小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:インド

022 小説『ザ・民間療法』挿し絵022
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オーロビルの近くの村で、ヒンドゥー教の祭が開かれると聞いて、友だちといっしょに見に行った。そこは村といっても民家がポツポツとあるだけで、ふだんは人が歩いているのも見かけない静かな場所である。

ところが着いてみると、どこからこれだけの人がやって来たのか。屋台が立ち並び、大勢の人でにぎわっている。祭を盛り上げるためなのか、あちこちで爆竹の音も鳴り響いている。爆竹といっても、中華街で打ち鳴らしているようなシロモノとはちょっとちがう。近くで爆発すると地面が揺れる。ものによっては、どこかにつかまっていなければ体を支えきれない。爆竹というよりも爆弾といったほうがよさそうだが、ここでは消防法など関係ないのだろう。

この爆竹よりもさらにすさまじいのが、ヒンドゥー教の行者による火渡りである。日本でも修験道の行者の火渡りはテレビでたまに見かけるが、あの火渡りの源流はヒンドゥー教らしい。日本の火渡りも、最初のうちこそ炎がゴーゴーと音を立てて燃えているが、いざ行者が渡るころには鎮火して、燃えカス状態になっている。それでも熱そうだから私はやりたくない。

小学生のころに読んだ子供用の科学雑誌に「火渡りのからくり」という記事があった。それによると、火渡りをする行者は、あらかじめ足を水の中にしっかり浸けておく。すると皮膚の隙間に水がしみ込んで保護膜となる。だから行者は裸足で火の上を歩いてもヤケドをしない。そんな説明だった。

「なるほど」と思う話だが、本家の火渡りはそんなレベルではない。人の背丈を越すほど燃え盛る炎の上を、まるで火事場に飛び込むようにして、行者が次々に渡ってゆくのである。あんな業火では、足どころか全身を水浸しにしなければ火だるまになりそうだ。

そうして一通り行者たちが渡り終えて、道ができたところで、今度は一般の信者たちが渡り始める。しかしまだまだ火の勢いは強い。燃えカスになどなっていない。そこを子供を連れてでも渡るし、渡っている最中に炎のなかで転ぶ人までいる。悪夢のような、なんとも恐ろしい光景である。いっしょに来た友人たちも、試してみようなどとはだれもいわない。ただ呆然と見ているだけだった。

しかし祭というのは、本来こういうものかもしれない。リオのカーニバルやスペインの牛追い祭で、必ず死人が出るのは有名だ。日本の御柱祭(おんばしらまつり)やだんじり祭だって危険なことは知られている。

そもそもヒンドゥー教徒の死生観も、日本人とは大きくちがう。彼らはみな生まれ変わりを信じているから、日本のような墓はない。インドにあるのはせいぜいキリスト教徒の墓である。ヒンドゥー教徒にしてみたら、どうせ死んだってまた生まれ変わるのに、墓など必要なわけがない。死んだら遺体は河原で燃やして、燃え残りを河に流して終わりである。

それほど徹底しているのだから、先祖供養も全く意味がない。供養しているうちに、本人はとうの昔に生まれ変わっているはずなのだ。仏教の大本である釈迦の教えも似たようなものである。臨終に際して自分の亡骸のことを聞かれると、「在家信者にまかせて放っておけ」といわれたほど、命や体に対して執着がない。

彼らに比べると、日本では死を異常に怖がる人が多い。それは生まれ変わりを全く信じていないからだ。死んだらすべて終わりで、生命はこの世だけのものだと考えていれば、死ほど恐ろしいものはないだろう。

祭と死といえば、思い出す話がある。
その昔、現代美術で著名な岡本太郎が、諏訪の御柱祭のゲストに呼ばれた。彼は祭のクライマックスである「柱落とし」の場面になると、自分も参加しようとして来賓席から飛び出していった。関係者が「死んだら困る!」といって慌てて制止すると、彼は「祭で人が死んで何が悪い!」と叫んだという。

ヒンドゥーの祭を見ていると、まさに彼の発言は正論だと感じる。生命は生まれ変わりを繰り返して連続している。そう考えれば、死はその一過程に過ぎない。その生と死の節目こそが、祭の本質なのだろう。(つづく)

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ある日のこと、近所のユルグがサイババのところまで行ってもらってきた、ビブーティなるものを見せてくれた。ちょっと見はお焼香の灰みたいで、あまりありがたくない。「どうせならもっとイイものをもらってくればよかったのに」そういうと、彼もそのつもりだったから残念だといっていた。

「ところで、サイババに会って何か劇的な変化はあったの?」「ビブーティもらってご利益は?」立て続けにそんなミーハーな質問を投げかけてみた。しかしみんなが期待するような変化は一切なかったらしい。

サイババは、聴衆の前で空中の何もないところから、ビブーティと呼ばれる灰や、指輪やちょっとした小物を取り出して見せることで有名だった。日本のテレビ番組でも、彼のこの物質化現象の様子がたびたび放映されていたから、サイババの存在を知らない人はいないほどだった。

私がインドに行くといったときも、「サイババに会いに行くのか」と必ず聞かれた。実際、日本のサイババ・ツアーのグループに同行してインドまで来たのだが、私は彼のところに行くつもりなどなかった。

サイババの名声は日本だけでなく世界中に広がっていた。彼に会うために大勢の人が集まるから、バンガロールにあるサイババのアシュラムは、一つの街のようになっていた。だがせっかくそこまで行っても、サイババ本人に会えるのはごく一部の人だけである。だから、直接会えたユルグはラッキーなほうだったのだ。

ところが同じインドでも、オーロビルあたりではサイババの評判はあまり良くない。どちらかというとサギ師の扱いだった。

インドはやたらと信心深い人が多いところだから、家だけでなく車のなかにまで、ヒンドゥーの神様であるガネーシャの像が飾られている。その脇には必ず、ご贔屓の聖人の写真も並べてあるのだ。

しかしオーロビル周辺の村やポンディチェリあたりで、サイババの写真を飾っているのは見たことがない。やはり圧倒的に多いのは、オーロビルの開祖であるオーロビンドの写真だった。

私がサイババに関心がなかったのも、彼は物質化現象は見せても、病気治療はしないからだ。これがもし治療の奇跡を見せるのなら、興味もわいただろう。

そういえば1970年代あたりには、フィリピンの心霊治療が話題になっていた。これまた日本のテレビ局が取り上げたので、旅行会社には「フィリピン心霊治療ツアー」という企画まであった。私の知り合いにもツアーに参加した人がいたが、彼はなぜかその半年後に亡くなってしまった。

フィリピンの心霊治療では、術者が患者の腹部などに直に指を突っ込んで、血の塊や釘などを取り出す。それでも治療後は、体に傷一つ残っていないのが見せ場だった。この手品じみたところは、全くサイババの物質化現象と似ている。

もちろんサイババにしろ心霊治療にしろ、どちらも真っ赤なニセモノだったようだ。しかしサイキックで一世を風靡したユリ・ゲラー同様、彼らは日本人にはずいぶんと稼がせてもらったことだろう。

しかし私は、本当に不思議な力をもつ人にも会ったことがある。人の持ち物に触れるだけで、その人の将来が見える人もいれば、私を霊視して、もう亡くなっている親戚の話をくわしく教えてくれた人もいた。

サイババたちとちがって彼らは本物だったから、世の中には科学では説明できない能力を持つ人が、意外とたくさんいるのだろう。逆の見方をすると、科学そのものがまだそれほど進歩していないだけかもしれない。

ではその力を何のために使うか。それが他人の幸せのためであれば聖人だといえる。単なる見世物として金儲けに走るようでは精神性が高いとはいえない。超能力でなくても、人より秀でた能力は、それを他人の幸せのために使ってこそ価値がある。結局、聖人かどうかなど聖人にしかわからないものかもしれない。(つづく)


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020 小説『ザ・民間療法』挿し絵020
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オーロビルでは毎年4月ごろから急に暑くなる。日によっては夜でも室温が40度から下がらない。暑いだけではない。ここは南インドでも海岸に近いため、その分、湿度も高い。そのせいで寝苦しい夜が続くのである。

部屋には扇風機が置いてあるが、つけたところで熱風をかき回すだけで、全く涼しくはならない。しかもここではちょくちょく停電が起こるから、暑すぎて寝具の上になど寝ていられない。そんなときは、部屋の床が石畳になっているので、その上に直に裸で横たわる。そしてバケツに汲んできた水を、体に少しずつかけてやる。すると気化熱のしくみで若干涼しくなる。そのすきに少しだけ眠るのだ。

そんな暑さが続いたある日、朝からなんだか寒気がした。異常に体が寒い。室温の高さは相変わらずなのに、持っている服を全部着込んでもまだ寒い。ガタガタと震えが止まらないのである。何が起きたのか。高熱でも出ているのだろうが、もちろん体温計など持っていない。あったとしても計る気力すらない。

こういうときは、とにかく水分だけは十分にとらないと危険だ。そんなことを考えているうちに頭にモヤがかかってきた。だんだんと意識が遠のいていくのがわかる。その薄らいでいく意識のなかで、「このまま死ぬのかな」とぼんやり考えていた。

それから何時間たっただろうか。意識が戻った。見上げると、カーテンの向こうが明るい。これは、その日のままなのか、翌日なのかもわからない。起き上がろうとしたら、ふらついて立つこともできない。

這うようにして、いや実際にオオトカゲのようにズルリズルリと這っていって、ようやく体が半分だけ部屋の外まで出た。私の頭に容赦なく照りつける陽射しがまぶしい。そのまま転がって息を整えていると、異様な姿の私を見て、スイス人のユルグがかけ寄ってきた。

「高熱が出て死んでいた」と伝えると、あわてて水を持ってきてくれた。「今日は火曜か」と聞いたら、もう水曜になっていた。気を失ってからそのまま一昼夜も寝ていたのである。よく脱水で死ななかったものだ。自分の生命力には少し感心した。

ユルグは食べ物も勧めてくれたが、全く食欲がない。彼に肩を借りて、ベッドまで戻って横になる。するとユルグに聞いたのか、マルコの奥さんのエレーナまでが、何か持ってきてくれた。

「こんなとき、日本人なら味噌汁がいいでしょ」
そういって差し出されたのは、わざわざ自分で作ってきてくれたスープだった。ありがたい。せっかくの心遣いなので、がんばって少し口に入れてみた。

「はて?」彼女は確かにミソスープといったはずだ。だが味噌汁の味ではない。今私が口にしているこの液体はいったい何だろう。今まで一度も口にしたことのない味である。熱のせいで味覚までおかしくなったのか。うまいまずいの判断すらつかない。どっちにしても病体にはこの味噌汁は酷だった。

日本食といえば、前に友だち数人と連れ立って、カトマンズの日本料理屋に入ったことがある。席についてメニューを見ると、そこには「カツ丼、すき焼き、うどん」といった字が並んでいる。きっとネパール風味だろうが、懐かしさに胸を踊らせながら、それぞれが別の料理を注文した。

ところが出てきた皿を見ると、そこに乗っているのはネパール風どころか、どれも初めて見る料理ばかりだった。恐る恐る口に入れてみたが、見た目だけでなく味までも、どれがどれだかわからない。懐かしさなど微塵も感じられない味だった。

この得体の知れない日本料理は、あのころの海外の日本料理店では定番だった。そんな記憶が一瞬のうちに頭をよぎったが、エレーナの親切心だけは忘れまい。

数日たって、少しずつではあるが体調が回復してきた。するとあれほど寒かったのに、インドの暑さもしっかり復活してきた。寒いのもつらいが、この暑さはやっぱり耐えがたい。

それにしても、私を気絶させるほどのあの高熱の原因は何だったのか。エレーナの味噌汁同様、全く未知の体験だった。ただしこの体験を通して、人はそうかんたんには死なないものであることと、自然治癒力のありがたさを実感した。そうだ。今度エレーナに会ったらお礼をいって、あの味噌汁が何でできていたのかも聞いてみなくてはならない。(つづく)

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019 小説『ザ・民間療法』挿し絵019
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ここから少し離れたところにあるコミュニティには、パワーストーンを扱う人たちがいる。出かけて行くと、色も大きさもちがう珍しい石がズラリと並んでいる。説明によれば、石にはそれぞれちがったパワーがあって、水晶などはヒーリングにも使われるのだという。確かに、サソリに刺されたときに貼り付ける黒い小石は、オーロビルでも治療用の実用品と考えられていた。

私に石の説明をしてくれた白人女性が、漬物石ぐらいある大きな石に手をかざして「ほら、これなんかすごいパワーが出ている」といって私に同意を求めてきた。しかし私が手をかざしてみても何も感じない。「ハァ…」と気のない返事をするしかなかった。そういう私でも、しばらくインドで暮らしているうちに、マカ不思議なものに対して許容度が増してきた。

そもそもインドではごく一般的なこととして、石には力が宿っていると考えられている。ヒーリングの効果があることも信じられているから、宝石を指輪に埋め込むときにも、わざわざ石が直接指に当たるように細工してある。

日本では、大人の男性なら石のついた指輪などしている人はまずいない。ところがインドでは、宝石は財産や装身具であると同時に、パワーストーンの意味合いも強い。だから男性でも宝石を指輪にしてはめるのはふつうのことなのだ。

身につける装飾品には、ヒーリングだけでなく魔除けの目的もあるせいか、コブラやサソリをイメージしたデザインも多い。女性であれば、ペンダントやブレスレット、アンクレットをすることで魔除けの効果がさらに強化される。ブレスレットなどは、無垢の銀や真鍮(しんちゅう)でできたごついものもあるが、それらはむちゃくちゃ重い。きっと重たい分、効果も絶大だと考えられているのだろう。

魔というのは、首や手首、足首から入ってくるものであるらしい。だから、日本の坊さんが数珠を手首や首にかけるのも、アイヌの着物の袖口や裾にギザギザの三角模様があしらってあるのも、そこから魔が入り込むのを防ぐためなのである。

それでは魔とはいったい何だろう。昔も今も人間にとっての最大の魔とは病魔である。病気になるのは、病魔がとりついたせいだと考えるのは世界共通だ。その魔から守り、癒やしてくれるのがパワーストーンの役目なのである。

そういえば以前、こぶし大もあるトルコ石の原石を首からぶら下げて、鼻輪までしている部族に会ったことがある。彼らはヒマラヤのふもとの村に住んでいる。外国人がそこまで行くにはインド政府の許可が必要なので、単なる観光ではなかなかたどり着けない。

そこでは、首からトルコ石を下げるのは女性だけで、母から娘へと代々受け継がれるものだった。この風習はペンダントの本来の目的に近いらしい。私に宝石鑑定を教えてくれたイタリア人のマルコの話では、首から石を下げるのは首狩りの名残だという。それならあの巨大なトルコ石も首狩りの風習の延長なのかもしれない。

マルコにオールドジュエリーのコレクションを見せてもらうと、ペンダントにはいろいろな石といっしょに、隕石や人骨を使ったものも混じっていた。インドのある地域では、近年まで首狩りの風習が残っていたという。首狩りは、敵の首級(トロフィー)を自分の首にかけることで、相手のパワーを自分のものにするのが目的だ。今ではその首級の代わりをするのが特殊な石の役割になっているのである。

こんな話を聞いているうちに、次第に私も石のパワーなるものを信じるようになっていた。ところが、気に入った石を載せた指輪をしていたら、土台のシルバーが汗と反応して溶け出して、金属アレルギーになってしまった。指輪が当たる部分は赤く腫れて表皮がめくれ、むき出しになった真皮には亀裂が入った。そればかりか強いかゆみまである。これではもう石にパワーがあろうがなかろうが、指輪など着けていられない。たくさん持っていた指輪も、文字通りお蔵入りである。私の石にはヒーリングの効果などなかったのだ。

そこへ来て、宝石商の友だちから聞いた話でさらに考えが変わった。
上野の御徒町にあるその問屋では、二束三文で仕入れたクズ石をパワーストーンと名付けて売り出した。すると飛ぶように売れたのである。その売れ行きに味をしめた店主は、今度は適当な石を数珠に加工して、魔除けだの、異性にモテるだの、金持ちになるなどと効能をつけて売った。それでまた大儲けしたというのだ。もちろん売っている本人たちは、石のパワーなど全く信じてはいない。

他にも似たような話があったのを思い出した。
テキ屋稼業の知り合いが、農家から葉っぱ付きで形の悪い大根を捨て値で仕入れた。それにたっぷり泥水をかけてから軽トラックに積み込み、団地の中庭に運んで、「産地直送の有機無農薬野菜だ」といって売ったのだ。すると主婦たちが奪い合うようにして買っていったと自慢していた。

この世はだます人とだまされる人でできているのか。それとも信じる者は救われるのか。どっちにしても、石のパワーよりも人間の欲のほうが圧倒的に強力だと知って、私は少し目が覚めたようだった。(つづく)

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018 小説『ザ・民間療法』挿し絵018
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ある日、食べ残しの硬いパンをかじっていたら、なかにもっと硬いものが混じっていた。石でも入っていたのかと思って吐き出してみると、自分の奥歯の詰め物だった。

「これは面倒なことになった」
ため息が漏れる。日本にいても歯の詰め物が取れると厄介だが、外国暮らしであればなおさら大変だ。それがわかっていたから、国を出る前に、歯の治療だけは入念にしておいたのである。それなのに1年ももたなかったのか。そう思うと、もう1度ため息が出た。

元来私は病院嫌いである。大人になってからは健康診断すら一度も受けたことがない。しかし歯の治療となると、イヤでも行かざるを得ない。ふだんなら自然治癒力を信奉している私だが、歯だけは放っておいても治らないのである。放っておくと生活の質がえらく低下するし、放置した分だけ、治療にも手間と費用がかかることになる。

だからといって、歯医者に通えばいいというものでもない。歯医者によっては、やたらといじくり回すから、真面目に通っていると歯がどんどんなくなる話もよく聞く。その点、私が通っていた赤坂のS歯科では、余計な治療は一切やらない方針だった。歯を抜かれたことはないし、レントゲン一つ撮らない。

ところがS歯科はいつ行ってもガラガラで、待合室に患者がいるのを見たことがない。私にとっては名医だったが、一般にはヤブとして名を馳せていたようだ。

世間では「沈黙は金」などといっても、テレビなら、ペラペラとくだらない話をする人のほうが人気が高い。歯科医も同じで、余計なことを一切やらない医者よりも、なんだかんだと理屈を並べて、無駄な治療をたくさんやる医者のほうが、親切に見えて人気が高いのだ。

「ああ、今すぐ赤坂に飛んで行けたらいいのに」
歯の詰め物を握りしめて天を仰いでみたものの、いつまでもそうしているわけにもいかない。このままでは、どうにも不自由すぎる。ここは一発、この地で治療を受けるしかないのだ。

そう心に決めてはみたが、オーロビルには歯医者などいない。近所の人から、コミュニティの外の村に歯科診療所があるのを教えてもらった。またバイクを借りて出かけていくと、そこは私の向こうずねにドカ穴を開けた、例の診療所の隣だった。少しイヤな予感がする。

恐る恐る入ってみると、なかは大勢の村人でごった返していた。S歯科とはえらいちがいだ。だがそんなことに感心している場合ではない。周囲の人だかりをかき分けて、何とか受付までたどりつく。そこで受診を申し込むと、あっさりと断られてしまった。

どうやらここでは外国人は診てくれないらしい。外国人なら外国人専用の歯科医に診てもらわねばならないという。それなら仕方がないので、一旦またオーロビルに戻った。

友だちに相談すると、あそこだって「自分はインド人だ」といえば診てくれると教えてくれた。「そんな話が通用するのか」と驚いたが、隣の診療所に通っていたときは、いちどもインド人かどうかなど聞かれなかったのを思い出した。だからそんなものなのだろう。

それなら逆に、外国人専用歯科というのはどんなところかを聞いてみた。すると、みんなが口を揃えて「目ん玉が飛び出すほど高い!」と脅すのである。

私は悩んだ。1995年ごろのインドでは、猛烈な勢いでエイズ(AIDS)が流行っていた。ヨーロッパの玄関口であるボンベイなど、市民の半数がすでに感染しているとまで噂されていたのだ。

歯科治療となると、血液を介してエイズだけでなく、肝炎ウイルスなどにも感染する危険性がある。患者でいっぱいだったあの歯科診療所は、お世辞にも衛生的とはいえなかった。これはお金を惜しんでいる場合ではない。高くても外国人専用の歯科に行くほうが安全だろう。

ポンディチェリの近くにあるその歯科に着くと、室内は静かで整然としていた。これなら大丈夫そうだ。医者はインド人のようだったが、「歯は削らずに詰め物だけをしてほしい」と頼むと、かんたんにOKしてくれた。

同じ穴をふさぐにしても、向こうずねのときとはちがってほんの数分ですんだ。痛みもなかった。ホッとしたものの、いざ会計の段になると、一体いくら請求されるのかと不安が頭をもたげてきた。

日本のように健康保険があるわけではない。全額実費でキャッシュオンリーである。100ドルぐらいだろうか、手持ちのお金で足りるだろうか、とビクビクしていると、「150ルピーです」といわれた。

「え? ドルじゃなくてルピー?」聞きまちがいではないのか。150ルピーといえば、日本円で500円弱である。それを聞いて、体から力が抜けた。よかった、よかった。それなら、先に行った村の歯科診療所だといくらだったのだろう。

バブルのころに銀座でコーヒーを飲んだら、1杯2000円もした。一方、オーロビルの近くの村なら、コーヒー1杯が1ルピーだから3円ほどである。たしかに歯の詰め物だけでコーヒー150杯分だと思うとべらぼうに高い。みんなが目をむいて脅すのもわかる。しかしこの金銭感覚に慣れてしまっては、日本には戻れなくなるから恐ろしい。

では向こうずねをえぐられたときの治療費はいくらだったのか。どれだけがんばってみても、その金額が全く思い出せない。あまりの痛みのために、記憶までが脳からスッポリとえぐり取られているようだった。(つづく)

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