小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

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小説『ザ・民間療法』挿し絵001-2
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あれは私が川釣りを覚え、黒曜石拾いに熱中していた中学生のころのことだった。学校から帰った私が、いつものように近くの河原に行く準備をしていると、それまで平静だった母が、「うっ」と胸を押さえてうずくまった。

突然のできごとというのは、状況を把握するにもしばらく時間がかかる。一瞬、私のなかで時が止まった。今なら即座に119番するところだろう。だが昭和40年代の田舎町には、救急車など来ない。呼んだとしても、運ばれる先はどうせ近所の山本医院なのだ。

「そうだ。先生を呼ぼう」
震える手で受話器をつかんだ私は、必死の思いで山本先生に往診を頼んだ。すぐに快諾してくれてホッとしたものの、先生を待つ間、何をしたらいいかわからない。しかたないので、私はその辺にあった毛布を母にかけておいた。

どれぐらいの時間が経っただろう。山本医院は、うちから歩いて10分ほどである。だからきっと10分やそこらのわずかな時間だったはずだ。しかし先生が到着するころには、母の発作はすっかり治まってケロッとしていた。

それはそれでよかったのだが、現代なら症状は治まっていても病院で心電図ぐらいは撮るはずだ。後日、しっかり検査することにもなるだろう。ところがあのときは「このまま様子を見ましょう」で終わった。

山本先生が帰ったあと、それまでしおらしく寝ていた母は、自分にかけてある毛布の存在に気がついた。途端に「奥にキレイなのがあるのに、なんでこんな汚いのをかけたのっ。恥ずかしいじゃないの!」と、なぜか傍らにいた父を怒鳴りつけた。毛布をかけたのは私なのに、父もとんだとばっちりだ。それはいつもの光景ではあったが、それでも母の完全復活は喜ばしいことだった。

その後も、母には同じような症状が何度も続いた。しかしその都度、自然に治ってしまう。もともと母は、自分の体のことには大げさなタチである。そんなことを繰り返しているうちに、家族のだれもが、大した病気ではないと思うようになっていた。

そんなある日、私の目の前でまた母の発作が始まった。私は母の体を支えようとして、何気なく背中に手を回した。すると私の指先に、何やら小さなしこりのようなものが触れた。背中といっても、それはちょうど心臓の真裏あたりの位置である。

「ひょっとしてこれが原因か」
ふとそんな考えがひらめいた。そこでそのしこりに指を当て、ゆっくりと押し続けてみたらスッと消えた。それと同時に母の症状も、何事もなかったかのように消えてしまったのだ。

「やっぱりこのしこりが犯人だったのか」
私としては、動かなくなった電化製品をいじっているうちに、偶然直せたようで痛快だった。もちろん母はそんなことには気づいていない。いつものように、発作は自然に治まったと思っているようだった。

それから何日かして、また私の目の前であの発作が現れた。すかさず私は母の背に手を回し、例のしこりがないかを確かめた。あった。やはり同じところに同じ感触のしこりがある。それなら、と慣れた手つきで私はゆっくりとしこりを押す。たちどころに母の発作は治まった。

「どんなもんだ」と声には出さないが密かに喜んだ。だがそのとき以来、あれだけしつこく繰り返していた発作が、ピタリと現れなくなった。おかげでせっかくの技術も、それきり出番がなくなってしまったのである。

これはもう半世紀も前の経験だが、今考えてみても、やはり母の発作はあのしこりが原因だった。それを私の指で治したのだ。私には確信がある。しかし当の本人である母は、自分の体で起きていたことなど全く理解していない。尊敬する医者の山本先生ですら何もできなかったのだから、まさか中学生の息子が治したなどとは考えてもみない。

病気というのは、病院でお医者様が注射や薬で治してくださるものだと思っている。まして(自分のように)大変な病気であれば、命がけの大手術でもしなければ治らないと信じ切っている。指先で押されたぐらいで、治ったなどとは絶対に認めたくない。自然に治ったことにしたほうがましだ。そうやって無意識のうちに、母は事実のほうを修正して記憶したようだった。

病気に対してこのような複雑な心理が働くのは、母に限った話ではない。そのことを、後になって私はいやというほど思い知らされることになる。ただし当時の私の記憶には、母の背中のしこりの感触と、人体のからくりを垣間見たような、ワクワクとした感覚だけが残ったのだった。(つづく)

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 先日、北海道の海辺でキテン(ホンドテン)を見かけた。

岩場でチョロチョロと愛らしい動きを見せたと思ったら、突然、海に潜ったのである。

テンが海に潜る?

こんなシーンを見た人など、めったにいないのではないだろうか。

海水でずぶ濡れになって岩に上がり、プルプルと体を振ってしぶきを飛ばす姿は、何ともいえずかわいかった。


 そういえばずっと前にも、もっと衝撃的な場面に出会ったことがある。

あれは今から30年以上昔のこと、北海道の大雪山系に岩内仙侠までドライブした。

そこから山道を車でさらに奥へ進むと、森のなかに名も知らぬ小さな沼があった。

人が立ち入ることなどほとんどない、いつクマが出てきてもおかしくないような、そんなところだった。


 私がその沼に見とれていると、目の前にとつぜん1メートル以上ある動物が泳ぎ出し、そして水のなかに潜っていったのである。

ほんの一瞬のできごとだったが、私の頭のなかには「カワウソ!」という文字が点滅していた。


 私はある博物館で、絶滅したといわれるニホンカワウソの剥製を見たことがあった。
kawauso

あのとき沼で遭遇したのは、そのニホンカワウソと同じものだったのだ。

もちろん、北海道でもニホンカワウソはとうに絶滅している。

見まちがうとしたら、テンか野生化したミンクしかない。

だが、それでは大きさが違いすぎる。

今でこそ、ペットとして輸入されたカワウソを飼うことがブームらしいが、30年も前にペットのカワウソなどいなかった。

だから、ペットが逃げたものでもない。


 やはりあれはオオウソ・・・いやオオカワウソだったことはまちがいない。

そして今でも、美しい沼の風景とともに、あの映像は私の脳裏に焼き付いているのである。(花山水清)
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