小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:チベット

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小説『ザ・民間療法』挿し絵025
1年もの間、オーロビルで共に暮らしたコミュニティのみんなに別れを告げ、私はまずはカルカッタへと向かった。

カルカッタでは、私にオーロビル行きを勧めてくれたジャナさんに会い、あらかじめ頼んでおいたシッキムへのパーミット(許可証)を受け取った。このパーミットがなければ、シッキムには入れない。河口慧海風にいえば、関所を通るための通行手形なのである。

慧海の場合、チベットに行こうと思えば関所破りしかなかったので、彼はヒマラヤの周囲をかなり遠回りした。当時は関所破りが見つかれば重罪で、死刑は免れなかったからである。それに比べて私は、パーミットを手にして意気揚々と飛行機に乗り、苦もなくシッキムの州都、ガントクの入り口であるシリグリ空港に到着した。

シリグリに降り立つと、いきなりひんやりとした空気が私の肺を満たす。インドに来て以来、溜まりに溜まっていた熱気が一挙に押し出された。これだけで生き返ったようだった。

シリグリからガントクまではタクシーで5、6時間の距離である。早速、空港で客引きをしているタクシー運転手たちと料金の交渉に入る。相場はわからないが、得意の交渉術を駆使して往復5000円で決着した。5000円といえば彼らの月収に当たる額だから、高いといえば高い。だがここであまり値切ってしまうと、肝心の目的地に着かない可能性もあるのだ。

標高1600メートルを超すガントクに行くには、ヒマラヤのふもとからひたすら急勾配を登っていく。さすがにヒマラヤの地形はスケールがちがう。車道の片側は、全く底が見えないほど深い深い谷底へと続いている。しかも至るところに崖くずれのあとがあり、落石でつぶされた車が何台も、回収もされずに転がったままになっていた。自分の乗った車がこんな姿にならないことだけをひたすら念じるしかない。

この時季は雪がないが、これで雪が降ったらどうするのだろう。このあたりには希少動物のユキヒョウがいるというから、顔を見せてくれないだろうか。そんなことを考えて気を紛らわす。

ガントクへ向かっているのは私たちだけではなかった。だが他の車は軍用のトラックばかりである。軽いノリでやってきた私は場ちがいな気もしたが、何とか検問所までたどり着く。そこには銃を提げた兵士が立っていて、強い目線でこちらをにらんでいる。パーミットがあるとはいえ、これで本当に大丈夫なのか。また不安になる。そうやってものものしい検問所を抜けると、やっとガントクだ。

崖から落ちないかと緊張した状態で6時間。それに加えてガタガタ道で車に揺られて体が固まっていた私は、少し街のなかを歩いて体をほぐすことにした。

しばらく歩いていると、地元の子供たちが私の後をついてくるのに気がついた。どうやら長い金髪を垂らした田舎のロックミュージシャン風の格好が、彼らにはよほど珍しかったようだ。街外れに着いたときには、その数が30人ほどにまでふくれ上がっていた。これではまるでハメルンの笛吹き男ではないか。

あの笛吹きはそのまま子供を連れ去ったというが、どうしたものか。私はあまりの数に困り果てた。仕方がないので急ぎ足でタクシーまで戻り、群がる子供を振り切って、目的地であるラマ教寺院へと出発した。後ろを振り返ると、タイヤから上がる砂塵の向こうで、子供らの群れも小さくなっていった。

ほどなくしてお目当ての寺院に近づくと、マルコの8ミリ映像に映っていた、あの鼻輪を着けた人々がいるではないか。昔ながらのその姿に「おお!」と思う間もなく、私を乗せたタクシーは寺院の門前に着いた。

そこでタクシーを待たせておいて、私は門をくぐる。本堂は崩れたままで往時の輝きは失せていたが、奥のほうからは経文を唱える声が聞こえてくる。その声からすると、修行者たちはまだ大勢いるようだ。

ヒマラヤの聖者とはいわないまでも、ここにだけは途切れることなく釈迦の教えが生き続けているのかもしれない。これからどんな出会いがあるのだろう。そう思うと期待に胸がふくらむ。それと同時に緊張で尿意を覚えたので、ちょっとトイレへと立ち寄った。

トイレの扉を開けると、私の眼前にはかつて見たことのない光景が待ち受けていた。この衝撃を何と表現したものか。ただことばもなく、即座に私は扉を閉めた。チベット寺院で暮らしていた慧海も、僧侶たちの衛生観念のなさには辟易したという記述がある。その彼の思いが、一瞬にして私の体内を駆け抜けた。

さらに慧海の『チベット旅行記』には、チベット仏教の秘薬の話も書かれていた。あの当時でも、その秘薬はありがたいものだった。だが秘薬の正体は、高僧の大便をその下のクラスの僧の尿で練って丸め、上から金色に着色して仕上げていたのである。日本人の衛生観念からすると、にわかには信じがたい話だろう。

「ハナクソ丸めて万金丹、ソ~レを飲むヤツ、アンポンタン」
私が子供のころ、こんな囃子唄があったが、秘薬はそのはるか上を行くシロモノだ。しかし、この寺院のトイレを見てしまった私には、慧海の話の信憑性を疑う気にはならなかった。

そういえば以前、父といっしょに知り合いの家に行ったら、その家の夫人が「最近、健康のために飲尿療法を始めたのよ」と得意気に話し始めたことがあった。それを聞いた途端、出されたお茶を持つ父の手がピタリと止まった。そして「あまり長居をしても…」といいながら、そそくさと帰り支度を始めた。わが父ながら、わかりやすい反応だ。

だが生理的な不快感はすべてのものに優先する。それがどれほど健康に良かろうが、またすばらしい悟りの世界であろうが関係ないのである。

ところが人間は、とかく表面のありがたさに目がくらむと、判断力を失うものでもある。それが洗脳ということだろう。しかし河口慧海は真実を知った。見せかけだけの信仰の愚かさを悟り、最後には自ら僧衣を脱いで還俗したのである。

私も衝撃の光景のおかげで、一挙に洗脳が解けた。そうだ。このトイレでの悟りを胸に、私は日本へ帰ろう。そう決意した私はそのままきびすを返し、経文の唱和に包まれてラマ教寺院を後にしたのだった。(つづく)


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小説『ザ・民間療法』挿し絵024
「よし、日本に帰ろう!」
そう心に決めたはイイが、思えば何のためにインドに来たのだったか。これといって具体的な目的があったわけではない。かといってこんなところまで来ておきながら、収穫らしきものが何もないまま、手ぶらで帰っていいのだろうか。そんなことが頭のなかでグルグルし始めた。

そのときフッと、前にマルコに見せてもらった映像を思い出した。彼は若いころ、中国に組み込まれる以前のチベットのラサに赴き、そこにあるチベット寺院を8ミリフィルムに収めていたのである。

彼はシッキムからのルートでチベットに入国したようだが、その白黒の映像には、鼻輪を着けたシッキムの人々が行き交う姿が映っていた。それは私に鮮烈なイメージとなって記憶されていた。

シッキムといえば、以前読んだ河口慧海(かわぐちえかい)の『チベット旅行記』にも、慧海がマルコと似たようなルートをたどった記述があった。それはちょうど日清戦争前夜のころのことで、禅僧だった慧海は仏の教えの真実に迫るべく、当時は鎖国状態だったチベットに命がけで密入国を試みたのである。

河口慧海といっても、今の日本ではあまり知られていないだろうが、海外では探検家としてリビングストンと並び称される人物だ。その慧海の求道の旅にはいくつかのルートがあった。その一つが、カルカッタからシッキムに入り、チベットへと抜ける方法だったのだ。

そうだ。私もシッキムに寄ってから日本に帰ろう。
シッキムは、今ではインドの州の一つになっている。しかし慧海の時代には独立した王国で、地理的にはネパールとブータンに挟まれたヒマラヤのふもとにある。

ヒマラヤに行こうと思い立った瞬間、私のなかを涼しい風が吹き抜けた。心はすでにヒマラヤの雪景色のなかである。熱暑の日々に疲弊しきっていた私には、そこはまるで天国のように感じられた。

今でもヒマラヤには聖者がいて、雪山のなかで修行しているという話なら、インドでは何度も耳にしていた。ところがその聖者に実際に会ってきた人の話は聞いたことがない。

私はインドに来る前、ネパールのカトマンズに立ち寄って、ヒマラヤの上を飛ぶ遊覧飛行を体験した。パイロットが上空数百メートルまでヒマラヤに接近してくれたので、聖者らしき人影を探してみたが、私には何も見えなかった。

もちろん、たとえヒマラヤには聖者がいるとしても、今の私の体力でそんなところまで会いに行けるものではない。だからせめて、慧海のたどった求道の旅の一部でも体験してみたい。

そういえばシッキムにはラマ教の総本山があったはずだ。
ラマ教とはチベット仏教のことで、日本の密教的な要素が強いことが知られている。その総本山までは行ってみよう。そうすれば、人生の指針の一つでも得られるかもしれない。そんなことを考えながら、旅の支度を始めた。

オーロビルでは、私が日本に帰ることを聞きつけた人たちが集まって、お別れの会を開いてくれた。それぞれ国はちがっても、ファミリーのようなつきあいをしてきた仲間である。いざ別れるとなると、さすがにつらい。みんな私の苦手なハグやキスを連発して別れを惜しんでくれた。そして口々に、「もっとここにいて、私たちの体を診てほしい」ともいってくれた。

その光景は、慧海がチベット寺院を後にして日本に帰国するときのことを想起させた。多少医学の心得があった彼は、たまたま脱臼した子供の腕を治したことから、チベット寺院では医師としてもっとも高い地位を与えられていたのである。そのため帰国する際、かなり強く慰留されたようだ。しかし彼は「私は医者ではなく修行僧だ」といって、きっぱりと断ったのだという。

それでまた思い出した。私はインドに仏道修行に来たわけではなかったのだ。もちろん治療家になろうと考えていたのでもない。全てはあのときテレビ局の控室で、なぜ彼のぎっくり腰が私の手で治ったのか、その理由を知りたかっただけである。そのヒントでも見つかればいいな。そう思って何となくインドまで来てしまったが、そこに深い考えがあってのことではない。

そこまで思い出したおかげで、頭のなかのグルグルが少し収まった。そして幾分気持ちが軽くなった私はオーロビルに別れを告げ、慧海がチベットへと旅立った最初の地、カルカッタに向かったのである。(つづく)


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