*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
小説『ザ・民間療法』挿し絵050

私はいつも自炊している。1年のうち1000食は自炊しているだろう。経済的な理由だから、弁当や惣菜を買って家で食べるようなこともない。ところが出張整体の仕事だと、出先からそのまま次の場所に移動することが多い。するとなかなか家に帰れないことがある。そういうときだけ、いちばん安そうな店を探してそこで食べることになる。

その日は、たまたま立ち寄った定食屋で、料理が出てくるまでテレビを見ていた。うちにはテレビがないので、テレビがついているとちょっとうれしい。しかし私が入るような店では、だいたいプロ野球の中継だからつまらない。今日は時刻が早かったせいか、イルカと泳げるプールがある沖縄のホテルの話題だった。

「あ、あのホテルだ」

もうだいぶ前のことになるけれど、私もこのホテルのプールでイルカと泳いだことがある。その番組では「イルカは大変かしこいので、体の弱い人や障害のある人を一瞬で見抜いて、寄り添って泳いでくれる」と説明していた。イルカといっしょに泳いでもらうと、癒やしの効果があるらしい。

しかし私が泳いだときはちがっていた。イルカはそれほどフレンドリーではなかった。これは人間の性格が人それぞれちがうのと同じで、イルカにも個性があるということかもしれない。

そのときは、別にイルカと泳ぎたかったわけではない。仕事で泊まったホテルにプールがあったから泳ごうと思っただけで、そこに偶然イルカも泳いでいただけなのだ。私としては、「ま、いっしょに泳いでもイイか」ぐらいの感覚だったが、そこにはイルカの大きなフンがプカプカ浮いていた。それが気持ち悪くて早々に水から上がった。

道端に落ちているイヌやネコのフンなら、よけて通ればすむ。ところが、大きくもないプールではよけようがない。泳げばフンごとかきまわすことになるから、体どころか口の中までフンまみれになってしまう。そんなことはどうにもがまんできなかった。

家で飼っているイヌがどんなにかわいくても、そのイヌのフンが風呂に入っていたら、とてもじゃないがゆっくりと浸かってなどいられないだろう。イルカの巨大なフンの存在は、癒やし効果どころなど帳消しにするインパクトだったのだ。

テレビを見てフラッシュバックのように、プールに浮いたイルカのフンを思い出していたら、やっと料理が運ばれてきた。そこでハッと我に返ったかと思うと、ひらめいた。イルカはともかく、健太くんをプールで泳がせてみてはどうだろう。

脚の悪い人や肥満の人でも、プールでならムリなく全身運動ができる。そういうプログラムはどこのプールでもたくさんあると聞いている。脳性麻痺の健太くんだって、水に浮いていれば楽に脚を動かす訓練ができるはずだ。転ぶ心配がないから安全だろう。

早速、健太くんのお母さんに相談してみると、まだ一度もプールに行ったことはないという。それでは、と近くのスイミングスクールにいっしょに行ってみることにした。

私は水泳が大好きで、「きれいな水」のあるところなら、泳がずにはいられない。水の中には、日ごろの生活とは全くちがった世界が広がっている。その感覚を健太くんにも味わってもらいたかった。

スイミングスクールでは、やさしそうな女性トレーナーのハヤノさんが付き添ってくれた。彼女は障害のある子供の扱いにも慣れていたので、ハヤノさんの指導で、健太くんをゆっくりと水に浸けていく。少しずつ体全体を水に浸け、完全に水に浮かべようとしてみた。

ところが健太くんは初めてのプールに大はしゃぎで、うれしさのあまり口が大きく開いたままである。危うく水を飲みそうになる。「口のところに水が来たら、口を閉じるんだよ」といってみても、それができないのだ。

健太くんの場合、単にうれしくて閉じられないのではなく、口を閉じるタイミングがうまく合わせられないようだった。ちょっとした刺激で脚を強く交差させてしまうのと同じで、脳性麻痺による機能としての問題かもしれない。

健太くん本人はとても楽しそうだったが、これでは危険だ。泳いでいて、一瞬呼吸のタイミングをまちがえて、水を飲んでしまうことはだれにでもある。しかし健太くんが、完全に口を開けたまま水を飲んでしまったら、飲み込む水の量も多くなる。ヘタをしたら肺に入って、誤嚥と同じ結果になるかもしれない。

トレーナーのハヤノさんも、健太くんには水泳は危険だと判断した。いっしょに泳げたらいいのに、と思った私の気持ちは宙に浮いたまま流れていった。私の気持ちなんかどうでもいいが、残念ながらリハビリにもならないから、水泳は今回だけであきらめるしかなかった。(つづく)

*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング