小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:カイロプラクティック

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 041
考えてみると、人から人への「紹介」はおもしろいものだ。
以前、タモリのお昼の番組に「ともだちの輪」というコーナーがあった。そこではその日のゲストが次のゲストを指名する。すると思いもよらない人同士のつながりが見られて、番組内でも一番人気のコーナーだった。

たしか、知り合いを6人たどればアメリカ大統領までつながるという話もある。そこまでつながらなくても、私に患者さんを紹介してくださる輪も、今では紹介の紹介程度まで広がった。もちろん仕事なのだから、紹介は多ければ多いほどありがたい。

ところが私が忙しくなると、自分の予約が入れにくくなってしまうのを心配して、「だれにも教えない」と心に決めている人もいた。それを本人から聞いても悪い気はしなかったし、人間の心理としても興味深かった。

その一方で、まわりの人に宣伝しまくって、次から次へと紹介してくれる人もいる。そんな一人に友人の近野さんがいた。

看護師をしている近野さんは、職場で疲れが溜まっていそうな同僚を見つけては、私の施術を受けるようにすすめてくれたのだ。おかげで私の患者には医療関係者がやたらと多くなった。ときには勤務先の病院に呼ばれて、診察台のうえで医師や看護師さんたちに施術することまであった。

そんなご縁から、ある助産師さんたちの職場にも呼ばれたことがある。
助産師の仕事は出産の補助だけではない。彼女たちが別名「おっぱい先生」と呼ばれているのは、産後のお母さんたちに授乳の指導をしたり、母乳の出が悪い人には、乳房をマッサージして改善させたりもするからである。

助産師として出産に立ち会うとなれば24時間体制だし、そのうえ授乳の改善は重労働なのでみな疲れ切っていた。そこで私が、彼女たちの疲れを取るために助産院に通うことになったのだ。

ところがそのうち、母乳の出が悪いお母さんたちからの依頼も増えてきた。
母乳が出にくい人は、もともと体調がすぐれない。出産の疲れも取れないのに授乳は昼夜を問わないから、睡眠不足でますます体調が悪化する。その結果、さらに母乳の出が悪くなって、しまいには乳腺炎にまでなってしまう。

しかしそういうお母さんたちでも、背骨のズレをもどしてあげると母乳の出がよくなった。そんなことが関係あるのかと思う人もいるだろうが、背骨がズレていると筋肉が固くなって血流が悪くなる。母乳は血流が命ともいえる存在なので、血流の改善が母乳の改善に直結しているのだろう。

そんなこんなで私の出張整体は、一時は「母乳専門か?」と思うような方向になっていた。しかし誤解も生じやすいので、若い女性の胸のあたりにはできるだけさわりたくないのだ。おかげで私にとっては緊張の日々なのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵040
整体の仕事を出張専門で開業した私は、紹介のおかげで予約がたくさん入るようになった。これなら仕事としてつづけられそうで、まずは一安心である。ところが整体と銘打っている以上、整体を提供しなくてはならない。これが予想以上につらかった。

「整体師は白衣を着たドカタだ」と自嘲気味にいう人もいたが、実際にやってみると、予想以上に体力が必要だった。まして出張専門なのだから、店舗で座ってお客さんを待つ間に休憩するようなわけにもいかない。施術が終わったら、すぐに次の場所へ移動しなくてはならないのだ。

東京近郊限定とはいえ、今は車などもっていない私は、もっぱら電車やバスを乗り継いで移動する。これは上り下りする階段の数だけでも相当なものだった。予約がたくさん入るのはありがたいが、インド帰りで栄養失調から回復しきっていない私には、1日に何人も施術できるものではなかった。

施術中にエネルギーが切れて、絶望的に眠くなることも多かった。ほめられた話ではないが、そんなときは例の気功の技で眠ってもらう。相手がいびきをかき始めた瞬間を見計らって、私もちょっとだけ寝ることで、その場をしのいだ。

この短時間で熟睡するテクニックは、特殊美術の仕事のころに会得したものである。単なる美術作品の制作とちがって、テレビ局相手の仕事ではどうしても徹夜がつづく。車の運転中に、はげしい眠気に襲われることもたびたびあった。

そういうときは、信号が赤になったら、すかさずハンドルに突っ伏して寝てしまう。信号が青になると、後ろの車が必ずクラクションを鳴らして起こしてくれる。それを合図にパッと起きて、また次の赤信号まで車を走らせるのだ。こうやって一瞬でも熟睡できれば、かなり寝た気がするものだった。もちろんこんなことはおすすめできない。

さすがにあのころほど眠くはないが、整体をつづけることには、体力的な限界があるのを自覚するようになった。そこで私の施術は、以前使っていた、軽い力で背骨のズレをもどす技へとシフトし始めた。

体力的な問題だけではない。人から教わったことを繰り返すより、オリジナルな技を作り上げたい気持ちもあった。オリジナルに向かうのは、美術家の性癖かもしれない。だがこのやり方のほうが、具体的な症状がある人には有効なようだった。そうなると、施術のおもしろみもちがってくる。

私の習った整体では、技の組み立てがルーティンで、だれに対しても同じ施術になる。それでは特定の症状に積極的にアプローチできないし、時間も同じだけかかってしまうのだ。

最小の力で、短時間でおさまる最も効率のよい方法を見つけたい。そんな療法が開発できれば、ひょっとして新しい治療体系、ひいては全く新しい医学体系までできるかもしれない。

これはあながち無謀な夢物語でもない。以前、特殊美術の仕事のころ、テレビ局でスタッフの腰痛を劇的に治せたのだから、あれが再現できればいいのではないか。あのやり方は、私にとっては美術の延長だった。


たとえば特殊美術では、キティちゃんのような平面のイラストをもとにして、立体のキャラクターを作ることがある。その際、まずは中心線に沿って左右対称な形を作らなくてはならない。

平面から立体を作るとなると、補わなくてはいけない情報が多すぎて、相当な難題なのである。試行錯誤の結果、やっとできあがった立体物も、それがちゃんと左右対称になっているかは、目で見ただけではわからない。必ず両手で触って確かめる。そうすることで、かなりの精度で仕上げられるのだ。

この技術をそのまま人の体に応用すれば、体の中心軸となる背骨がまっすぐでないところや、骨の位置の左右のちがいがはっきりとわかる。症状があるところは、体の形がいびつになっているようなので、左右のちがいさえ確認できれば、あとはゆっくりと、背骨をまっすぐにしたり、骨を左右対称な位置にもどせばいいだけだ。

この作業なら、ルーティンな整体の技とちがって、ほぼ指先だけしか使わない。だから体力を消耗しないですむ。体力が乏しい私向きだし、年をとってもつづけられるだろう。そして何よりも大切なことだが、このやり方だと、患者さんからもたいへん好評なのだった。(つづく)


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039
整体の学校を卒業した私は、いよいよプロの整体師として開業することにした。とはいっても、ちゃんと場所を構えて看板を上げるようなゆとりなどない。

不動産バブルは崩壊していたが、それでも東京都内の路面店となれば、べらぼうに家賃が高いのである。ここで店舗を借りようと思えば、礼金や保証金、前家賃だけで家賃の半年分以上は必要だ。最低限の安アパートを借りるだけで四苦八苦していた私に、それほどの大金を捻出できるはずもなかった。

しかも自営の整体での開業では、経営が安定するのは相当先になるだろう。そうでなくても1990年代の整体といえば、性風俗の隠れ蓑的な怪しいイメージが強かった。そんな商売に部屋を貸すとなると、大家さんとしては不安になる。不動産屋だってあまり斡旋したがらないから、審査も通りにくい。そういう時代だった。

仮にそれらの障害を乗り越えて店舗を借りられたとしても、客商売なら設備だってそれなりに揃えなくてはならない。するとますます出費がかさむ。そればかりか、どんな一等地に立派な店舗を構えたって、そこに肝心のお客さんが来てくれるかどうかは、全く別問題なのである。

どんな商売でも予想外のことが起きるものだ。開業時には半年分ぐらいの運転資金がなければ、あっという間に立ち行かなくなってしまう。開店早々、経営に行き詰まり、借金を背負って閉店する可能性も大きい。

そこで考えた。
やっぱりいきなり店を構えるのはやめよう。まずは出張専門でやってみるのだ。出張で相手の家まで行って施術するだけなら、店舗を借りなくてもいい。設備を揃える必要もない。携帯電話さえあれば開業できるじゃないか。そう決めたら、問題が一つクリアできた。

次の問題は、お客さんをどうやって集めるかだ。
昔ならチラシでも配るのだろうか。だが店舗がない以上、配布エリアが絞れない。すると範囲が広くなって、その分費用も格段に大きくなる。もちろんそのチラシの反響があるかもわからない。そんなことでは心もとないから、チラシもダメだ。

ここでふとひらめいた。それなら紹介制にしよう。
最初は知り合いに施術してまわり、その人たちから新規のお客さんを紹介していただくのだ。これがうまくいけば、路面店につきものだといわれる、タチの悪いお客を相手にすることもないし、「みかじめ料を出せ」などと脅されることもない。

逆にお客さんの立場でも、いきなり路面店に飛び込んで施術を受けるよりも、知り合いの紹介のほうが安心だろう。私のウデが悪ければ紹介されることもないから、よりフェアな関係になれる。これでまた一つ不安が減った。

あとは施術料金をいくらにするか。これも悩みどころである。
これまでは、練習台になってもらう名目で無料で施術してきた。次からはお金をいただくとなると、少しばかり気まずい。だが有料でなければプロではない。気まずいからといってあまり安くしては続けられないし、高すぎてもいけない。

出張整体の相場なんかあるのだろうか。考えてみてもわからないので、よほど遠方でなければ、交通費込みで8000円に決めた。

そうと決まったら、残るのは宣伝だ。
紹介制なのだから、知り合いに名刺を配ればいいだろう。名前と携帯電話の番号と「1回8千円」と入れて、奮発して3千枚も印刷した。これが開業のときの唯一の投資となった。

まずは挨拶がてら、一通り名刺を配って歩く。30枚も配り終えたあたりから、少しずつ予約が入り出した。最初の予約は開業へのご祝儀みたいなものだろう。全くもってありがたいことである。

そうやって知り合いからの予約が一巡するころには、今度は見ず知らずの人からも紹介で予約が入るようになった。保険の営業と同じで、営業先が身内だけでは先細りになるのは目に見えているから、これはまずまずの滑り出しだ。

ところが順調に私の手帳が予約で埋まり出したら、なぜだか「あっちが痛い」「こっちが痛い」「実は〇〇病で」という人からの予約が増えてきた。整体でリラックスしてもらえたらイイかな、くらいに軽く考えていた私には、ちょっと意外だった。

そもそも整体をはじめとする民間療法では、「治療」という言葉は使えない。「治療する」とか「治す」という表現は、医師法で守られた医師だけが使えるものなのだ。

まして何か具体的な症状を「治します」なんて、絶対にいえない立場なのに、効果を期待されても困る。整体の学校でもそこまでは教わっていない。

たしかに病院で治らない病気は山ほどあるようだし、民間療法に期待する人が多いのもわかる。それを逆手にとって、難しい病気を「治す」と評判のカリスマ治療家がいることも知っている。

彼らはテレビに出演し、それぞれの得意技をオーバーアクションでやってみせる。なかには患者の関節からバキバキッとすごい音を鳴らして、観客の度肝を抜く人もたくさんいた。

そういうスゴイことをやった分だけ、効果も大きいと思う人も多いようだが、私にはあんなことは恐ろしくてできないし、やりたくもない。

実は整体のような民間療法のプロなら、必ず傷害保険に加入している。施術によって患者の体に何か不具合が生じたら、それを保険で補償するのである。

ところが私が加入している保険では、あの関節をバキバキいわせるアジャストと呼ばれる手技には保険が下りない。アジャストは血管を傷つけたり、骨が欠けることもよくある危険な行為なので、やれば事故が起きて当たり前。そんな手技は最初から補償の対象外なのだ。

そもそもアジャストで何かが治るわけでもないので、かっこよく見えても手を出すべきではない。人体には、できるだけ大きな力や衝撃を与えないようにするのが安全だ。

私も素人のときには思いもしなかったが、プロになって経験と知識が増えてくると、人の体に触れること自体が怖くなってきた。安全第一という思いは、日を重ねるごとにさらに強くなっていく。

今では名医と評判の外科医も、初めての執刀前夜には、自分の不手際で患者が死ぬかもしれないと考えると、不安で寝つけなかったらしい。そこで思わず、「ナムアミダブツ」と手を合わせて祈ったのだという。

信仰心などなくても、自分が人の生死の鍵を握っているとなれば、そういう心境になって当然だ。そしていつしか私も、神に祈るような気持ちで、人の体に立ち向かっていくことになるのだった。(つづく)


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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 035
何か得体のしれない黒いモノ、意念でしか見えないソイツは、人に取り憑いて悪さをするのだという。それはいわゆる「悪霊憑き」というヤツだろうか。

ナカバヤシ先生は、その取り憑いたヤツを「気」の力で引きはがすのだ。そのためには、まずは憑かれている人の足元のほうから「気」を送り込み、憑きモノを手の先のほうに少しずつ追い込んでいく。

そして最後に「エイッ」とばかりに「気」を操って、憑きモノを手の先から引っ張り出して床に叩きつけるのだ。このとき、決して口から引き出してはいけないらしい。口から出したらどうなるのだろう。そう考えると恐ろしくなってくる。

なかにはナカバヤシ先生ほどの達人でも引き出せないヤツがいるようだから、ますます恐ろしい。しかしそういうときには、憑かれている人の額に「気」で呪文を書いて、それを御札(おふだ)のように貼り付ける。こうしておくと、憑きモノを取り払えなくても、力が封印されて悪さはできなくなるそうだ。

これはもう香港映画の『霊幻道士』の世界である。映画のなかでは、中国の民間信仰だった道教の道士が、悪霊が取り憑いた死体(キョンシー)の額に呪符を貼って封じ込めるシーンがあった。

呪符とは、黄色い紙にニワトリの生き血で呪文を書いた御札だが、ナカバヤシ先生は、「気」の力でもって直接書き込むのである。全くディープすぎてめまいがする。しかし気功とはそもそも道教の方術の一つであって、不老不死を達成するための秘術なのだから仕方がない。

道教の秘術といえば、友人が台湾の道教寺院で、異界を旅する方術を受けた話を聞いたことがある。

さして珍しくもない造りの寺に一歩足を踏み入れると、ほとんど日の差さない暗がりのなかで、お香がもうもうと焚かれている。祭壇の前には案内役の道士が座り、その後ろに10人ほどの参加者が座る。そこで道士が何やら呪文を唱えると、参加者たちの頭のなかには共通した建物のイメージが浮かび上がってくるのだ。

その建物の前には薪が積んである。薪が多い人、少ない人、バラバラに散らかっている人などさまざまだ。薪はその人の財産を表しているので、もし少ないようなら道士が増やしてやったり、散らばっている薪を積み直したりもする。

次にイメージのなかで建物に入っていくと、正面にはやはり祭壇があって、そこには自分の配偶者となる人の写真が置いてある。その横には、自分の寿命を意味するろうそくが立っているのである。こんな話が延々と続いて、もっと強烈な話も聞いた。

しかしこの異界への旅の映像は、その場のだれもが見えるわけではない。人によってはぼやけていたり、全く何も見えてこない人もいる。気功を極めると、こういう世界が広がるというか、深まっていくものらしい。

ナカバヤシ先生からも、中国のとんでもなくスゴイ人を見てきた話を聞いた。

もう30年以上前、中国で気功の全国大会が開かれた。そこに集まった腕自慢たちはそれぞれの得意技を披露する。「気」の力で相手を吹っ飛ばすのはもちろんのこと、テーブルの上の大皿を、「気」の力でUFOのように自在に飛ばしてみせる人もいた。

なかでも極めつけは、見た目は小柄な老人だった。彼は力むこともなくスッと登壇したかと思うと、壁に自分の右肩と右腰をつけて立った。そして肩と腰を壁につけたまま、左の脚を高々と頭の上まで上げてみせたのだ。

「??」

それがどうしたというのだろう?これを聞いたときには全く意味がわからなかった。私がキョトンとしているのを見ると、ナカバヤシ先生はニヤッとして、「やってごらん」という。そこで自分で試してみると、初めてその意味がわかった。人体の構造上、そんなことは絶対にできるはずがなかったのだ。

こういった話が事実なら、気功というのはやはり底なし沼のごとく、深くふか~くはまりこんでいくトンデモない世界なのである。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 034

「私は気功に向いているのかもしれない」

そう思うと練習が楽しくて仕方がない。毎週、日曜にナカバヤシ先生のお宅に行くのが待ち遠しいほどだった。夢中で通い続けてしばらくたったころ、ようやく治療のための気功を教えてもらえることになった。

治療に使う「気」というのは、相手を倒すための「気」とは全くちがった種類なのである。しかも漢方医学では、各臓器ごとにそれぞれちがった「気」があって、気功師は患者の病態に合わせて、それらの「気」を使い分けて治療に当たるのだ。

たとえば、胃の「気」が弱くなったり強くなりすぎたりすると、胃が病気になる。それに対して気功師は、自分の胃の「気」を患者の胃に送ってパワーを補ったり、逆に強すぎる「気」を弱めたりする。そうやって「気」のバランスをとることで胃の病気を治すのだという。

気功で病気治療をやるには、まずは自分のそれぞれの臓器から、「気」を出せるようにならなければならない。なかでも気功治療でもっとも重要なのは、腎臓から出す腎気(じんき)である。

腎気は生命の「気」とも呼ばれる。したがって、治療で無闇に腎気を使っていると、自分の生命エネルギーが無くなってしまうのだ。だから腎気を使うのは、よほど重病の人を治療するときに限定し、しかも少量を効率よく使わなくてはならない。

これらの「気」をちゃんと使い分けられるようになって初めて、気功治療が行えるようになる。つまり、なんでもかんでも「気」を出せればいいというものではない。そこがバトルのときとちがうところである。

また同じ「気」でも、その質には良し悪しがある。良くない「気」は邪気と呼ばれる。邪気は病気の原因になるので、すみやかに取り払わなければならない。

ところが気功師が邪気を払おうとすると、そいつがモゾモゾと手から入り込もうとする。だからこそ、自分を守るためにも、邪気を払う技術は非常に重要になってくるそうだ。

なんだか恐ろしげな話である。ここでひるんでいる場合ではないので、まずは一つ一つの内臓に対応した「気」の出し方から練習する。

確かに、相手を倒すときに出す「肺気」とちがって、治療目的の「気」を出すには相当繊細なテクニックが必要だ。イメージした臓器から「気」が出せているのか、自分ではよくわからない。確かめようにも確かめようがないところもむずかしい。

ここまでで、とりあえず気功治療への理解は深まったと思うが、果たしてこれで本当に病気が治るのだろうか。ここがいちばん肝心なところである。

そういえば、まだナカバヤシ先生が病気を治しているところは見たことがない。一度見てみたいものだ。そう考えていたら、ちょうど腰が痛み始めた。われながらなんと都合がよい体ではないか。

そこで恐る恐る、先生に気功で腰を治してもらえないか頼んでみた。すると先生は「ヨシッ」と応じて、私の腰に手を当てた。手を当てて「気」を入れるときには手の平を患部に密着させる。こうすると、「気」をもらさず体内に送り込めるのだ。

手を当ててもらっていると、ジンワリと腰に心地よさが伝わってくる。手のぬくもりのせいかもしれないが、3分もするとなんとなく腰が軽くなってきた。さきほどまでのズキズキとした痛みも消えたようだ。

これが「気」の効果なのだろうか。仮に単なる気のせいだったとしても、私の体感では気功治療に効果はあるようだった。

先生の話では、今のは「気」による治療だが、たいへんな病気のときには意念の力もいっしょに使うらしい。

丸めた紙の内側の字を読みとってみせてくれたときのように、意念でもって相手の体のなかを見ていく。そこで何か悪いモノが見つかれば、意念の力で焼き払うか、外から「気」を送り込む。この方法で難病を治療するのだという。

ところが「気」というのは、必ず強いほうから弱いほうへと流れる性質があるので、もしこちらの「気」が患者よりも弱ければ、治療効果も小さくなる。

しかし力の差がはっきりしていれば、「気」を受けた側はほぼ眠ってしまう。今回、私は先生から「気」を入れられても眠らなかった。すると、私の「気」の力は強いと思ってよいのだろうか。

さらに意念の目で見ていくと、体に黒いモノがへばりついている人がたまにいるらしい。その黒いモノはひどい悪さをするので、すぐに取り去る必要がある。しかしそれに対処するには、これまた特別な方法があるのだという。

もうこうなってくると、私の理性では判断もつかないほど、あちら側にはディープな世界が展開しているのだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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