小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:がん

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
062
私が学生のころ、池袋の怪しいエリアに文芸坐という映画館があった。たしか当時の学割で、3本立てが100円で見られたと思う。

私は子供の時分から映画が好きで、学校帰りに近所の映画館に通っていた。東京に出てきてからも、お金もないのに映画館にだけはよく行った。映画館をはしごして、月に100本以上見ていた時期もある。

その日は黒澤明監督作品が3本100円で見られるとあって、いつもより混み合っていた。席がないので通路に立ったまま見たなかの1本が、あの名作「生きる」だったのだ。

そこでは志村喬演じる主人公が末期のがんだと宣告されたあと、公園のブランコに揺られながら、「い~のち~みじ~かし~」と「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが印象に残っている。

ところがあの映画を見たころは、がんという病気の生々しい現実など全くわかっていなかったのだ。末期の肺がんで治療中の芳子さんが、日々おそいかかる激痛にのたうち回り、助けを求める姿は心が引きちぎられるような光景でもあった。

あまりの痛みにモルヒネまで処方されるようになっても、私には何も手助けできない。それでも病室にだけは顔を出していた。行きも帰りも足取りは重い。気が晴れる瞬間もないまま、来る日も来る日も通いつづけた。

そんなある日、病室に入って芳子さんの顔を見ると、ふしぎな感覚におそわれた。どこかおなかの深いところから、何かがこみ上げてくるのだ。それを感動などという言葉では表現できない。ただ、今生で芳子さんと出会えて良かったという、強い喜びにも似た感情が体全体を満たしていた。

芳子さんの目を見ると、今、私と全く同じ感覚に包まれているのがわかる。そのせいで、芳子さんはがんの苦しみも忘れ、私を見つめて「うれしい、うれしい!」といいながら大粒の涙をこぼしている。

ベッドのかたわらにいた家族には状況がわからないので、「おばあちゃん、いきなりなに泣いてるの。薬のせいでボケたのかしら」とつぶやいていた。私も涙があふれそうになったので、芳子さんに向かって少しうなずいてから、そっと病室を出た。

芳子さんが亡くなったのは、それから数日後のことである。お葬式では、他の参列者はだれ一人として泣いていなかった。それなのに、私だけ涙があとからあとからあふれてくる。

その涙のわけは、単に芳子さんとの別れのつらさからではなかった。人をあやめてしまった犯人は、被害者を手にかけたときの感触が、その手にいつまでも残り、罪の意識にさいなまれつづけるのだという。その慚愧(ざんき)の情にも似ているだろうか。

もともと美術家である私は、対象を視覚や触覚で覚える訓練をしている。その記憶は、時間がたってもなかなか消えることがない。患者さんの名前は忘れてしまっても、施術したときの体の状態は私の手のなかに刻みこまれていて、決して忘れることができないのだ。

今、芳子さんの肉体はこの世にはなくても、その形や感触は私の手のなかでいつでも再現できる。これから先、私はこの記憶をどうしたらよいのだろう。

この仕事を始めてからというもの、患者さんを治せたときの手の感触は、喜びとなって私に跳ね返ってきていた。しかし今残っているのは無力感だけだ。

私が必死になって習ってきた整体も、気功も、占いも、これはと思って始めたことは、ただの身過ぎ世過ぎの手段にしかならなかったのか。もうこんな仕事なんかやめちゃおうか。私には、もうこの仕事をつづけていく目的も、気力もなくなってしまった。

だがこの世を去る前の芳子さんと共有した、あのふしぎな感覚は何だったのか。その記憶だけが私をこの仕事につなぎとめ、どこかへ導いてくれているようだった。(つづく)

    このエントリーをはてなブックマークに追加

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 小説『ザ・民間療法』挿し絵027

インドから帰国してしばらくたつというのに、私にはまだ住む家がない。あいかわらず友人たちの家を転々とする暮らしが続いていた。今どき、いそうろうなんてメイワクだろうと思うが、どこの家でもごちそうを用意してもてなしてくれる。

学生時代に、地方出身の友人の実家を泊まり歩いていたころを思い出す。われながら、ずうずうしいとはこういうヤツのことだと思う。しかしそんな心づくしのごちそうのおかげで、少しずつ食欲が回復し、インド暮らしで失った体重とともに、本来の体力ももどってきた。

そこでささやかではあるが、お礼として今までの治療法に加えて、インドで覚えたオイルマッサージを披露してみた。するとみなたいそう喜んで、口々に「プロになったらいいのに」といってくれるのだ。

半分お世辞なのはわかっている。それでも内心では、これを生業にできたらいいなと思い始めていた。もちろんお金をもらうとなると、ちゃんとそれなりの勉強をしなければいけないはずだ。そんなことを考えていると、インドで別れた友人たちのことが頭をよぎった。

みんなどうしているだろう。あのときのメンバーのうち二人は、一旦帰国したあと日本での生活をすべて捨てて、ネパールに移住してしまったらしい。その話を人づてに聞いて、あれがきっかけだなと思える出来事を思い出した。

インドに行くとき、私たちは最初にネパールに飛んでからインドに入った。その際、メンバーの一人に連れられて、ネパールの首都であるカトマンズから、車で1時間ほどのところにある孤児院を訪問したのである。

かわいそうな子供たちのために、学用品の一つでも贈りたいと思って出かけたのだ。だがいざ着いてみると、私たちが目にしたのは、身なりこそみすぼらしいが、まばゆいばかりの笑顔に包まれた子供たちの姿だった。その輝きは、徳の高い聖人の一団にでも会ったような衝撃だった。

もともと子供が苦手な私でさえ、子供たちの笑顔に引き込まれ、夢中になって彼らといっしょに遊んだ。友人たちもその世界に完全に魅了されていた。まちがいない。あの体験が彼らをネパール移住へといざなったのである。

そうして彼らは日本での仕事を捨て、ボランティア活動に入っていった。私だって、あの後オーロビルに行っていなければ、彼らと行動を共にしていたかもしれない。

ふと気になって、仲間の一人だったヒロコさんにも連絡してみた。だが、なんだか電話口の声が変である。私より一回り上の50代だが、はじけるように快活な姿が印象的な女性だったのだ。それなのに、電話口から聞こえてくる声は、あまりにも弱々しいのである。

聞けば、帰国後に胃がんが見つかって手術までしたが、すでに末期だからダメらしい。治療としてはもう打つ手もないので、家で療養しているのだという。

あわてて彼女の家に向かう。京王線の駅を降りてしばらく歩くと、落ち着いた感じの住宅街にヒロコさんの家があった。ドアの前で深く息を吐いてから呼び鈴を押す。しばらくしてドアを開けてくれたのは、いっしょに暮らしているご主人だった。

案内された部屋に入ると、そこにはやつれ果てて、肩でやっと息をしている彼女の姿があった。そんな状態でも、私の姿を見るとなんとか笑顔を見せようとしてくれる。そのしぐささえ、体に負担が大きいようで痛々しい。

こんなときにどんな言葉をかけたらいいんだろう。この場にふさわしい言葉など何も浮かんでこない。浮かぶ言葉のすべてが空疎に感じられる。どうにかして励ましてあげたい。言葉にならないこの気持ちを、手でも握って伝えたい。しかし年が一回りも離れているとはいえ、ご主人が見ている前ではそれもはばかられた。

行き場のない手のひらを、そのまま彼女の手術したお腹にそっと当ててみる。するとヒロコさんは一言、「あったかい」とつぶやいた。そして消え入りそうな声で、「私、なんだか死なない気がする」といった。

それが今の心境なのだろう。もともと彼女は、あの世があることに確信をもっていると話していた。魂は永遠なのだから、死の恐怖ももっていないようだ。

だけど私は、そうかんたんにあの世になど行ってほしくない。それが正直な気持ちだったが、それを伝えることも酷な気がした。長居しても負担になるだろう。何もできない強いもどかしさを抱えたまま、「それじゃ、また…」といって私は部屋を後にした。

それから2日が過ぎたころ、ご家族から「逝っちゃった」と連絡があった。あのヒロコさんが死んだのだ。その現実を受け止め切れないまま、私はまた京王線に乗って葬儀場へと向かった。棺のなかに横たわる彼女の安らかな顔を目にしても、私には実感がない。

「人って本当に死ぬんだな」

そんなまぬけな思いしか浮かんでこない。そして足元に落ち続ける自分の涙を、ただぼんやりと見ていた。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング
    このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ