小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:インド

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 小説『ザ・民間療法』挿し絵027

インドから帰国してしばらくたつというのに、私にはまだ住む家がない。あいかわらず友人たちの家を転々とする暮らしが続いていた。今どき、いそうろうなんてメイワクだろうと思うが、どこの家でもごちそうを用意してもてなしてくれる。

学生時代に、地方出身の友人の実家を泊まり歩いていたころを思い出す。われながら、ずうずうしいとはこういうヤツのことだと思う。しかしそんな心づくしのごちそうのおかげで、少しずつ食欲が回復し、インド暮らしで失った体重とともに、本来の体力ももどってきた。

そこでささやかではあるが、お礼として今までの治療法に加えて、インドで覚えたオイルマッサージを披露してみた。するとみなたいそう喜んで、口々に「プロになったらいいのに」といってくれるのだ。

半分お世辞なのはわかっている。それでも内心では、これを生業にできたらいいなと思い始めていた。もちろんお金をもらうとなると、ちゃんとそれなりの勉強をしなければいけないはずだ。そんなことを考えていると、インドで別れた友人たちのことが頭をよぎった。

みんなどうしているだろう。あのときのメンバーのうち二人は、一旦帰国したあと日本での生活をすべて捨てて、ネパールに移住してしまったらしい。その話を人づてに聞いて、あれがきっかけだなと思える出来事を思い出した。

インドに行くとき、私たちは最初にネパールに飛んでからインドに入った。その際、メンバーの一人に連れられて、ネパールの首都であるカトマンズから、車で1時間ほどのところにある孤児院を訪問したのである。

かわいそうな子供たちのために、学用品の一つでも贈りたいと思って出かけたのだ。だがいざ着いてみると、私たちが目にしたのは、身なりこそみすぼらしいが、まばゆいばかりの笑顔に包まれた子供たちの姿だった。その輝きは、徳の高い聖人の一団にでも会ったような衝撃だった。

もともと子供が苦手な私でさえ、子供たちの笑顔に引き込まれ、夢中になって彼らといっしょに遊んだ。友人たちもその世界に完全に魅了されていた。まちがいない。あの体験が彼らをネパール移住へといざなったのである。

そうして彼らは日本での仕事を捨て、ボランティア活動に入っていった。私だって、あの後オーロビルに行っていなければ、彼らと行動を共にしていたかもしれない。

ふと気になって、仲間の一人だったヒロコさんにも連絡してみた。だが、なんだか電話口の声が変である。私より一回り上の50代だが、はじけるように快活な姿が印象的な女性だったのだ。それなのに、電話口から聞こえてくる声は、あまりにも弱々しいのである。

聞けば、帰国後に胃がんが見つかって手術までしたが、すでに末期だからダメらしい。治療としてはもう打つ手もないので、家で療養しているのだという。

あわてて彼女の家に向かう。京王線の駅を降りてしばらく歩くと、落ち着いた感じの住宅街にヒロコさんの家があった。ドアの前で深く息を吐いてから呼び鈴を押す。しばらくしてドアを開けてくれたのは、いっしょに暮らしているご主人だった。

案内された部屋に入ると、そこにはやつれ果てて、肩でやっと息をしている彼女の姿があった。そんな状態でも、私の姿を見るとなんとか笑顔を見せようとしてくれる。そのしぐささえ、体に負担が大きいようで痛々しい。

こんなときにどんな言葉をかけたらいいんだろう。この場にふさわしい言葉など何も浮かんでこない。浮かぶ言葉のすべてが空疎に感じられる。どうにかして励ましてあげたい。言葉にならないこの気持ちを、手でも握って伝えたい。しかし年が一回りも離れているとはいえ、ご主人が見ている前ではそれもはばかられた。

行き場のない手のひらを、そのまま彼女の手術したお腹にそっと当ててみる。するとヒロコさんは一言、「あったかい」とつぶやいた。そして消え入りそうな声で、「私、なんだか死なない気がする」といった。

それが今の心境なのだろう。もともと彼女は、あの世があることに確信をもっていると話していた。魂は永遠なのだから、死の恐怖ももっていないようだ。

だけど私は、そうかんたんにあの世になど行ってほしくない。それが正直な気持ちだったが、それを伝えることも酷な気がした。長居しても負担になるだろう。何もできない強いもどかしさを抱えたまま、「それじゃ、また…」といって私は部屋を後にした。

それから2日が過ぎたころ、ご家族から「逝っちゃった」と連絡があった。あのヒロコさんが死んだのだ。その現実を受け止め切れないまま、私はまた京王線に乗って葬儀場へと向かった。棺のなかに横たわる彼女の安らかな顔を目にしても、私には実感がない。

「人って本当に死ぬんだな」

そんなまぬけな思いしか浮かんでこない。そして足元に落ち続ける自分の涙を、ただぼんやりと見ていた。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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小説『ザ・民間療法』挿し絵026


久々の日本は真夏だった。
ところが連日40度を超すインドの気候に慣れた身には、30度台では暑くない。むしろ寒い。栄養失調でガリガリに痩せた体ならなおさらだ。

こんなときは家でゆっくりと温かいフロにでも浸かって、長旅の疲れをいやしたい。

だが、私には帰る家がない。日本を出るとき、家どころか生活道具から住民票にいたるまで、一切合切を捨ててインドに渡ったのだから、今の私はホームレスなのである。

どうしよう。
国籍だけはあるから、何とかなるか。しかし現実はそれほど甘くはない気もしてきて、成田空港の到着ロビーでしばし考え込む。

そういえば出国のとき、友人たちは「帰ってきたら寄りなさい」といってくれたはずだ。それを思い出して、胸のなかにポッと灯りがともる。

イヤ待て。
転居通知のハガキに「お近くにお立ち寄りの節は」と書かれていたって、文面通りに新居に押しかける人などいないではないか。

迷惑かな。そりゃメイワクだよな。
ところがどっこい、私はインド帰りである。彼の地では、ダメモトで何でもいうだけはいってみるものなのだ。

怖じ気づいている場合ではない。とりあえず手帳にメモしてある友人にかたっぱしから電話して、「泊めてくれ」と頼んでみた。すると予想外に、だれも断らない。みな快く受け入れてくれたのである。

ありがたい。これで当面の居場所は確保できた。
まずは、銀行通帳と印鑑を預けてあるマリちゃんちに行こう。この通帳と印鑑だけが、日本での私の持ち物の全てだから、受け取るついでに泊めてもらうことにした。

つかの間の安心感に包まれた私を乗せて、リムジンバスが静かに走り出す。車窓を流れていく風景を眺めていると、ふと私の周りに異空間が広がり始めた。

何かがちがう。
インドでは都会はもちろん田舎だって、どこへ行っても混沌とした喧騒がやさしく私を包んでいた。

ところが日本では、これだけ大勢の人がいても叫ぶ人など一人もいない。こんなに車があるのに、けたたましいクラクションの音も聞こえてこない。

バスが走っても土ぼこりも立たない。デコボコ道で揺れて、バスの天井に頭を打ちつけることもない。高速道路には牛もラクダもいない。

大きく息を吸い込んでみても、あの濃厚な花の香りもスパイスの匂いもしない。まして、シートの下にコブラやサソリも隠れていない。こんな「ないない尽くし」の日本では、周囲の人間から身を守る必要すら「ない」のだ。

だがこの雰囲気は、あまりにも安全過ぎて身の置きどころがない。安全と安心はちがうというが、戦地から帰還した兵士もこんな感覚なのだろうか。いや、インドを戦地と比べてはインドにも兵隊さんにも失礼だ。

そういえばインドから帰国した人間の一部は、ある風土病に感染しているらしい。一度この病気にかかると、せっかく母国に帰っても一向に環境になじめないのだという。

「かぶれ」と呼ばれるこの風土病は、インド型のほかにアメリカやヨーロッパなどの西洋型もあるようだ。語尾に「ざんす」がつく「おフランス型」、何かと肩をすくめてみせる「アメリカ型」などの症状は有名だが、「インド型」にかかった人は、他人に会うとつい両手を合わせて「ナマステ」と口走る。

症状はファッション感覚にまで及び、色褪せたTシャツに冬でも素足に革サンダルを好むようになってしまう。こうなると外から見ただけでも診断がつく。私のなかに立ちのぼってくる周囲への違和感からすると、私もすでに感染しているのかもしれない。

そんなことを考えているうちにリムジンバスは終点に着いた。そこでは出国前と変わらぬ笑顔でマリちゃん夫妻が出迎えてくれた。

その懐かしい顔を見てホッとしたが、バスを降りた私を見た二人は、口々に「痩せたね~!」「焼けたね~!」といって目を見張る。

インドなら、どれだけ痩せていようが日焼けしていようが全く目立たないが、彼らの目にはいかにもインド帰りに見えたことだろう。

そんな久々の再会を祝って、マリちゃんの夫のコタくんが、「まあ、1本」といってタバコをすすめてくれる。

「お、紙巻きだ」

インドでは、乾燥させたタバコの葉を丸めただけのビリが一般的だから、紙巻きは高級なのである。ありがたくおしいただいてから、火を着けて一息つく。

すると今度は「どうだ、軽くなっただろう?」とコタくんが同意を求めてくる。

「ホウ?」
私が手のなかでタバコの重さを確かめていると、二人が顔を見合わせる。その表情から察するに、どうやら私はかなり妙になっているようだ。

「タバコが軽い」といえばニコチンやタールの話だし、日本では紙巻き以外のタバコのほうが珍しい。そんなことはすっかり忘れていた。

そういえばインドでは、日本語を使う機会がほとんどなかった。コミュニティのメンバーとの夕食の際、それぞれの国でネコのことを何というかが話題になったことがある。

スペイン、フランス、ドイツと回ってきて、いざ私の番になったら、ネコという言葉が出てこない。「あれ? キャットはキャットだろう」という言葉だけが頭のなかで繰り返されていた。

自分でも脳血管障害かと疑ったほどだから、私の「かぶれ」は帰国よりずっと以前に発症していたのかもしれない。

その場を何となくごまかして、やっとたどりついたマリちゃんの家でも、食事のときに私は両足を床に降ろすことができなかった。

それからしばらくたっても、靴のなかに何もいないか確かめてからでないと靴が履けないし、ペットボトルの飲料を買ったら、キャップが開いていないかも入念にチェックする。サンダルを買うときには、左右のサイズが同じかどうかを確かめている自分にも気がついた。

まちがいない。劇症のインド型だ。もちろん治療薬などないから、ただひたすら自然治癒を待つしかない。

こじらせてさらに重症化するようなら、日本での暮らしに支障が出る。そうなるともうインドへもどるしかないが、それは私の体力ではムリなのだ。

そうだ。私は体力を回復するのが先決だ。
マリちゃんちに2晩泊めてもらってから、次の友だちの家に向かう電車のなかで、そう心に決めた。体力さえもどれば何とかなる。あとのことはそれから考えればいいだろう。(ナマステ)(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵025
1年もの間、オーロビルで共に暮らしたコミュニティのみんなに別れを告げ、私はまずはカルカッタへと向かった。

カルカッタでは、私にオーロビル行きを勧めてくれたジャナさんに会い、あらかじめ頼んでおいたシッキムへのパーミット(許可証)を受け取った。このパーミットがなければ、シッキムには入れない。河口慧海風にいえば、関所を通るための通行手形なのである。

慧海の場合、チベットに行こうと思えば関所破りしかなかったので、彼はヒマラヤの周囲をかなり遠回りした。当時は関所破りが見つかれば重罪で、死刑は免れなかったからである。それに比べて私は、パーミットを手にして意気揚々と飛行機に乗り、苦もなくシッキムの州都、ガントクの入り口であるシリグリ空港に到着した。

シリグリに降り立つと、いきなりひんやりとした空気が私の肺を満たす。インドに来て以来、溜まりに溜まっていた熱気が一挙に押し出された。これだけで生き返ったようだった。

シリグリからガントクまではタクシーで5、6時間の距離である。早速、空港で客引きをしているタクシー運転手たちと料金の交渉に入る。相場はわからないが、得意の交渉術を駆使して往復5000円で決着した。5000円といえば彼らの月収に当たる額だから、高いといえば高い。だがここであまり値切ってしまうと、肝心の目的地に着かない可能性もあるのだ。

標高1600メートルを超すガントクに行くには、ヒマラヤのふもとからひたすら急勾配を登っていく。さすがにヒマラヤの地形はスケールがちがう。車道の片側は、全く底が見えないほど深い深い谷底へと続いている。しかも至るところに崖くずれのあとがあり、落石でつぶされた車が何台も、回収もされずに転がったままになっていた。自分の乗った車がこんな姿にならないことだけをひたすら念じるしかない。

この時季は雪がないが、これで雪が降ったらどうするのだろう。このあたりには希少動物のユキヒョウがいるというから、顔を見せてくれないだろうか。そんなことを考えて気を紛らわす。

ガントクへ向かっているのは私たちだけではなかった。だが他の車は軍用のトラックばかりである。軽いノリでやってきた私は場ちがいな気もしたが、何とか検問所までたどり着く。そこには銃を提げた兵士が立っていて、強い目線でこちらをにらんでいる。パーミットがあるとはいえ、これで本当に大丈夫なのか。また不安になる。そうやってものものしい検問所を抜けると、やっとガントクだ。

崖から落ちないかと緊張した状態で6時間。それに加えてガタガタ道で車に揺られて体が固まっていた私は、少し街のなかを歩いて体をほぐすことにした。

しばらく歩いていると、地元の子供たちが私の後をついてくるのに気がついた。どうやら長い金髪を垂らした田舎のロックミュージシャン風の格好が、彼らにはよほど珍しかったようだ。街外れに着いたときには、その数が30人ほどにまでふくれ上がっていた。これではまるでハメルンの笛吹き男ではないか。

あの笛吹きはそのまま子供を連れ去ったというが、どうしたものか。私はあまりの数に困り果てた。仕方がないので急ぎ足でタクシーまで戻り、群がる子供を振り切って、目的地であるラマ教寺院へと出発した。後ろを振り返ると、タイヤから上がる砂塵の向こうで、子供らの群れも小さくなっていった。

ほどなくしてお目当ての寺院に近づくと、マルコの8ミリ映像に映っていた、あの鼻輪を着けた人々がいるではないか。昔ながらのその姿に「おお!」と思う間もなく、私を乗せたタクシーは寺院の門前に着いた。

そこでタクシーを待たせておいて、私は門をくぐる。本堂は崩れたままで往時の輝きは失せていたが、奥のほうからは経文を唱える声が聞こえてくる。その声からすると、修行者たちはまだ大勢いるようだ。

ヒマラヤの聖者とはいわないまでも、ここにだけは途切れることなく釈迦の教えが生き続けているのかもしれない。これからどんな出会いがあるのだろう。そう思うと期待に胸がふくらむ。それと同時に緊張で尿意を覚えたので、ちょっとトイレへと立ち寄った。

トイレの扉を開けると、私の眼前にはかつて見たことのない光景が待ち受けていた。この衝撃を何と表現したものか。ただことばもなく、即座に私は扉を閉めた。チベット寺院で暮らしていた慧海も、僧侶たちの衛生観念のなさには辟易したという記述がある。その彼の思いが、一瞬にして私の体内を駆け抜けた。

さらに慧海の『チベット旅行記』には、チベット仏教の秘薬の話も書かれていた。あの当時でも、その秘薬はありがたいものだった。だが秘薬の正体は、高僧の大便をその下のクラスの僧の尿で練って丸め、上から金色に着色して仕上げていたのである。日本人の衛生観念からすると、にわかには信じがたい話だろう。

「ハナクソ丸めて万金丹、ソ~レを飲むヤツ、アンポンタン」
私が子供のころ、こんな囃子唄があったが、秘薬はそのはるか上を行くシロモノだ。しかし、この寺院のトイレを見てしまった私には、慧海の話の信憑性を疑う気にはならなかった。

そういえば以前、父といっしょに知り合いの家に行ったら、その家の夫人が「最近、健康のために飲尿療法を始めたのよ」と得意気に話し始めたことがあった。それを聞いた途端、出されたお茶を持つ父の手がピタリと止まった。そして「あまり長居をしても…」といいながら、そそくさと帰り支度を始めた。わが父ながら、わかりやすい反応だ。

だが生理的な不快感はすべてのものに優先する。それがどれほど健康に良かろうが、またすばらしい悟りの世界であろうが関係ないのである。

ところが人間は、とかく表面のありがたさに目がくらむと、判断力を失うものでもある。それが洗脳ということだろう。しかし河口慧海は真実を知った。見せかけだけの信仰の愚かさを悟り、最後には自ら僧衣を脱いで還俗したのである。

私も衝撃の光景のおかげで、一挙に洗脳が解けた。そうだ。このトイレでの悟りを胸に、私は日本へ帰ろう。そう決意した私はそのままきびすを返し、経文の唱和に包まれてラマ教寺院を後にしたのだった。(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵024
「よし、日本に帰ろう!」
そう心に決めたはイイが、思えば何のためにインドに来たのだったか。これといって具体的な目的があったわけではない。かといってこんなところまで来ておきながら、収穫らしきものが何もないまま、手ぶらで帰っていいのだろうか。そんなことが頭のなかでグルグルし始めた。

そのときフッと、前にマルコに見せてもらった映像を思い出した。彼は若いころ、中国に組み込まれる以前のチベットのラサに赴き、そこにあるチベット寺院を8ミリフィルムに収めていたのである。

彼はシッキムからのルートでチベットに入国したようだが、その白黒の映像には、鼻輪を着けたシッキムの人々が行き交う姿が映っていた。それは私に鮮烈なイメージとなって記憶されていた。

シッキムといえば、以前読んだ河口慧海(かわぐちえかい)の『チベット旅行記』にも、慧海がマルコと似たようなルートをたどった記述があった。それはちょうど日清戦争前夜のころのことで、禅僧だった慧海は仏の教えの真実に迫るべく、当時は鎖国状態だったチベットに命がけで密入国を試みたのである。

河口慧海といっても、今の日本ではあまり知られていないだろうが、海外では探検家としてリビングストンと並び称される人物だ。その慧海の求道の旅にはいくつかのルートがあった。その一つが、カルカッタからシッキムに入り、チベットへと抜ける方法だったのだ。

そうだ。私もシッキムに寄ってから日本に帰ろう。
シッキムは、今ではインドの州の一つになっている。しかし慧海の時代には独立した王国で、地理的にはネパールとブータンに挟まれたヒマラヤのふもとにある。

ヒマラヤに行こうと思い立った瞬間、私のなかを涼しい風が吹き抜けた。心はすでにヒマラヤの雪景色のなかである。熱暑の日々に疲弊しきっていた私には、そこはまるで天国のように感じられた。

今でもヒマラヤには聖者がいて、雪山のなかで修行しているという話なら、インドでは何度も耳にしていた。ところがその聖者に実際に会ってきた人の話は聞いたことがない。

私はインドに来る前、ネパールのカトマンズに立ち寄って、ヒマラヤの上を飛ぶ遊覧飛行を体験した。パイロットが上空数百メートルまでヒマラヤに接近してくれたので、聖者らしき人影を探してみたが、私には何も見えなかった。

もちろん、たとえヒマラヤには聖者がいるとしても、今の私の体力でそんなところまで会いに行けるものではない。だからせめて、慧海のたどった求道の旅の一部でも体験してみたい。

そういえばシッキムにはラマ教の総本山があったはずだ。
ラマ教とはチベット仏教のことで、日本の密教的な要素が強いことが知られている。その総本山までは行ってみよう。そうすれば、人生の指針の一つでも得られるかもしれない。そんなことを考えながら、旅の支度を始めた。

オーロビルでは、私が日本に帰ることを聞きつけた人たちが集まって、お別れの会を開いてくれた。それぞれ国はちがっても、ファミリーのようなつきあいをしてきた仲間である。いざ別れるとなると、さすがにつらい。みんな私の苦手なハグやキスを連発して別れを惜しんでくれた。そして口々に、「もっとここにいて、私たちの体を診てほしい」ともいってくれた。

その光景は、慧海がチベット寺院を後にして日本に帰国するときのことを想起させた。多少医学の心得があった彼は、たまたま脱臼した子供の腕を治したことから、チベット寺院では医師としてもっとも高い地位を与えられていたのである。そのため帰国する際、かなり強く慰留されたようだ。しかし彼は「私は医者ではなく修行僧だ」といって、きっぱりと断ったのだという。

それでまた思い出した。私はインドに仏道修行に来たわけではなかったのだ。もちろん治療家になろうと考えていたのでもない。全てはあのときテレビ局の控室で、なぜ彼のぎっくり腰が私の手で治ったのか、その理由を知りたかっただけである。そのヒントでも見つかればいいな。そう思って何となくインドまで来てしまったが、そこに深い考えがあってのことではない。

そこまで思い出したおかげで、頭のなかのグルグルが少し収まった。そして幾分気持ちが軽くなった私はオーロビルに別れを告げ、慧海がチベットへと旅立った最初の地、カルカッタに向かったのである。(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵023
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昨日から今いち体調が優れない。今朝も頭がボーッとして寝起きが悪かった。そういえばインドに来てからどれだけ痩せただろう。ヨーロッパから来た人たちはそんなことはないのに、私だけがどんどん痩せていく。たぶん食べてないからだろう。連日の猛暑のせいで食べる気力すら失っている。慢性的な夏バテのようだ。

少し休もうと思ってベッドに近づく。すると意識が遠のいていく。卒倒するとはこんな状態なのだろうか。もう立っていられなくなった。体は棒のようにまっすぐのまま、容赦なくバタッと倒れこんだ。

倒れただけならまだよかった。倒れる方向が悪かったのだ。ベッドに向かっていればよかったのに、私の体はコンクリートの壁に向いていたのである。最初に頭が壁にゴンとぶつかった。そのまま額で壁をこすりながらズルズルと落下していく。遠のく意識のなかで、これは大変なことになったなと思っていた。

それから4、5時間もたっただろうか。意識が戻った。戻ったといっても回復したわけではない。あまりの激痛のために、意識が揺さぶられて覚醒したのである。

両肩がとんでもなく痛い。なぜそんなところが痛いのだろう。激しくかけめぐる痛みのなかで記憶をたどる。倒れたときに打ったのは、頭だけだったことは覚えている。それがなぜ両肩なのだ。首の骨でも折れたのか。しかし痛いのだから脊損ではない。指は動く。だが痛くて腕は上がらない。力石徹と戦い抜いた「あしたのジョー」のようである。

とにかくだれかに知らせなければならない。やっとのことで部屋から這い出して、またユルグに助けを求める。彼は驚いて「どうしたんだ!」といいながらかけ寄ってくる。別に同居しているわけでもないのに、こうやっていつもユルグに見つけてもらえるのは幸運だ。痛いながらも、必死にいきさつを説明する。彼の話では、私の額からはけっこうな量の血が出ているらしい。

とりあえずベッドに寝かせてもらう。しかしベッドに横たわるだけの、そのちょっとした動作がきつい。向こうずねを麻酔もなしでメスでえぐり取られたときも痛かったが、今回の痛みもそれに匹敵する。こうやって痛みの歴史だけが増えていく。

私が倒れたのを聞いて、オーロビルの治療家たちがどんどん集まってきた。それぞれがマッサージや整体的なことを試みようとする。なかにはカウンセリングのテクニックで、私の悩みを聞き出そうとする人までいた。だが目下の私の最大の悩みは両肩の激痛なのだから、そっとしておいてほしい。話をするだけでも痛みが増して脂汗がにじむ。そうこうしているうちに、マルコがどこからかトラックを借りてきた。

オーロビルではだれも自家用車など持っていないから、借りるにしてもトラックしかなかったのだろう。そのトラックの荷台にマットを敷いて私を寝かせる。そのままポンディチェリの病院まで運んでくれるのだという。

「トラックの荷台から見るインドの空は広い」
広いのは事実だが、そんな呑気な気分ではない。なんといってもポンディチェリへの道は強烈なデコボコなのだ。病院に着くまでの間、私の体はトラックの荷台に「これでもか!」というほどしこたま叩きつけられた。元気なときでもこれは痛い。拷問そのものだ。気絶できたらどれだけ楽だろうかと思う時間が続く。

死なない程度に意識を保ってなんとか病院までたどりつくと、レントゲンと血液検査が待っていた。とても最新式とはいえないレントゲンの機械だったが、体を押し当てるとひんやりとして気持ちがよかった。

両肩を写すと幸い骨折はしていないようだ。しかし血液検査では明らかな異常が出ている。完全な栄養失調で飢餓に近い状態だった。この結果を見た医者はきびしい表情で、「断食修行でもしているのか。危険だからすぐにやめなさい」と叱られた。

点滴と同時に、パックリ割れた額の治療をしてもらいながら、ベッドで安静にしていると、鎮痛剤のおかげで少し痛みがやわらいでくる。点滴が終わるまでしばらく休んだあと、またマルコの運転するトラックでオーロビルに帰る。今度は助手席に座らせてもらったが、それでも揺れるたびに両肩に響く。その痛みを味わいながら、痛みにはいろんな種類があることを実感していた。

オーロビルに戻ると、またみんなが集まってくる。異国の地で、これだけの人が心配してくれるなんて、やはりありがたいことである。その日はベッドのなかで、「これからどうしようか」とボンヤリ考えていた。

そのときフッと、以前オーロビルに立ち寄ったフランス人のことを思い出した。彼は18歳で家を出て以来、ひたすら海外を旅行し続けていた。そうやってトラベラーのままで、30年間いちども祖国には戻っていないといっていた。すごいとは思ったが、きっとそんな暮らしは私にはできない。したいとも思わない。かといって、このままオーロビルに滞在を続けても、もう体力がもたないことは目に見えていた。医者には叱られたが、私は決して断食修行をしているわけではない。自然とこうなってしまったのである。

インドの地で客死してもいい。日本を出るときはそんな覚悟もしていた。しかしあのお釈迦様だって、過酷な修業で命の灯が消えかけた瞬間、これでは何のために生を受けたのかわからない。ここで死んでしまっては何にもならないと悟られたのだ。レベルはかなりちがうが、私もお釈迦様の気持ちに少し近づいた気がした。このまま死んではいけないのである。

「そうだ。日本に帰ろう!」

(つづく)


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