*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 090
友人の父親の宗介さんは、今年85歳になる。戦争で胸に敵の弾を受けてしまってからは、彼はずっと片肺で暮らしてきた。それでも大して不自由もなく、特別な病気もしてこなかった。

ところが最近、かぜをこじらせてしまった。症状がなかなかよくならないのである。それを心配したご家族は大事をとって、宗介さんに2、3週間ほど入院してもらうことにしたらしい。

私は以前から、施術を通して宗介さんの体のことはよく知っている。骨太でなかなか丈夫そうだから、かぜぐらいで滅多なことはないだろうと思っていた。しかし、その日はたまたま病院の近くまで行ったので、病室に顔を出してみた。

病室をのぞくと、宗介さんは若い看護師さんに囲まれて、かなりご機嫌な様子である。ちょうどいい。起きているのなら、せっかくなのでついでに体の状態を見てみよう。

もちろんここは病院なので、あんまり大っぴらに施術してみせるわけにはいかない。肩をもんでいるふりをして、こっそりと背骨を調べてみた。すると肺のあるあたりで、背骨が大きくズレているではないか。

背骨がズレるのは腰だけではない。首や胸の部分でもズレる。だれでも、関節があるところならどこでもズレるものなのだ。そして定位置からズレたら、ズレたところで何らかの症状を引き起こす。それがズレの特徴だ。

宗介さんのように背中のあたりでズレると、その周囲に症状が出る。さらに、背骨につながっている肋骨の付近でも、痛みが出ることがある。

痛みだけではない。ときには呼吸が苦しくなったり、咳が止まらなくなったりして、ぜんそくみたいな症状になることもある。これは背骨から肋骨までズレることで、呼吸するための肋間筋という筋肉が引きつってしまうからなのだ。

そのため、かぜの症状だと思っていた咳が、実は背骨のズレのせいだったということはよくある。かぜなら1週間もすれば治ってしまうのに、ズレが原因だと、2か月も3か月も咳がつづくことも珍しくはない。

それにしても、背骨がこんなにズレていては、片肺しかない宗介さんはさぞ苦しかったことだろう。すぐズレをもどしてあげなくちゃ。私は背中をなでているふりをして、ゆっくりと背骨のズレをもどした。

するとそれまでは、「ハッハッ、ハッハッ」と短くて浅い呼吸だったのが、大きく息を吸い込んで深い呼吸ができるようになった。おかげで咳き込むこともなくなってきた。そうなると、もうここに入院している必要もないので、予定を繰り上げて1週間で退院できた。

ところがその後も宗介さんは、同じようなことが2度ほどつづいた。そして3度目のとき、入院している最中に脳梗塞を起こしてしまったのである。今は全く意識がないという知らせを聞いて、「あの宗介さんが」と思うと胸が詰まった。しかしそんな状態では、さすがに私も何も手出しできない。

宗介さんは意識がもどらないまま、何度か危篤状態になった。だが戦争をくぐり抜けてきただけあって、ふんばりがちがう。危篤になるたびに峠を越してみせた。

それからしばらくして、ちょうど私が彼の家で宗介さんのご家族に施術していると、病院からまた「そろそろ危ない」という連絡が入った。そこで私もいっしょに病院へと向かった。

ご家族のあとにつづいて病室に入ると、まぶたを閉じたままの宗介さんが呼吸器につながれていた。その機械が立てる規則的な音とともに、胸のあたりがわずかに上下している。

彼のベッドのかたわらには、まだどこか学生っぽさの残る若い医師が立っていた。そしてあわててかけつけた家族に向かって、「今晩が山かも知れません」と神妙な面持ちで告げた。それはどこか、テレビドラマの一場面のようだった。

これから宗介さんが亡くなるまで、つきそって見守ることになる。しかしご家族は、何度も医師から同じセリフを聞かされては、その都度、覚悟してみんなで夜通しつきそってきた。

そして夜が明け、彼が体調を持ち直すのを見届けると、うれしさでホッとしながら、それぞれの家路につく。その繰り返しだったのだ。おかげで家族はみんなすでに疲れ切っていた。どの顔も土気色になっている。いつ倒れてもおかしくない。

「みんな、家に帰りましょう」。私がそういうと、「エッ」と驚いた表情で、一斉に私に目を向けた。「そんな非常識な!」と感じたのかも知れない。彼らの目のなかに戸惑いの色が見える。ところが私には、一つの確信があったのだ。(つづく)


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