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常連の下山さんの施術が終わった。彼女は帰り際に靴を履いたところで、思い詰めた様子で振り向くと、「今度、オカちゃん連れてきていい?」と私に聞いてきた。
「エッ、オカちゃん?彼女、今どうなの?」
久々にオカちゃんの名前が出ておどろいた。私はずっと彼女のことが気になっていて、今朝も「どうしてるのかな」と考えていたのだ。
下山さんの友だちのオカちゃんは、ちょうど私と同い年で、仕事一筋の元気な女性だった。以前は、腰痛が出るたびに私のところに来院していたのである。
ところが3年前のある日、腰痛だといって数年ぶりにやってきたオカちゃんの矯正が終わったあと、「最近疲れが取れないのよね。これが中年期ってことかナ」と照れ笑いしながらいったのだ。
その言葉が妙に気になった私は、もう帰り支度がすんでいたオカちゃんに、改めてベッドに仰向けになってもらった。矯正のときに背中は診たけれど、おなかの側はチェックしていなかったからだ。
服の上から調べていくと、胆のうのあたりに妙な感触がある。嫌な予感がザワッと背中をかけのぼり、私は思わず「エッ」と声が出てしまった。
あわてて胆のう周辺の表面を、指先でゆっくりとなぞってみると、うっすらとだが、リンパが腫れたとき特有のザラつきがあるのが感じられた。
このリンパのザラつきは、胆石かがんがあるときに見られる特徴だ。しかしそこを軽く押してみても、彼女は痛がらない。胆石があれば押されたら痛いはずなのに、痛くないのである。これはまずい。
それがわかった瞬間、7月の暑い最中だったにもかかわらず、一気に室温が下がった気がした。もちろん私のイヤな予感のことなんか、本人にそのまま伝えるわけにはいかない。
「何かあるといけないから、念のために病院で検査を受けてネ」
私は努めて明るい声で受診をすすめておいた。
それから数日後、オカちゃんは忙しい仕事を調整して病院に行った。そして検査の結果、初期の胆のうがんだとわかったから、そのままその病院でがん治療を進めることになった。
オカちゃんからその報告の電話を受けてから、もう3年が過ぎていた。あれ以来、彼女は一度も来院していない。胆のうがんはタチが良くないから、その後どうなったのかがずっと気になっていたのだ。
下山さんの話では、がん治療が始まった当初はオカちゃんも元気だった。治療中だって相変わらず忙しく仕事をつづけていたらしい。
ところがついこの半年前に、がんが再発転移してしまった。そして抗がん剤治療を始めたころから、彼女はどんどん体力が低下していったようだ。
結局、治療の結果は思わしくなかった。そして、もう病院では何もできないといわれて退院してからは、親しいいとこに介助してもらいながら、自宅で療養しているのだという。
記憶のなかのオカちゃんは、いつだって元気ハツラツだったから、弱り切った姿はイメージしづらい。胸が苦しくなる。「ここに来たい」といわれても、そこまで弱っている体に施術なんかできるものではない。
「もう何もしてあげられないんだヨ」
私がいくらそういっても、下山さんは引かない。私のつらい気持ちなんか、一般の人にはとうていわかってもらえないのだろう。
施術を生業(なりわい)にしていながら、まして施術者と患者として何年も関わってきた人が眼の前で苦しんでいても、私は何もしてあげられないのだ。その苦しさなんか理解できなくて当たり前なのかもしれない。
「オカちゃんがさ、最期にどうしてもここに来たいっていってるのヨ。いいでしょ、彼女には連れてきてあげるって約束しちゃったし」
そう強く懇願されると、やっぱり私は断れなかった。
1週間ほどして、下山さんといとこに両脇を支えられて、オカちゃんがやってきた。末期がんの患者を見慣れた私でも、「ここまで変わってしまうものか」と、愕然とするほどやせている。
それなのに、おなかだけが異様に張っている。末期がんに特有の腹水だ。オカちゃんはゼーゼーと肩で息をして、今まさに命の火が消えようとしているのがわかる。
「私、ずうっとここに来たかったの」
彼女は途切れそうな細い声で私に訴えると、残されたエネルギーをふりしぼって私に笑顔を見せた。それを見ている私のほうが涙が出そうで、言葉が出てこない。
横で見ていた下山さんが、「ちょっとだけ体を診てあげて」と私に促した。そういわれても、この状態の体には通常の施術はできない。私はだまってオカちゃんの背中に回りこむと、腰のあたりにそっと触れてみた。
張っている。末期がんで腹水がしっかり溜まっていると、おなかだけでなく背中の側まで張ってしまうのだ。これじゃあ、本当につらいだろう。苦しいだろう。
そう思うと、いてもたってもいられず、私は背中の張ったところを、背骨のズレをもどすときと同じ方向に、やさしくそっとなでた。
たったこれだけの刺激でも、そこで体に何らかの変化が起きれば、それがきっかけで亡くなってしまう危険性だってある。だから触れるのは本当に怖い。
それでも、彼女の呼吸に合わせてゆっくりとさすっていると、徐々に背中の張りがゆるんできた。それと同時に、おなかの腫れも少し小さくなっていった。
「あ~楽になった」
オカちゃんが、シューッと空気がもれるような小さな声でつぶやいた。さっきまでは肩で息をしていたのに、今は呼吸がかなり楽そうだ。それでも、いつ急変するかわからない。私としては薄氷を踏む思いだった。
しばらくそのままにしていると、ふと顔を上げたオカちゃんが、「明日も来ていい?」と私に聞いた。両側を支えている二人も、私に向かって強くうなずいて見せる。
そんな目で見られては断れない。私は力なく、「うん、イイヨ」と答えるしかなかった。しかしオカちゃんが、再びここに来ることはもうなかった。(つづく)
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