのとき何かひらめいたようで、いたずらっ子みたいにニヤリと笑った。
「そうだ、アイツを紹介しよう!」
先生は呆気に取られている私を置いて、いきなり部屋を飛び出した。
「オーイ、セキグチいるか~っ」
私があわてて自分の荷物を抱えて後を追うと、先生は何やら大声で叫びながら、すぐ隣の研究室へと飛び込んで行ったのだった。(つづく)
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