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オーロビルの近くの村で、ヒンドゥー教の祭が開かれると聞いて、友だちといっしょに見に行った。そこは村といっても民家がポツポツとあるだけで、ふだんは人が歩いているのも見かけない静かな場所である。
ところが着いてみると、どこからこれだけの人がやって来たのか。屋台が立ち並び、大勢の人でにぎわっている。祭を盛り上げるためなのか、あちこちで爆竹の音も鳴り響いている。爆竹といっても、中華街で打ち鳴らしているようなシロモノとはちょっとちがう。近くで爆発すると地面が揺れる。ものによっては、どこかにつかまっていなければ体を支えきれない。爆竹というよりも爆弾といったほうがよさそうだが、ここでは消防法など関係ないのだろう。
この爆竹よりもさらにすさまじいのが、ヒンドゥー教の行者による火渡りである。日本でも修験道の行者の火渡りはテレビでたまに見かけるが、あの火渡りの源流はヒンドゥー教らしい。日本の火渡りも、最初のうちこそ炎がゴーゴーと音を立てて燃えているが、いざ行者が渡るころには鎮火して、燃えカス状態になっている。それでも熱そうだから私はやりたくない。
小学生のころに読んだ子供用の科学雑誌に「火渡りのからくり」という記事があった。それによると、火渡りをする行者は、あらかじめ足を水の中にしっかり浸けておく。すると皮膚の隙間に水がしみ込んで保護膜となる。だから行者は裸足で火の上を歩いてもヤケドをしない。そんな説明だった。
「なるほど」と思う話だが、本家の火渡りはそんなレベルではない。人の背丈を越すほど燃え盛る炎の上を、まるで火事場に飛び込むようにして、行者が次々に渡ってゆくのである。あんな業火では、足どころか全身を水浸しにしなければ火だるまになりそうだ。
そうして一通り行者たちが渡り終えて、道ができたところで、今度は一般の信者たちが渡り始める。しかしまだまだ火の勢いは強い。燃えカスになどなっていない。そこを子供を連れてでも渡るし、渡っている最中に炎のなかで転ぶ人までいる。悪夢のような、なんとも恐ろしい光景である。いっしょに来た友人たちも、試してみようなどとはだれもいわない。ただ呆然と見ているだけだった。
しかし祭というのは、本来こういうものかもしれない。リオのカーニバルやスペインの牛追い祭で、必ず死人が出るのは有名だ。日本の御柱祭(おんばしらまつり)やだんじり祭だって危険なことは知られている。
そもそもヒンドゥー教徒の死生観も、日本人とは大きくちがう。彼らはみな生まれ変わりを信じているから、日本のような墓はない。インドにあるのはせいぜいキリスト教徒の墓である。ヒンドゥー教徒にしてみたら、どうせ死んだってまた生まれ変わるのに、墓など必要なわけがない。死んだら遺体は河原で燃やして、燃え残りを河に流して終わりである。
それほど徹底しているのだから、先祖供養も全く意味がない。供養しているうちに、本人はとうの昔に生まれ変わっているはずなのだ。仏教の大本である釈迦の教えも似たようなものである。臨終に際して自分の亡骸のことを聞かれると、「在家信者にまかせて放っておけ」といわれたほど、命や体に対して執着がない。
彼らに比べると、日本では死を異常に怖がる人が多い。それは生まれ変わりを全く信じていないからだ。死んだらすべて終わりで、生命はこの世だけのものだと考えていれば、死ほど恐ろしいものはないだろう。
祭と死といえば、思い出す話がある。
その昔、現代美術で著名な岡本太郎が、諏訪の御柱祭のゲストに呼ばれた。彼は祭のクライマックスである「柱落とし」の場面になると、自分も参加しようとして来賓席から飛び出していった。関係者が「死んだら困る!」といって慌てて制止すると、彼は「祭で人が死んで何が悪い!」と叫んだという。
ヒンドゥーの祭を見ていると、まさに彼の発言は正論だと感じる。生命は生まれ変わりを繰り返して連続している。そう考えれば、死はその一過程に過ぎない。その生と死の節目こそが、祭の本質なのだろう。(つづく)
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