小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:奇跡

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やっぱり健太くんのような重大疾患の人に施術するのは、私にはあまりにも荷が重すぎたのだ。それがわかっていたから無償で施術してきたのだが、これは健太くんだけではなかった。子育て中なのに膠原病になってしまった女性や、友人の肝硬変のお母さんなど、病院で「治らない」と診断された人たちはすべて無償にしていた。

もちろん、私にそういう人たちをスッキリと治せる力でもあれば、仕事としてお金をもらうことに何の抵抗感もなかっただろう。だからといって、私の施術に全く効果がないかというとそうでもない。ここが判断がむずかしいところなのである。

先日も、患者の崎村さんから、60代後半の早川さんを紹介された。彼女は30年以上も飲食店を経営していたが、数か月前から腰痛がひどくてお店に立てなくなった。医師からも、「もう店を続けるのはムリだ」といわれて悩んでいた。それを見かねた崎村さんは、私なら何とかしてくれるのではないかと考えたようだ。

崎村さんの車に乗せられて早川さんの家に着くと、彼女の表情がとても暗い。60代の女性といえば元気盛りのはずなのに、早川さんには腰の痛みだけでなく、経営のことも合わせて将来の不安がのしかかっているようだった。体の調子が良ければ前向きにもなれるが、肝心の体がいうことを聞かないのでは暗くなるのも仕方がない。

「背中をちょっとさわりますよ」

横になっている早川さんに声をかけてから、背骨を指でなぞってみる。案の定、大きくズレているところがある。これだ。確かにこれだけ背骨がズレていれば、かなり痛いだろう。原因がわかったので、これなら何とかなりそうだ。

いつもの通り、ズレている背骨をそっと正しい位置までもどしてあげた。ヨシ、これならいいだろう。そう思っていると、本人も「あれ、痛くない」といってキョトンとしている。

今まで何をやっても消えることがなかった痛みが突然消えてしまった。しかも一瞬のできごとである。早川さんは起き上がって少し体を動かしてみたが、やっぱり痛みは消えていた。

これが魔法だろうが何だろうが関係ない。痛みが消えた早川さんは、それはもう大喜びだ。そばで見ていた崎村さんも、時計を指差しながら「まだ3秒ぐらいしかたってない!」といって興奮している。

「すぐお店の準備をしなくちゃ!」

早川さんはそういうと、閉めていた店の再開に向けて忙しく動き始めた。これが本来の表情なのだろう。彼女の顔は輝きにあふれていた。

この光景は、はたから見れば奇跡のようだったろう。しかし私としては、ズレていた背骨を本来の位置にもどしただけだ。それは治療と呼べるほどたいそうなものではなく、ちょっとした手作業でしかなかった。それもたった3秒だ。すっかり痛みが消えたとしても、これでお金をもらうのも気が引ける。

今回はたまたまうまくいっただけで、今の私はいつでも同じ結果が出せるわけではない。場合によっては30分、1時間と時間を費やしても、全く効果が出ないこともある。いくら時間をかけようが、効果がなければなおさらお金をもらいにくい。どちらにしたって、人からお金をもらうのはむずかしい。

こんな悩み自体が無意味だと思う人もいるだろう。だが私には、こういった経験が必要なのかもしれなかった。そしてふと、お釈迦様の托鉢(たくはつ)の話を思い出していた。

お釈迦様は村まで出かけ、各家の前で「私の修行に価値ありと認めるならば、余食を与えたまえ」といって托鉢をして歩かれた。しかし一日中、足を棒にしても、一粒の米すら得られない日もあった。それでも「托鉢は修行のためであり、食のためならず」といって、ひたすら修行に専念されたのである。

私がお釈迦様のように悟れるとも思わないが、それでも何かしらの修行を通して、お釈迦様の悟りに1ミリでも近づきたい。無償で施術することだって、少しは修行になるかもしれない。せっかく軌道に乗っていた特殊美術の仕事を捨てて出直したのだから、この仕事はお金もうけだけの手段にしたくなかった。

それなら難病などの重大疾患や、腰痛程度でも全く効果がなかった人、私よりも収入の少ない人には無償で施術させていただこう。交通費などもいただかないと決めた。

そう決めてはみたものの、私に経済的な余裕があるわけではないから、このシステムは負担が大きかった。しかしその分だけ、私の心にいくらかの救いとやる気を起こさせてもくれた。あえてハードルを高くすることで、施術家としての成長だけでなく、人生の目標にも近づける。そんな気がしていたのである。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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015 小説『ザ・民間療法』挿し絵

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ある日、隣の部屋にミシェルという青年が住み始めた。彼は交通事故のせいで下半身付随になったときから、車いすの生活らしい。毎年フランスから一人でやってきて、バカンスの時季の数か月だけオーロビルで過ごすのだという。


ここでは、私も彼も何もやることがないので、日がな一日、二人でとりとめもない話をして過ごした。部屋の前に椅子を出して座り、目の前の草むらをゆっくりとコブラが通り過ぎていくのを、ただだまって眺めていたこともある。

そんなミシェルのところには、同じフランス人のマッサージ師アドンが通ってきていた。アドンは40歳ぐらいのがっちりとした体格の男性だ。彼以外にも、オーロビルには自称、治療家はたくさんいる。彼らはそれぞれの得意技で生計を立てている。アドンもその一人だが、彼はオーロビルでもっとも人気が高いという話だった。

アドンはいつも自転車に乗って、ミシェルのところにやって来る。部屋に入ると、慣れた手付きでミシェルをベッドに仰向けに寝かせ、彼の動かない足を丹念にマッサージする。次に両足を持ち上げて、空中で自転車漕ぎをするように左右の足を交互に動かす。

この一連の動作はなかなかの重労働である。アドンは汗だくになって続けていた。もちろんそんなことをやっても、ミシェルの足が動くようになるわけではない。しかし彼の足は運動神経が麻痺しているだけで、血流は止まっていない。組織だって生きている。その足を強制的に動かしてやることで、足だけでなく全身の血流も良くなるのだろう。

人間の関節というのは、使っていないとあっという間にさびついて動かしにくくなる。アドンはミシェルの足の関節がさびつかないように、力を貸して動かしてあげているのだった。

私は東京で特殊美術の仕事をしていたころ、ミシェルのように下半身が動かない男性を紹介されたことがあった。彼の麻痺した足はどこの病院でも治せなかったが、私がテレビ局の控え室でぎっくり腰を治した話を聞いて、私なら奇跡を起こせるのではないかと思ったらしい。

まさか神様でもあるまいし、麻痺した足を治すことなど私にできるはずがない。それはわかっていたが、無下に断るのもしのびなかった。そこで会うだけ会って、体を見せてもらうことにした。下半身不随とはどういう状態なのか。そこに多少の興味があったことも否定できないが、私は人から頼まれると断れないタチなのだ。きっと根がエエカッコシイなのだろう。

実際に彼の体を見てみると、障害を負った背骨の部分は、圧縮したようにがっちりと固まっていた。伸び縮みするはずの弾性が、完全に消え去っているのである。これを見ただけで、私の力量ではとうてい歯が立たないことはすぐにわかった。治すどころの話ではない。素人の私には、そんな体に触れることすら恐ろしかった。

しかし会った以上、何らかの貢献はしたい。私でなくても、どこかに奇跡を起こせる人がいるのではないかと考えた。彼も今までに何人もの治療家に診てもらったが、ダメだったようだ。そこで私の知っている有名な治療家のところへ、彼を連れて行ってみることにした。

その先生は、総理大臣になる前の竹下登を治療して、職務を果たせるようにしたことで有名だった。ところが彼の自信たっぷりな態度とは裏腹に、何回通っても効果は全く現れなかった。やはり民間療法のレベルでは、麻痺はどうにもならないのだろう。

ところがアドンのマッサージは、そんな奇跡を求める治療とは全くちがっていた。何かを治そうというのではなく、少しでも生活レベルを落とさないための努力だったのだ。そこに派手さはないが、より現実的で確実な治療だといえるだろう。彼の人気が高いのは、私にもわかる気がした。

得てして民間療法では、自分の力量を誇示するために派手なことをして見せようとする。しかしそれは自分のためであって、患者のためではない。だれもがイエス・キリストの奇跡のような結果を期待するが、そんなものは今の世には存在しないのだ。

私がテレビ局で腰痛を治したのだって、あれは決して奇跡なんかではない。今の医学に欠けた部分をわずかに補っただけである。それが奇跡に見えたとしても、そこにはちゃんと理由があるはずだ。そのしくみを知りたい。

あれ以来、ずっと私のなかにこの疑問がモヤモヤとくすぶっていた。この答えさえわかれば、奇跡の正体がつかめるはずだ。そんなことをぼんやりと考えながら、出口も見つからないまま、暑いオーロビルでの暮らしが続いていた。

そしてミシェルは例年通り、ここで3か月ほどのんびりと暮らしたあと、フランスの実家へと帰っていった。別れ際に、「ぜひうちに遊びに来て、しばらく滞在してほしい」と熱心に誘ってくれた。ところが私は、「チャンスがあれば」と気のない返事をしただけで、あえて連絡先も聞かなかった。

実は彼は大金持ちのご子息で、南フランスのお城で暮らしているというのは、あとから聞いた話である。お城での暮らしを見てみたかった気もするが、彼の去ったあとの南インドは、これからさらに暑い季節を迎えるところだった。(つづく)

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