小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:ぎっくり腰

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小説『ザ・民間療法』挿し絵054

近藤くんから電話があった。彼は私が特殊美術をやっていたころからの知り合いで、放送作家のかたわら治療院も経営しているという変わり種である。

その彼が突然ぎっくり腰で動けなくなって、同じ治療家である私に助けを求めてきたのだ。自分の腰痛だってまだ治り切っていないのに、と思いつつも、仕事の前にちょっと寄ってみることにした。

彼のアパートは隣の駅の近くだという。電話をもらうまでは、こんなに近くに住んでいることも知らなかった。教えられた通りに歩いていくと、うちと似たりよったりのたたずまいの安アパートがあった。

「これだな」
そう思いながら、一声かけてからドアを開けると、そこにはせんべい布団の上で身動きもできずに転がっている近藤くんがいた。そのいかにも独り者らしい哀れな姿に思わず吹き出すと、つられて彼も自虐的な笑みを浮かべる。

私だって、ふつうの患者さんにこんな失礼な態度はとらない。しかし親しい友人だとつい気がゆるんでしまう。近藤くんは曲がりなりにも治療家だし、どんなに痛かろうがぎっくり腰で死ぬことはないから、気楽である。

彼にしても、私がなんとかしてくれるだろうという安心感があるようだったが、あとから他の友人たちに物笑いのタネにされるのは覚悟の上らしい。

背中を見ると、やっぱり背骨が大きくズレている。ただのぎっくり腰なら、このズレている背骨をもどすだけなので、サッと矯正する。何往復か矯正を繰り返して、身動きもできない状態から、一人でトイレに行ける程度にまでは回復させた。そして、「あとは自分でなんとかするように」といい残して、待ってくださっているホンモノの患者さんの家へと向かった。

数日して、彼から電話がかかってきた。おかげであれからは腰の調子もよく、今はほとんど痛みもないという。お礼の気持ちからなのか、この週末に、彼が師事している先生の勉強会に来ないかと誘ってくれた。

その勉強会は、彼が所属する治療家団体の凸凹会がやっている。民間療法にはたくさんの流派があって、それぞれが技を競っているが、この凸凹会のことは全く知らなかった。おもしろそうなので、二つ返事で参加することにした。

次の日曜日、明大前の駅で近藤くんと待ち合わせて、会場に向かう。10分ほど歩いたところにある建物に入ると、そこには50~60人もの人が集まっていた。

この勉強会では、毎回なんらかの病気をテーマにして、大先生がその治療法を伝授する。今日のテーマは「腎臓病」となっていた。ほとんどの腎臓病は病院でも治らない。それが手技だけで治せるのなら、スゴイじゃないか。

ほどなくして登壇した60代とおぼしき男性が話し始めると、ざわついていた会場がシンと静まりかえった。みな真剣に聞き入っている。私も興味津々で耳を傾ける。

すると先生は、壇上のベッドに寝ているモデルの脚をおもむろにつかんだ。そして足の裏を押しながら、「腎臓病を治すには、このように足の裏に親指で『の』の字を書くようにして」と説明する。

「え? なんで『の』の字? 腎臓病ってなんの?」
私の頭の中が混乱し始めた。だがまわりの人たちは、身じろぎもしない。この説明に動揺しているのは私だけのようだ。

一通り説明が終わると、今度は参加者同士がペアを組んで練習することになった。みな素直に相手の足の裏に「の」の字を書いている。思わず近藤くんに目をやると、彼は申し訳なさそうなそぶりを見せた。

しかし他の参加者は、いっしょうけんめいに「の」の字を書きつづけている。彼らは本当に「の」の字で腎臓病を治すつもりらしい。「郷に入っては郷に従え」であるから、私もいっしょに「の」の字を書いた。

こうしてとりあえず腎臓病の治療法はマスターした(と思う)。だが妙な姿勢を続けたせいで、やっとおさまりかけていた腰の調子がまた怪しくなってきた。勉強会はまだ始まったばかりだというのに、こんなことではどうなるのだろう。(つづく)

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015 小説『ザ・民間療法』挿し絵

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ある日、隣の部屋にミシェルという青年が住み始めた。彼は交通事故のせいで下半身付随になったときから、車いすの生活らしい。毎年フランスから一人でやってきて、バカンスの時季の数か月だけオーロビルで過ごすのだという。


ここでは、私も彼も何もやることがないので、日がな一日、二人でとりとめもない話をして過ごした。部屋の前に椅子を出して座り、目の前の草むらをゆっくりとコブラが通り過ぎていくのを、ただだまって眺めていたこともある。

そんなミシェルのところには、同じフランス人のマッサージ師アドンが通ってきていた。アドンは40歳ぐらいのがっちりとした体格の男性だ。彼以外にも、オーロビルには自称、治療家はたくさんいる。彼らはそれぞれの得意技で生計を立てている。アドンもその一人だが、彼はオーロビルでもっとも人気が高いという話だった。

アドンはいつも自転車に乗って、ミシェルのところにやって来る。部屋に入ると、慣れた手付きでミシェルをベッドに仰向けに寝かせ、彼の動かない足を丹念にマッサージする。次に両足を持ち上げて、空中で自転車漕ぎをするように左右の足を交互に動かす。

この一連の動作はなかなかの重労働である。アドンは汗だくになって続けていた。もちろんそんなことをやっても、ミシェルの足が動くようになるわけではない。しかし彼の足は運動神経が麻痺しているだけで、血流は止まっていない。組織だって生きている。その足を強制的に動かしてやることで、足だけでなく全身の血流も良くなるのだろう。

人間の関節というのは、使っていないとあっという間にさびついて動かしにくくなる。アドンはミシェルの足の関節がさびつかないように、力を貸して動かしてあげているのだった。

私は東京で特殊美術の仕事をしていたころ、ミシェルのように下半身が動かない男性を紹介されたことがあった。彼の麻痺した足はどこの病院でも治せなかったが、私がテレビ局の控え室でぎっくり腰を治した話を聞いて、私なら奇跡を起こせるのではないかと思ったらしい。

まさか神様でもあるまいし、麻痺した足を治すことなど私にできるはずがない。それはわかっていたが、無下に断るのもしのびなかった。そこで会うだけ会って、体を見せてもらうことにした。下半身不随とはどういう状態なのか。そこに多少の興味があったことも否定できないが、私は人から頼まれると断れないタチなのだ。きっと根がエエカッコシイなのだろう。

実際に彼の体を見てみると、障害を負った背骨の部分は、圧縮したようにがっちりと固まっていた。伸び縮みするはずの弾性が、完全に消え去っているのである。これを見ただけで、私の力量ではとうてい歯が立たないことはすぐにわかった。治すどころの話ではない。素人の私には、そんな体に触れることすら恐ろしかった。

しかし会った以上、何らかの貢献はしたい。私でなくても、どこかに奇跡を起こせる人がいるのではないかと考えた。彼も今までに何人もの治療家に診てもらったが、ダメだったようだ。そこで私の知っている有名な治療家のところへ、彼を連れて行ってみることにした。

その先生は、総理大臣になる前の竹下登を治療して、職務を果たせるようにしたことで有名だった。ところが彼の自信たっぷりな態度とは裏腹に、何回通っても効果は全く現れなかった。やはり民間療法のレベルでは、麻痺はどうにもならないのだろう。

ところがアドンのマッサージは、そんな奇跡を求める治療とは全くちがっていた。何かを治そうというのではなく、少しでも生活レベルを落とさないための努力だったのだ。そこに派手さはないが、より現実的で確実な治療だといえるだろう。彼の人気が高いのは、私にもわかる気がした。

得てして民間療法では、自分の力量を誇示するために派手なことをして見せようとする。しかしそれは自分のためであって、患者のためではない。だれもがイエス・キリストの奇跡のような結果を期待するが、そんなものは今の世には存在しないのだ。

私がテレビ局で腰痛を治したのだって、あれは決して奇跡なんかではない。今の医学に欠けた部分をわずかに補っただけである。それが奇跡に見えたとしても、そこにはちゃんと理由があるはずだ。そのしくみを知りたい。

あれ以来、ずっと私のなかにこの疑問がモヤモヤとくすぶっていた。この答えさえわかれば、奇跡の正体がつかめるはずだ。そんなことをぼんやりと考えながら、出口も見つからないまま、暑いオーロビルでの暮らしが続いていた。

そしてミシェルは例年通り、ここで3か月ほどのんびりと暮らしたあと、フランスの実家へと帰っていった。別れ際に、「ぜひうちに遊びに来て、しばらく滞在してほしい」と熱心に誘ってくれた。ところが私は、「チャンスがあれば」と気のない返事をしただけで、あえて連絡先も聞かなかった。

実は彼は大金持ちのご子息で、南フランスのお城で暮らしているというのは、あとから聞いた話である。お城での暮らしを見てみたかった気もするが、彼の去ったあとの南インドは、これからさらに暑い季節を迎えるところだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵003-01
せっかく進学した美術大学で油絵科に籍を置いたものの、いつしか私のなかでは絵を描く情熱は消え失せていた。最低限の課題には取り組んでいたが、あとは可能な限り旅に出た。旅といっても1970年代といえば、ディスカバー・ジャパンの時代である。行き先はまだすべて国内だ。

私の大学へは、あちこちの地方から学生が集まっていた。その同級生たちの実家に泊まらせてもらいながら、夜行列車を乗り継いで貧乏旅行を繰り返す。興味の赴くままに寺社仏閣や仏像を見て回っているうち、とうとう卒業の時期を迎えてしまった。

卒業したらどうしよう。これといってやりたいことはない。企業に就職する気もないから、就職活動も全くしていない。それでも在学中に教員免許だけは取得していたので、高校で美術教員をやってみた。

教員生活では、生徒たちとの交流にはそれなりのおもしろさを感じられた。だが、このまま教員として一生を終えてよいものか。その選択は私のなかではしっくりこなかった。学校という閉鎖社会にも、いいようのない居心地の悪さを感じていた。そこで思い切って東京に戻り、大学時代の友人と二人で、美術で起業することにしたのである。

私たちが選んだのは特殊美術の業界だった。特殊美術とは、テレビ番組やCMで使う造り物や、タレントの被り物を制作する、いわゆる「美術さん」だ。これは立体の制作がメインなので、絵画とはちがって、目で見ることよりも、手で触れて形を確かめる作業のほうが多い。そこで重要なのは、何よりも鋭敏な触覚なのである。

しかも立体には、絵画のような平面よりもリアリティが求められる。その点が私にとっては魅力だった。「これは芸術だ」「アートなのだ」と息巻かなくてもよかったし、ちゃんと世の中から必要とされる物を作れば、それだけで確かな喜びが得られた。

もちろんお金に困ることもない。私が起業した当時は、日本中がバブル景気を謳歌していたので、テレビ番組の予算だって今よりもずっと潤沢だった。

ある番組のディレクターと昼食に行ったら、「1人5万以上使ってくれないと領収書が下りない」といわれたことがある。たかがランチでこの金額である。CMの企画でも、私が思い切って高めにつけた見積りが、「これじゃ安すぎてクライアントが納得しない」といって突き返されたりもした。特殊美術とは、そういう意味でも少々特殊な業界だったのだ。

                    *

そんなあるとき、日々の立体制作で培われた技術が、本業以外の場面で役に立つ事件が起きた。いつものように私は番組収録のため、テレビ局の控室でスタンバイしていた。そこへスタッフの1人が腰を「く」の字に曲げ、額には脂汗をにじませながら入ってきたのである。聞けば、腰痛がひどくて病院に寄ってきたけど、全然痛みが取れないのだという。

ひまを持て余していた私は、彼の姿を見てちょっと好奇心が湧いた。彼の腰に触れてみると、「ここが痛い」という部分は背骨がクランク状に曲がっている。しかも曲がったところが腫れて、明らかに熱をもっていた。立体制作で鍛えた指先の感覚が、私にそのことをはっきりと告げていた。

対象がモノであろうとヒトであろうと、指先の感覚を通して、形を確かめることに変わりはない。形の確認だけでなく、思い通りの形に修正するのも私の仕事である。彼の体の形はおかしいのだから、これは修正が必要なのだ。

そう感じた私は、クランク状になっている彼の背骨を、ゆっくりと正しい位置まで押してみた。すると曲がった線を描いていた背骨が動いて、徐々にまっすぐになっていく。それと同時に、熱をもっていた腫れがスーッと消えていく。それが私の指先でわかる。

私が背骨を押していると、彼は「あれ? あれ! あれ~っ!」と声のトーンを上げながら驚いていた。そして「痛くない、あれ、痛くない!」といいながら、腰を曲げたり伸ばしたりして体の向きを変えながら、さきほどまでの痛みを探している。

しかしいくらポーズを変えても痛みがない。彼だけでなく、まわりで一部始終を見ていたスタッフたちも、声も出ないほど驚いていた。さくらを仕込んだ大道芸のような光景だ。時代劇なら、ガマの油が飛ぶように売れるところである。

だが私にしてみたら、さして珍しくもない。中学のころから体験していたことだから、当たり前の結果である。ところがそれからは、テレビ局のみんなの、私を見る目が変わった。ただの「美術さん」だった人が、「治療をする人」に昇格した。ただし単なる治療家ではない。霊能力者か超能力者のような、「奇跡を起こす人」といった扱いになってしまったのだ。

なぜそうなったのかはわかる。実は私が彼の腰痛を治したとき、いわゆる民間療法家が見せるようなオーバーアクションはしていない。手が触れるか触れないかぐらいにしか見えなかったはずだ。手が動いていなければ、念力か何かで治したと思うだろう。だから奇跡に見えたのだ。

この一件が私のその後の人生を大きく変えた。私のもとへは、病気だけでなく人生相談まで舞い込むようになった。人から頼まれてのこととはいえ、何の知識もなく人の体に触れていたのだから、今思えば冷や汗が出る。しかし、おかげで頭を下げて仕事の営業をする必要がなくなって、会社はますます順調に成長していった。(つづく)

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