小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:オーロビル

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029
やっと住むところも決まったことだし、私は意気揚々と池袋の整体の学校に通い始めた。

40になったばかりの私など、かなり若い部類である。生徒の大半は中高年で、退職や定年を機に新たな技術を身につけ、人生の再出発を目指している人が多い。その分、みな真剣に技術を学びとろうとしている。なかには地方からわざわざ習いに来ている人までいた。

教室の壁には、第1期からの修了者たちの集合写真が貼ってある。毎期5~10人ほどで、トータルでは千人近くの修了者がいるようだから、なかなか歴史があるのだろう。

学校の創始者である小嵐会長は70そこそこのはずだが、「ワシは回天の生き残りじゃ」が口癖だった。回天といえば太平洋戦争の特攻艇の名称だから、どうも世代がちがう。整体を全国に広めた功労者だと聞いていたので、その信憑性すら薄らぐ気もする。でも、そのうさん臭いところがまたおもしろい。


ここでは決められた手技を、生徒同士が練習台となって行う。手技を一通り全部やると20分ほどかかる。それが終わると攻守交替して練習を続けるのである。

一口に整体といっても、押しや揉みだけでなく、ストレッチ的なもの、さらに関節に勢いよくひねりを加えて、音を鳴らすアジャストと呼ばれる技もある。


そういえばオーロビルには、韓国系デンマーク人の女性治療家がいた。栄養失調でやせこけている私から見たら彼女はかなり立派な体格で、流暢な英語を話していたので、こちらでの暮らしも長いようだった。

彼女は治療のとき、妙な節回しの歌を口ずさみながら、ランバダダンスのように腰をくねくねさせて踊る。そして歌が終わると同時に、うつ伏せに寝ている患者の上にまたがって、両手で勢いよく背中をグイッと押す。するとバキバキバキッとすごい音が室内に鳴り響くのだ。

私はこわくて受けたことはないが、この一連のパフォーマンスを彼女はピッチピチの衣装を着てやるので、オーロビルの男性たちにはファンが多かった。


今思えば、あのとき彼女が使っていたのも整体技の一種だったのかもしれない。日本のバラエティ番組でも、オーバーアクションで人気の治療家が大勢出演していた時期があったから、ああいうのがウケるのだろう。

しかしここでは、そんなハデな手技はほとんどない。いたって地味な作業の連続である。整体師というのは、白衣を着た土方だという人がいるのも納得できる。確かにこれは治療というより肉体労働に近い。練習しているだけでも、かなり体力が必要なのだ。


それでも整体を一日中受けていれば、体の調子が良くなると思うかもしれない。ところがその手技をやっているのは素人なのである。力の加減も不安定だから、突然強い力が加わらないか心配で、体は常に緊張を強いられる。

逆に力が弱くても、指先に迷いがあると、体のあちこちをモゾモゾと動くだけで、痴漢にでもあっているようだった。なかには手のひらにやたらと汗をかく人もいる。体質だから仕方ないのだが、そんな人の練習台になると、着ている服が汗でじっとり湿るので、これまた気持ちが悪い。

これが先生方となるとさすがに力加減が絶妙で、技を受けていて全く不快感がない。それどころか、教わっているのを忘れてついリラックスしてしまう。これはイイ。そこで私も早速、習った技を友人たちに披露してみるのだが、あまり評判がよろしくない。受けた感触としては、悪くもないが良くもないといったところらしい。

技そのものは単純なのに何がちがうのだろう。私にはそのちがいがよくわからない。これでは整体でプロを名乗るのは、まだまだ先のことになりそうだ。(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵023
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昨日から今いち体調が優れない。今朝も頭がボーッとして寝起きが悪かった。そういえばインドに来てからどれだけ痩せただろう。ヨーロッパから来た人たちはそんなことはないのに、私だけがどんどん痩せていく。たぶん食べてないからだろう。連日の猛暑のせいで食べる気力すら失っている。慢性的な夏バテのようだ。

少し休もうと思ってベッドに近づく。すると意識が遠のいていく。卒倒するとはこんな状態なのだろうか。もう立っていられなくなった。体は棒のようにまっすぐのまま、容赦なくバタッと倒れこんだ。

倒れただけならまだよかった。倒れる方向が悪かったのだ。ベッドに向かっていればよかったのに、私の体はコンクリートの壁に向いていたのである。最初に頭が壁にゴンとぶつかった。そのまま額で壁をこすりながらズルズルと落下していく。遠のく意識のなかで、これは大変なことになったなと思っていた。

それから4、5時間もたっただろうか。意識が戻った。戻ったといっても回復したわけではない。あまりの激痛のために、意識が揺さぶられて覚醒したのである。

両肩がとんでもなく痛い。なぜそんなところが痛いのだろう。激しくかけめぐる痛みのなかで記憶をたどる。倒れたときに打ったのは、頭だけだったことは覚えている。それがなぜ両肩なのだ。首の骨でも折れたのか。しかし痛いのだから脊損ではない。指は動く。だが痛くて腕は上がらない。力石徹と戦い抜いた「あしたのジョー」のようである。

とにかくだれかに知らせなければならない。やっとのことで部屋から這い出して、またユルグに助けを求める。彼は驚いて「どうしたんだ!」といいながらかけ寄ってくる。別に同居しているわけでもないのに、こうやっていつもユルグに見つけてもらえるのは幸運だ。痛いながらも、必死にいきさつを説明する。彼の話では、私の額からはけっこうな量の血が出ているらしい。

とりあえずベッドに寝かせてもらう。しかしベッドに横たわるだけの、そのちょっとした動作がきつい。向こうずねを麻酔もなしでメスでえぐり取られたときも痛かったが、今回の痛みもそれに匹敵する。こうやって痛みの歴史だけが増えていく。

私が倒れたのを聞いて、オーロビルの治療家たちがどんどん集まってきた。それぞれがマッサージや整体的なことを試みようとする。なかにはカウンセリングのテクニックで、私の悩みを聞き出そうとする人までいた。だが目下の私の最大の悩みは両肩の激痛なのだから、そっとしておいてほしい。話をするだけでも痛みが増して脂汗がにじむ。そうこうしているうちに、マルコがどこからかトラックを借りてきた。

オーロビルではだれも自家用車など持っていないから、借りるにしてもトラックしかなかったのだろう。そのトラックの荷台にマットを敷いて私を寝かせる。そのままポンディチェリの病院まで運んでくれるのだという。

「トラックの荷台から見るインドの空は広い」
広いのは事実だが、そんな呑気な気分ではない。なんといってもポンディチェリへの道は強烈なデコボコなのだ。病院に着くまでの間、私の体はトラックの荷台に「これでもか!」というほどしこたま叩きつけられた。元気なときでもこれは痛い。拷問そのものだ。気絶できたらどれだけ楽だろうかと思う時間が続く。

死なない程度に意識を保ってなんとか病院までたどりつくと、レントゲンと血液検査が待っていた。とても最新式とはいえないレントゲンの機械だったが、体を押し当てるとひんやりとして気持ちがよかった。

両肩を写すと幸い骨折はしていないようだ。しかし血液検査では明らかな異常が出ている。完全な栄養失調で飢餓に近い状態だった。この結果を見た医者はきびしい表情で、「断食修行でもしているのか。危険だからすぐにやめなさい」と叱られた。

点滴と同時に、パックリ割れた額の治療をしてもらいながら、ベッドで安静にしていると、鎮痛剤のおかげで少し痛みがやわらいでくる。点滴が終わるまでしばらく休んだあと、またマルコの運転するトラックでオーロビルに帰る。今度は助手席に座らせてもらったが、それでも揺れるたびに両肩に響く。その痛みを味わいながら、痛みにはいろんな種類があることを実感していた。

オーロビルに戻ると、またみんなが集まってくる。異国の地で、これだけの人が心配してくれるなんて、やはりありがたいことである。その日はベッドのなかで、「これからどうしようか」とボンヤリ考えていた。

そのときフッと、以前オーロビルに立ち寄ったフランス人のことを思い出した。彼は18歳で家を出て以来、ひたすら海外を旅行し続けていた。そうやってトラベラーのままで、30年間いちども祖国には戻っていないといっていた。すごいとは思ったが、きっとそんな暮らしは私にはできない。したいとも思わない。かといって、このままオーロビルに滞在を続けても、もう体力がもたないことは目に見えていた。医者には叱られたが、私は決して断食修行をしているわけではない。自然とこうなってしまったのである。

インドの地で客死してもいい。日本を出るときはそんな覚悟もしていた。しかしあのお釈迦様だって、過酷な修業で命の灯が消えかけた瞬間、これでは何のために生を受けたのかわからない。ここで死んでしまっては何にもならないと悟られたのだ。レベルはかなりちがうが、私もお釈迦様の気持ちに少し近づいた気がした。このまま死んではいけないのである。

「そうだ。日本に帰ろう!」

(つづく)


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019 小説『ザ・民間療法』挿し絵019
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ここから少し離れたところにあるコミュニティには、パワーストーンを扱う人たちがいる。出かけて行くと、色も大きさもちがう珍しい石がズラリと並んでいる。説明によれば、石にはそれぞれちがったパワーがあって、水晶などはヒーリングにも使われるのだという。確かに、サソリに刺されたときに貼り付ける黒い小石は、オーロビルでも治療用の実用品と考えられていた。

私に石の説明をしてくれた白人女性が、漬物石ぐらいある大きな石に手をかざして「ほら、これなんかすごいパワーが出ている」といって私に同意を求めてきた。しかし私が手をかざしてみても何も感じない。「ハァ…」と気のない返事をするしかなかった。そういう私でも、しばらくインドで暮らしているうちに、マカ不思議なものに対して許容度が増してきた。

そもそもインドではごく一般的なこととして、石には力が宿っていると考えられている。ヒーリングの効果があることも信じられているから、宝石を指輪に埋め込むときにも、わざわざ石が直接指に当たるように細工してある。

日本では、大人の男性なら石のついた指輪などしている人はまずいない。ところがインドでは、宝石は財産や装身具であると同時に、パワーストーンの意味合いも強い。だから男性でも宝石を指輪にしてはめるのはふつうのことなのだ。

身につける装飾品には、ヒーリングだけでなく魔除けの目的もあるせいか、コブラやサソリをイメージしたデザインも多い。女性であれば、ペンダントやブレスレット、アンクレットをすることで魔除けの効果がさらに強化される。ブレスレットなどは、無垢の銀や真鍮(しんちゅう)でできたごついものもあるが、それらはむちゃくちゃ重い。きっと重たい分、効果も絶大だと考えられているのだろう。

魔というのは、首や手首、足首から入ってくるものであるらしい。だから、日本の坊さんが数珠を手首や首にかけるのも、アイヌの着物の袖口や裾にギザギザの三角模様があしらってあるのも、そこから魔が入り込むのを防ぐためなのである。

それでは魔とはいったい何だろう。昔も今も人間にとっての最大の魔とは病魔である。病気になるのは、病魔がとりついたせいだと考えるのは世界共通だ。その魔から守り、癒やしてくれるのがパワーストーンの役目なのである。

そういえば以前、こぶし大もあるトルコ石の原石を首からぶら下げて、鼻輪までしている部族に会ったことがある。彼らはヒマラヤのふもとの村に住んでいる。外国人がそこまで行くにはインド政府の許可が必要なので、単なる観光ではなかなかたどり着けない。

そこでは、首からトルコ石を下げるのは女性だけで、母から娘へと代々受け継がれるものだった。この風習はペンダントの本来の目的に近いらしい。私に宝石鑑定を教えてくれたイタリア人のマルコの話では、首から石を下げるのは首狩りの名残だという。それならあの巨大なトルコ石も首狩りの風習の延長なのかもしれない。

マルコにオールドジュエリーのコレクションを見せてもらうと、ペンダントにはいろいろな石といっしょに、隕石や人骨を使ったものも混じっていた。インドのある地域では、近年まで首狩りの風習が残っていたという。首狩りは、敵の首級(トロフィー)を自分の首にかけることで、相手のパワーを自分のものにするのが目的だ。今ではその首級の代わりをするのが特殊な石の役割になっているのである。

こんな話を聞いているうちに、次第に私も石のパワーなるものを信じるようになっていた。ところが、気に入った石を載せた指輪をしていたら、土台のシルバーが汗と反応して溶け出して、金属アレルギーになってしまった。指輪が当たる部分は赤く腫れて表皮がめくれ、むき出しになった真皮には亀裂が入った。そればかりか強いかゆみまである。これではもう石にパワーがあろうがなかろうが、指輪など着けていられない。たくさん持っていた指輪も、文字通りお蔵入りである。私の石にはヒーリングの効果などなかったのだ。

そこへ来て、宝石商の友だちから聞いた話でさらに考えが変わった。
上野の御徒町にあるその問屋では、二束三文で仕入れたクズ石をパワーストーンと名付けて売り出した。すると飛ぶように売れたのである。その売れ行きに味をしめた店主は、今度は適当な石を数珠に加工して、魔除けだの、異性にモテるだの、金持ちになるなどと効能をつけて売った。それでまた大儲けしたというのだ。もちろん売っている本人たちは、石のパワーなど全く信じてはいない。

他にも似たような話があったのを思い出した。
テキ屋稼業の知り合いが、農家から葉っぱ付きで形の悪い大根を捨て値で仕入れた。それにたっぷり泥水をかけてから軽トラックに積み込み、団地の中庭に運んで、「産地直送の有機無農薬野菜だ」といって売ったのだ。すると主婦たちが奪い合うようにして買っていったと自慢していた。

この世はだます人とだまされる人でできているのか。それとも信じる者は救われるのか。どっちにしても、石のパワーよりも人間の欲のほうが圧倒的に強力だと知って、私は少し目が覚めたようだった。(つづく)

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012 小説『ザ・民間療法』

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小説『ザ・民間療法』挿し絵010

私が暮らすオーロビルには、チベットから来た人も何人か住んでいた。彼らはダライ・ラマ法王に従って亡命し、インドの各地で暮らしているのである。ご近所さんとして彼らと親しく接してみると、チベット人は見た目だけでなく、メンタリティまで日本人とよく似ているようだった。ひょっとすると、中国や韓国の人よりも近い存在ではないかとすら思う。

そのチベット人たちから、モモというチベット餃子のパーティに誘われたことがある。モモだけでなく、そこで出されたチベット料理は、限りなく日本への郷愁を誘うなつかしい味だった。異国の地でやせ細っていた私にとって、彼らの親切は心だけでなく、胃袋にも深く沁み入るものだった。

そんなやさしいチベット人の一人に、私と同じコミュニティでフランス人と暮らしているドルマという女性がいた。ドルマはオーロビルにあるカルチャーセンターでボランティアをしている。そこでいろいろな講座が開かれているのは知っていたが、私は顔を出したことはなかった。

それを聞きつけたドルマが、アフリカンダンスのスクールに誘ってくれたのである。ところが私には踊りの経験がない。盆踊りすらまともに踊ったことはない。ダンスと名のつくものは、小学生のときのフォークダンス以来である。だがお互い異国の地で、親しくなった人がわざわざ誘ってくれているのだから、恐る恐る参加した。

教室に入ると、明るい音楽が建物の外まで鳴り響いている。そのリズムに合わせ、フランス人男性の先生が中心になって、20人ほどの生徒が輪になって踊っていた。踊りそのものは、ひざを曲げたり伸ばしたりするだけの単純なものである。

その踊りを見ていると、北海道の阿寒で目にしたアイヌの女の子の踊りを思い出した。彼女は他の娘さんたちといっしょに、観光客向けにアレンジされたアイヌの踊りを披露していた。ところが踊っているうちに、彼女だけがどんどんトランス状態に入っていったのである。その一心不乱に踊る姿は、アイヌの先祖の魂が乗り移ったかのようだった。あの、どこを見ているのかわからない目線の先には、何が見えていたのだろうか。

実はこのアイヌの踊りのように、輪になって単調な動作を繰り返していると、トランス状態に陥りやすい。日本の子供が「かごめかごめ」と歌いながらぐるぐる回る遊びにしても、もともとは子供のお遊戯ではない。

輪になって単調な言葉や動きを繰り返していると、中心になっている人に霊が入り込んで話し始めるのである。似たような風習は世界中にあるから、このアフリカンダンスにしても、起源は呪術的なものだったはずだ。

とはいえ、眼の前で踊っている人たちはすこぶる楽しそうである。ぐっと腰を落とす。横に進みながら伸び上がる。そしてまたぐっと腰を落とす。基本はこの繰り返しだけだ。「カニ歩きみたいだな。これなら私にもできそうだ」そう思った私は、輪のなかに入った。

ところがどっこい。見るとやるとは大ちがいである。かんたんなはずのひざの屈伸運動が、あっという間にひざを直撃した。ほんの2、3分踊っただけなのに、私のひざは曲げも伸ばしもできなくなってしまったのである。踊り続けるまわりの人たちは、こぼれる笑顔がまぶしいほどだ。私の顔だけが苦痛にゆがんでいる。楽しい踊りのはずが、私だけが相撲部屋のしごきの輪に叩き込まれたようだった。

「もうだめだ」
ギブアップした私は、ダンスの輪から離れた。そしてクラスが終わるまでの時間は、乱れた呼吸を整えるので精一杯だった。しかもいざ帰る段になっても、足が前に出てくれない。これには参った。もう文字通り、這うようにしてやっとのことで帰宅したのである。

そんな情けない姿を見た近所の人たちから、ドルマは「なんでMをそんなところに連れて行ったんだ!?」と、さんざん叱られていた。彼女にしてみたら、アフリカンダンスは楽しいから、親切心で誘っただけなのに、あの動きはハードすぎて私には全く向いていなかったのだ。

特に連日気温が40度どころか、50度近くまで上がる猛暑のなか、自覚する以上に、私の体力が落ちていたのだろう。おかげであの「殺虫剤事件」に続いて、またしてもひ弱な日本人ぶりを露呈してしまった。

しかし、あのまま無理して踊り続けていたら、また「日通」のときのように、意識が肉体から離れるか、もしくは離れたままになるところだった。つくづく、体調管理はむずかしいものだと思い知らされた。(つづく)
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