*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
105
 今日は武蔵小杉まで出張だから、渋谷に寄って大和田青果で野菜を買って帰ろう。そんなことを考えながら朝ごはんを食べていると、湯飲みの向こうで電話が鳴った。例の山田先生からである。

先生に高木さんの相談をしたのは、おとといの夕方のことだった。あわてて耳に当てると、「今、ダイジョウブ~?」と、いつもの澄んだ声が聞こえてきた。

先生は、「あの歯肉がんの人のことなんだけどネ」とすぐさま本題に入る。「あのあと弟に連絡したら、勤めてる口腔外科でセカンドオピニオンの段取りをしてくれたの。だからその方に、都合のいい日を聞いといて~」といってくださった。

なんて手際がいいんだろう。ふつうはだれかに頼み事をしたって、山田先生みたいに即座に動いてくれる人なんかめったにいない。つづけて先生は、「この前の話の感じだと、手術しなくてもレーザー治療だけですむかもしれないわヨ」と、うれしいことをいってくれた。

さらに弟さんの話では、高木さんに強引に手術を勧めてきた医師は、あまり評判がよくないみたいだから、その医師の執刀で手術を受けるのはお勧めできないらしい。それならなおのこと、高木さんにはセカンドオピニオンを受けてもらいたい。

私は山田先生にお礼をいってから、すぐ高木さん本人に連絡した。いい話だと思っているから、私の声は弾んでいただろう。ところが電話口の彼は、相変わらず暗いままである。声のトーンはこの前よりも沈んでいるくらいだった。私の話に喜ばないどころか、「いいんだ。このまま手術するんだ」の一点張りである。

「がんじゃないかもしれないのに、そんな・・・」と私がしつこく食い下がっても、全く手応えがない。そのうえ、「今さらセカンドオピニオンなんて、手術の準備を進めてくださっている先生に失礼だから申し訳ない」といって、妙な義理立てまでしている。「その先生は評判がよくないらしいよ」といいたくなったけれど、それはいわずに飲み込んだ。

そもそも病気治療の世界に義理人情は関係ない。ましてセカンドオピニオンを受けることは、患者の当然の権利なのである。それを不快に思う医師がいたら、なおさらそんな人に命を預けてはいけない。

しかし私がどれほど言葉を尽くしても、高木さんはウンとはいわなかった。何をいっても、彼の口からは「イヤ」という拒絶しか返ってこない。論理ではなく、感情のやりとりになってしまっていた。これ以上押してもダメだ。私はあきらめて電話を切った。あとは私よりも付き合いの長い、寺田さんから話してもらおう。

寺田さんに電話して、高木さんにセカンドオピニオンを断られたなりゆきを話すと、「ヨシッそれならオレが」と頼もしげに引き受けてくれた。彼はシラフの状態では少々頼りないが、かといって酒を飲んだら呂律が回らない。それじゃ何をいっているのかわからないかもしれないが、熱意だけは伝わるはずだ。そこにかけてみるしかない。

だが結局のところ、寺田さんからの説得も失敗に終わった。あれだけ友だち思いの彼までが、「ダメだ、ありゃ」といってだまりこんだ。こうなったら仕方がない。ここから先は、他人が踏み込んではいけないのかもしれない。

私は、骨を折ってくださった山田先生にも、状況を説明して平謝りに謝った。先生は「残念ね~ホントに残念ね~」と何度もくり返して、心の底から高木さんのことを心配していた。そして、「何かあったらいつでも連絡してネ」とまでいってくださった。

それにしても、高木さんの「前がん状態」は、そんなに深刻なものなのだろうか。「前がん状態」というからには、まだがんじゃないってことではないのか。今の段階で、本当にそこまでの拡大手術をやる必要があるのか。次から次へと疑問がわいてきて止まらない。

がんだというからには、何かしら体に変化があるはずなのだ。ところが寺田さんの事務所で高木さんの体を調べたときだって、彼の状態は1年前とそれほど変わってはいなかった。

がん患者なら、みんな左の起立筋が異様に盛り上がっているものなのに、それが高木さんには全く見られなかった。私には、何よりもこの点に違和感があった。しかも患部の下あご周辺に、それらしいリンパの腫れすらない。彼の体には、がんの兆候が全然ないのである。

ひょっとすると歯肉がんは、他のがんとは異常の出方がちがうのだろうか。それは今はわからない。どっちにしたって、もう彼は手術すると決めてしまったのだ。手術したことで生活の質が著しく低下したとしても、差し当たって死ぬことはないのだろう。そう思うことで、私は心の整理をした。

しかし、人の心とはなんと不可解なものなのだろう。これまで体だけを対象に施術を積み重ねてきた私にとって、心のしくみは体以上に複雑なものに感じられるのだった。(つづく)

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング