小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:医者

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小説『ザ・民間療法』挿し絵007
私が暮らしていたオーロビルでは、定住者たちはオロビリアンと呼ばれていた。彼らはここで、思いつく限りのさまざまな仕事に従事している。インセンスや藍染製品、アクセサリーを作って売る人、アンティーク家具を扱う人、本格的な宝石商から、ファッション・デザイナーやマッサージ師までいた。

そのなかに、ポーランドからやってきて、長い間、ニームという木の薬効を研究している男性もいた。ニームは日本では高級品らしいが、南インドならどこでも見かけるありふれた木だ。その葉っぱの汁を体に塗ると、虫除けになるのだと彼が教えてくれた。

オーロビルは高温多湿だからか、めったやたらと蚊が多い。ヤツらには日本の虫除けスプレー程度では、全く太刀打ちできない。ところが地元の人たちは、体中にビッシリと蚊がたかっていても、平気な顔をしている。だからといって、みながニームを塗っているようでもなかった。代々ここで暮らしているうちに、蚊に対する免疫ができているのだろう。私だって、蚊に刺されたぐらいでガタガタいいたくはない。だが、蚊が相手ならまだ何とか我慢もできた。しかしこの地の敵は蚊だけではなかったのである。

ある日のこと、集会所で映画を見ていたら大雨が降った。雨水は泥といっしょになって、みるみるうちに建物のなかにまで浸入してきた。すると部屋のすみにでも隠れていたのか、壁の下からサソリが一斉に飛び出してきたのである。

サソリなんか一匹だけでも十分驚きなのに、そのときは数だけでなく、種類の多さにも目を見張った。なかにはクモとサソリの中間ぐらいの、妙な姿のヤツまでいる。どちらにしても、みなえらく足が速い。

「サソリって案外と足が速いんだな。運動会の徒競走のようじゃないか・・・」
などと感心している場合ではなかった。彼らが向かう先にあるのは、私の足なのだ。もう片っ端から退治してまわったが、なかには私に向かってピョンと飛んで来るヤツもいて、全く衝撃的な光景だった。

「サソリの毒は後から効くのよ~」なんていう歌もあったが、サソリの毒はハチに刺された程度のものらしい。しかしいざ刺されたときのために、ここではみな家に小さな「黒い石」を用意していた。その石を患部に貼っておくと、毒を吸ってくれる。そして毒を吸い尽くした時点で、石はポロリと落ちるのだという。「そんなことがあるのか?」と疑問に思ったが、結局その石の効力を試すチャンスはなかった。

新参者の私には、あれこれ知らないことばかりだったが、実はオーロビルで一番厄介なのは、サソリではない。サソリに似た、スコーピオン・アントと呼ばれる毒アリなのだ。

このアリは、木の上からポトポトと落ちてきて、下を歩いている人間の首のまわりに噛みつく。噛まれると、バチッと火花が散ったような痛みとともに、患部がひどく腫れ上がる。ここではみな、日常的にコイツにやられている。だがこの腫れも、通常なら2、3日もすると自然に治ってしまうものらしい。

ところが私はちがった。あるとき、向こうずねに電気が走った。その痛みでスコーピオン・アントだとわかったが、すぐに噛まれたところが熱をもって腫れ上がってきた。そして何日たっても腫れが引かない。そればかりか、噛まれたところから化膿して、足が象のように太くなってきたのである。

これはマズイ。こうなると伝承療法ではすまない。さすがに現代医療の出番だろう。だがオーロビルには、病院どころか診療所の類すらない。バイクで30分ほどのところに、地元の人が行く小さな診療所があるだけなのだ。

もちろん私の住んでいるあたりには電車もないし、バスもない。車を持っている人もほとんどいないから、移動手段となるともっぱらバイクなのである。

私も日本ではバイクに乗っていたので、近くのレンタル屋でバイクを借りた。ヘルメットはないが、日本とちがって、ノーヘルごときでつかまることはない。それどころか3人でも4人でも、乗れるだけ乗って走るのがふつうだ。自分一人だけならいたって快適だし、ノーヘルで風を感じて走るのは気持ちがいい。象の足のままでも、バイクの運転に支障がないのは幸いだった。

近所の人に教えられた通り、でこぼこ道を運転して行った先には、みすぼらしい診療所があった。なかに入ると、医者らしき人がいる。医者であるから、愛想がない点は日本と同じだった。

だが彼は、私の腫れ上がった足を見るなり、いきなりメスを取り出した。と思うと、化膿している患部にグッサリとそのメスを突き立てた。そして容赦なく、グルリと患部をえぐり取ったのである。説明どころか麻酔すらない。私が叫ぶ暇すらなく、わが向こうずねにはポッカリとドカ穴が開いていた。

呆気にとられている私をしり目に、彼はそのドカ穴に消毒用のガーゼをグイグイと詰め込み始めた。あまりの痛みで頭のなかが真っ白になる。気絶できたら良かったのに、と思うほどだった。

痛い体験といえば、私は以前、友人の歯科医に麻酔なしで歯を削ってもらったことがある。
私が興味本位に頼んだことなのに、彼のほうが「こりゃ拷問だな」と顔をしかめていた。あれ以来、私は痛みに強いと自負していたのだ。ところがこのドカ穴の激痛は、その比ではなかった。

しかもその後も、毎日2度ずつ拷問が続いた。傷口の消毒のために、くっついたガーゼをベリベリと引き剥がすときと、再度ガーゼを押し込むときの2度である。これが私がインドで一番痛かった体験だが、それからしばらくして、私は2番目の激痛も体験することになるのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵002-2
中学の時点で人体のからくりに触れたとはいえ、その後の私の興味は、絵を描くことに向かっていた。地元の進学校に入学した私は、その興味のまま、何となく美術クラブに入った。特に強い思い入れがあったわけではない。もともと絵を描くのも苦手だった。ところが入部後に初めて描いた油絵は違った。

「天才の作品とは、このようにして生まれるものか」

そんな大それた錯覚が生まれるほど、自分の実力をはるかに超越した作品が勝手にでき上がっていたのだ。描いた私はもちろんのこと、周囲にいた先輩や先生も「あっ」と声を挙げるほどの出来栄えだった。そしてこの作品は、地方の美術展でいきなり最高賞を獲得したのである。

ところがそこからあとが続かない。いくら同じように描いても、私の筆先からは本来の実力通りのものしか出てこないのだ。それでも、あの最初の作品に取り組んでいるときの高揚感は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。

あれはランナーズ・ハイのようなものだったのか。ゾーンに入った状態とでもいうのかもしれない。もう一度、あの感覚を再現したい。そう考えた私は、ひとまず美大への進学を目標にすえた。

受験とは単なるテクニックである。そのテクニックを駆使して、何とか東京にある武蔵野美術大学に合格した。その知らせを聞いて、母の往診をしてくれた例の山本院長が、「祝いだ」といって酒に誘ってくれた。いくら子供のころからの顔なじみでも、それまでは医者と患者の関係でしかなかった。だからそれが、私にとっては白衣を脱いだ医者との初めての対面だった。

私には2つ年上の兄がいる。彼が医大に進学していたので、先生は私も医大志望だと思っていたようだ。それなのに美大に進学すると聞いて、私は脱落したのだと考えたらしい。酔いが回るに連れ、やがて先生の口からは徐々に本音がこぼれ始めた。

「私ら医者は、人の命を救う大事な仕事をしている。それに比べて絵描きなんぞが、人の命を救うようなことはない」
そういって、医者の仕事は美術より崇高だということを、私に向かって長々と説き続けた。

「そうだろうか。それなら、どうしてうちのバアさんの命を助けられなかったんだ」
そんなことを腹のなかでつぶやきながら、それをあえて口には出さない分別は私にもあった。彼の論理など、家で奥さんに向かって「オレは外で金を稼いでいるのに、オマエは家にいて云々」といっているようなものだ。その姿は、高校を出たての私の目にも、ひどく幼く見えた。

しかし、彼の言い分は核心を突いていた。果たして美術には、医学と肩を並べられるほど明確な目的があるだろうか。それは私が何を描くか以前の問題だ。この美術の存在意義に対する疑問は、いつまでも消化できずに私のなかに残り続けた。そして大学での4年間を費やしても、結局その解答は得られなかったのである。

最初の絵に向かっていたときの高揚感も、その後の私の作品に再び現れることはなかった。やはり山本先生がいった通り、美術は医学を超えることなどできないのだろうか。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵001-2
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あれは私が川釣りを覚え、黒曜石拾いに熱中していた中学生のころのことだった。学校から帰った私が、いつものように近くの河原に行く準備をしていると、それまで平静だった母が、「うっ」と胸を押さえてうずくまった。

突然のできごとというのは、状況を把握するにもしばらく時間がかかる。一瞬、私のなかで時が止まった。今なら即座に119番するところだろう。だが昭和40年代の田舎町には、救急車など来ない。呼んだとしても、運ばれる先はどうせ近所の山本医院なのだ。

「そうだ。先生を呼ぼう」
震える手で受話器をつかんだ私は、必死の思いで山本先生に往診を頼んだ。すぐに快諾してくれてホッとしたものの、先生を待つ間、何をしたらいいかわからない。しかたないので、私はその辺にあった毛布を母にかけておいた。

どれぐらいの時間が経っただろう。山本医院は、うちから歩いて10分ほどである。だからきっと10分やそこらのわずかな時間だったはずだ。しかし先生が到着するころには、母の発作はすっかり治まってケロッとしていた。

それはそれでよかったのだが、現代なら症状は治まっていても病院で心電図ぐらいは撮るはずだ。後日、しっかり検査することにもなるだろう。ところがあのときは「このまま様子を見ましょう」で終わった。

山本先生が帰ったあと、それまでしおらしく寝ていた母は、自分にかけてある毛布の存在に気がついた。途端に「奥にキレイなのがあるのに、なんでこんな汚いのをかけたのっ。恥ずかしいじゃないの!」と、なぜか傍らにいた父を怒鳴りつけた。毛布をかけたのは私なのに、父もとんだとばっちりだ。それはいつもの光景ではあったが、それでも母の完全復活は喜ばしいことだった。

その後も、母には同じような症状が何度も続いた。しかしその都度、自然に治ってしまう。もともと母は、自分の体のことには大げさなタチである。そんなことを繰り返しているうちに、家族のだれもが、大した病気ではないと思うようになっていた。

そんなある日、私の目の前でまた母の発作が始まった。私は母の体を支えようとして、何気なく背中に手を回した。すると私の指先に、何やら小さなしこりのようなものが触れた。背中といっても、それはちょうど心臓の真裏あたりの位置である。

「ひょっとしてこれが原因か」
ふとそんな考えがひらめいた。そこでそのしこりに指を当て、ゆっくりと押し続けてみたらスッと消えた。それと同時に母の症状も、何事もなかったかのように消えてしまったのだ。

「やっぱりこのしこりが犯人だったのか」
私としては、動かなくなった電化製品をいじっているうちに、偶然直せたようで痛快だった。もちろん母はそんなことには気づいていない。いつものように、発作は自然に治まったと思っているようだった。

それから何日かして、また私の目の前であの発作が現れた。すかさず私は母の背に手を回し、例のしこりがないかを確かめた。あった。やはり同じところに同じ感触のしこりがある。それなら、と慣れた手つきで私はゆっくりとしこりを押す。たちどころに母の発作は治まった。

「どんなもんだ」と声には出さないが密かに喜んだ。だがそのとき以来、あれだけしつこく繰り返していた発作が、ピタリと現れなくなった。おかげでせっかくの技術も、それきり出番がなくなってしまったのである。

これはもう半世紀も前の経験だが、今考えてみても、やはり母の発作はあのしこりが原因だった。それを私の指で治したのだ。私には確信がある。しかし当の本人である母は、自分の体で起きていたことなど全く理解していない。尊敬する医者の山本先生ですら何もできなかったのだから、まさか中学生の息子が治したなどとは考えてもみない。

病気というのは、病院でお医者様が注射や薬で治してくださるものだと思っている。まして(自分のように)大変な病気であれば、命がけの大手術でもしなければ治らないと信じ切っている。指先で押されたぐらいで、治ったなどとは絶対に認めたくない。自然に治ったことにしたほうがましだ。そうやって無意識のうちに、母は事実のほうを修正して記憶したようだった。

病気に対してこのような複雑な心理が働くのは、母に限った話ではない。そのことを、後になって私はいやというほど思い知らされることになる。ただし当時の私の記憶には、母の背中のしこりの感触と、人体のからくりを垣間見たような、ワクワクとした感覚だけが残ったのだった。(つづく)

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