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「センセ~ェ、朝から首が回らないンです~ッ」

切羽つまった様子の石田くんから電話がかかってきた。ふだんより一オクターブは高い切ない声である。あまりにもつらそうなので、朝一に来てもらうことにした。

彼はまだやっと20歳になったばかりで、昨年の秋からプロボクサーをめざして訓練を始めていた。それだけ人の何倍も元気な若者なのである。

「ボクサーだから、痛いのなんか慣れてるんじゃなかったの? 寝ちがえたくらいで泣き声出すなんて、ちょっと大げさじゃないかい」

親子ほど年の離れた石田くんを相手に、私がつい冗談ぽくいうと、

「だってだって、ボク、もうすぐ試合なのにコレじゃあ」

といって彼は下唇を突き出すと、本当に今にも泣きそうな顔になった。

石田くんには申し訳ないが、私はボクシングにはいいイメージがない。昔一度だけ、プロボクシングの試合を観に行ったことがあったが、そのときの印象が強烈すぎたのだ。

私を誘ってくれた友だちも、たまたまチケットを2枚もらっただけなので、ボクシングのファンではなかった。いざ後楽園の試合会場に着いてみると、なんとリングサイドの一番いい席である。その分、リング上の選手の動きがよく見える。

試合が始まって、最初のうちこそ物珍しかったけれど、徐々に気分が滅入ってきた。途中からは軽い吐き気までしてきてしまった。どうやら彼らは、本気で殴り合っているのである。

てっきりプロレスみたいに、エンターテイメントとして対戦するものだと思っていた私には、命がけの殴り合いなど、とうてい正視できるものではなかった。

誘ってくれた友だちも医者なので、表情が険しくなっている。そして私の耳元に口を寄せると、「あんなことしてたら後遺症がひどいよ。あれはスポーツなんかのレベルじゃないね」といって心配していた。

幸いなことに石田くんは、まだボクシングを始めたばかりなので、今のところ体に問題はなさそうだ。しかし彼が来院するたびに、「できれば他のスポーツに転向しなさい」とすすめているので、いつもイヤな顔をされている。

もちろん彼の寝ちがえはボクシングのせいではない。寝ちがえは、いつでもだれにでも起きるもので、彼みたいに日ごろから体を鍛えている若い人だって、私たちと同じである。

寝ちがえると、朝起きたら首が回らない。ムリに回そうとすると、鋭い痛みが走る。これといった理由もないのに、朝起きたらそうなっているのだ。

同じように骨のズレが原因でも、腰痛なら昼夜関係なく起きる。それに対して寝ちがえは、寝起きだけである。日中や夕方になってから発症することはない。また腰痛などとちがって、何日も同じ症状がつづくことがないのも特徴だ。

では寝ちがえたとき、彼らの首はどうなっているのだろう。

今まで診てきた寝ちがえの患者たちは、みんな頚椎の1番と2番と7番目が左にズレていた。そのズレを矯正すると痛みが消えて、首もスムーズに回せるようになった。だからズレと症状との因果関係は明らかだ。

かわいそうな石田くんの首を調べてみると、やはり頚椎1番、2番、7番が左に大きくズレている。そこでセオリー通り、順番にズレをもどしていく。

何度か矯正をくり返していたら、指先にズレが触れなくなった。「ちょっと確認して」というと、彼はおそるおそる首を回している。表情が明るくなってきたところを見ると、先ほどまでの痛みはもうなくなっているようだ。

今度は勢いよくグルグル回してみて、やっと元通りになっているのを確認した。だがそこでやめておけばいいのに、彼はまだ不満そうだ。

「先生、回ることは回るけど、これ以上は」

といって、首を極限まで回そうとしている。

「や、石田くんはフクロウじゃないんだから、そこまでは回らないよ。それ以上回すと1回転しちゃうヨ」

といったら、やっと納得してニッと笑った。

彼の寝ちがえは、それほど厄介なタイプでなくてよかった。首の骨の矯正には、毎回すこぶる緊張する。首の骨は一つ一つが小さいから、腰椎や骨盤の矯正ほどかんたんではない。

その上、首そのものがデリケートな部位なので、余計に慎重に扱う必要がある。あのアジャストとかいう、首をグキッとひねる手技なんて、私から見たらもってのほかなのだ。

イヤイヤ、今日も無事に治ってくれてホッとした。一息ついたら、あることに気がついた。そういえば寝ちがえって、みんな首を左に回せなくなるんだよな。首の骨のズレ方もいつも同じだし。

だけどなんで左なんだろう。背骨が左にしかズレない点は同じだけれど、膝痛や五十肩の症状は左右どちらにでも出る。それなのに、どうして首の寝ちがえだと症状は左だけなんだ。

寝ちがえ程度、と軽く考えていたせいで、症状の出る方向に、特殊な規則性がある点までは気がついていなかった。そうなると、寝ちがえは単なる首の骨のズレというよりも、人体が右側にねじれていこうとする「アシンメトリー現象」の、大きな特徴の一つなのかもしれない。(つづく)

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