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「よし、日本に帰ろう!」
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「よし、日本に帰ろう!」
そう心に決めたはイイが、思えば何のためにインドに来たのだったか。これといって具体的な目的があったわけではない。かといってこんなところまで来ておきながら、収穫らしきものが何もないまま、手ぶらで帰っていいのだろうか。そんなことが頭のなかでグルグルし始めた。
そのときフッと、前にマルコに見せてもらった映像を思い出した。彼は若いころ、中国に組み込まれる以前のチベットのラサに赴き、そこにあるチベット寺院を8ミリフィルムに収めていたのである。
彼はシッキムからのルートでチベットに入国したようだが、その白黒の映像には、鼻輪を着けたシッキムの人々が行き交う姿が映っていた。それは私に鮮烈なイメージとなって記憶されていた。
シッキムといえば、以前読んだ河口慧海(かわぐちえかい)の『チベット旅行記』にも、慧海がマルコと似たようなルートをたどった記述があった。それはちょうど日清戦争前夜のころのことで、禅僧だった慧海は仏の教えの真実に迫るべく、当時は鎖国状態だったチベットに命がけで密入国を試みたのである。
河口慧海といっても、今の日本ではあまり知られていないだろうが、海外では探検家としてリビングストンと並び称される人物だ。その慧海の求道の旅にはいくつかのルートがあった。その一つが、カルカッタからシッキムに入り、チベットへと抜ける方法だったのだ。
そうだ。私もシッキムに寄ってから日本に帰ろう。
シッキムは、今ではインドの州の一つになっている。しかし慧海の時代には独立した王国で、地理的にはネパールとブータンに挟まれたヒマラヤのふもとにある。
ヒマラヤに行こうと思い立った瞬間、私のなかを涼しい風が吹き抜けた。心はすでにヒマラヤの雪景色のなかである。熱暑の日々に疲弊しきっていた私には、そこはまるで天国のように感じられた。
今でもヒマラヤには聖者がいて、雪山のなかで修行しているという話なら、インドでは何度も耳にしていた。ところがその聖者に実際に会ってきた人の話は聞いたことがない。
私はインドに来る前、ネパールのカトマンズに立ち寄って、ヒマラヤの上を飛ぶ遊覧飛行を体験した。パイロットが上空数百メートルまでヒマラヤに接近してくれたので、聖者らしき人影を探してみたが、私には何も見えなかった。
もちろん、たとえヒマラヤには聖者がいるとしても、今の私の体力でそんなところまで会いに行けるものではない。だからせめて、慧海のたどった求道の旅の一部でも体験してみたい。
そういえばシッキムにはラマ教の総本山があったはずだ。
ラマ教とはチベット仏教のことで、日本の密教的な要素が強いことが知られている。その総本山までは行ってみよう。そうすれば、人生の指針の一つでも得られるかもしれない。そんなことを考えながら、旅の支度を始めた。
オーロビルでは、私が日本に帰ることを聞きつけた人たちが集まって、お別れの会を開いてくれた。それぞれ国はちがっても、ファミリーのようなつきあいをしてきた仲間である。いざ別れるとなると、さすがにつらい。みんな私の苦手なハグやキスを連発して別れを惜しんでくれた。そして口々に、「もっとここにいて、私たちの体を診てほしい」ともいってくれた。
その光景は、慧海がチベット寺院を後にして日本に帰国するときのことを想起させた。多少医学の心得があった彼は、たまたま脱臼した子供の腕を治したことから、チベット寺院では医師としてもっとも高い地位を与えられていたのである。そのため帰国する際、かなり強く慰留されたようだ。しかし彼は「私は医者ではなく修行僧だ」といって、きっぱりと断ったのだという。
それでまた思い出した。私はインドに仏道修行に来たわけではなかったのだ。もちろん治療家になろうと考えていたのでもない。全てはあのときテレビ局の控室で、なぜ彼のぎっくり腰が私の手で治ったのか、その理由を知りたかっただけである。そのヒントでも見つかればいいな。そう思って何となくインドまで来てしまったが、そこに深い考えがあってのことではない。
そこまで思い出したおかげで、頭のなかのグルグルが少し収まった。そして幾分気持ちが軽くなった私はオーロビルに別れを告げ、慧海がチベットへと旅立った最初の地、カルカッタに向かったのである。(つづく)
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