小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:抗がん剤

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
小説『ザ・民間療法』挿し絵063

芳子さんが肺がんで亡くなってからというもの、私は何をするにも力が入らなくなっていた。施術には出かけるが、消化試合をこなしているような感覚に陥っていた。

そして来る日も来る日も頭に浮かぶのは、「芳子さんはなぜあんなに早く亡くなってしまったのか」とそればかりだった。

いくら肺がんとはいえ、入院するまでは健康な人と何も変わりがなかったのだ。それがたった1か月で亡くなるなんて、どうにも納得がいかない。抗がん剤治療が始まった途端、みるみる状態が悪化していって、モルヒネを使うほどの激痛までが芳子さんを襲っていた。

がんの最後が激痛だという話はよく聞くから、みな、がんにだけはなりたくないと思っている。ところが芳子さんに痛みが出たのは、入院して治療が始まってからのことだったのだ。

あの激しい痛みは、ほんとうにがんのせいなのか。タイミングから見れば、抗がん剤のせいではないのか。ひょっとして、あのとき病院で検査など受けていなければ、今ごろまだ生きていたのではないか。そんな思いに取りつかれていた。

それにしても、1か月で亡くなってしまうほど末期の肺がんに、私はなぜ気づいてあげられなかったのだろう。私のやってきたことは何だったのか。答えの出ない疑問ばかりが、頭のなかでグルグルと回りつづける。

明かりもなく、どこにつづくのかもわからないトンネルのなかを、トボトボと歩いているようだった。これはある種の停滞期なのか、ここからひたすら落ちていくのか。何もわからず、ただ疲れ切っていた。

そんなとき、しばらくぶりに近野さんから電話があった。私に患者さんをたくさん紹介してくれる、あの看護師の近野さんだ。今回も、ぜひ診てもらいたい同僚がいるのだという。

近野さんと同じ看護師の森本さんは、まだ28歳なのにいつも体調がすぐれないらしい。生理が来るたびに、毎回それはもう激しい痛みで苦しんでいる。そんなとき近野さんから私の話を聞いて、診てもらいたくなったようだ。

私の施術は、腰やひざの痛みの原因になっている背骨のズレをもどす作業がメインである。だが背骨がズレていると、生理痛がひどくなることも多いようだ。確かに、背骨の矯正をしたら生理痛がなくなった人はいる。だからといって、ズレさえもどせば必ず良くなるのかというと、その保証はない。

あまり気乗りはしないものの、近野さんの紹介では断れない。「過度に効果を期待しないように」とお伝えした上で、試しに一度森本さんの様子を見せてもらうことにした。

施術の予約の日、森本さんのアパートをたずねると、小柄の快活そうな女性が出迎えてくれた。体調が悪いと不愛想な人が多いので、これだけでも少しホッとする。

うちより広くてスッキリと整えられた、アパートの奥の部屋に通される。本棚には、私にもなじみの解剖学や看護学の本が並んでいて、これまた親近感が増す。もうすでに布団が敷いてあって、施術を受ける態勢が整っているのもありがたい。

初めに体の状態や病歴の有無などを聞いてから、まずはうつ伏せに寝てもらう。すると彼女の背中に目が止まった。声には出さないが、「オヤッ」と思うほど、背骨の左側にある筋肉が、腰の上のあたりで大きく盛り上がっているのである。

あの芳子さんの背中にも、これと同じ盛り上がりがあった。それも同じ左側だ。芳子さんの場合は、森本さんよりも数段盛り上がりが大きくて、こぶのようになっていた。だから、これは何だろうと思いながら、いつも施術していたのである。

本人にとっては、このこぶは痛くも何ともない。生活に何の支障もないから、芳子さんも森本さんも、そこが盛り上がっていることすら気づいていなかった。

その盛り上がりの部分に軽く触れてみると、右側に比べてやけに硬い。右とでは全く感触がちがって、押すと私の指を跳ね返すような硬さをしている。これも芳子さんのときと全く同じだ。

筋肉というのは、力を入れれば硬くなるが、力を抜いたらソフトになるのがふつうである。力を抜いても硬いままなのは、きっと体にとっては異常なことだろう。そこで、その筋肉をほぐすように軽く刺激を加えてみた。

しかしビクともしない。これも芳子さんといっしょだ。それなら、何としてもこの硬さを取ってあげたい。私は指を当てる角度を変えながら、刺激をくり返した。

もちろん、強い力で刺激するのは危険なので、チョンチョンと指を当てていくだけである。そんなことを10分ほどもつづけただろうか。突然、森本さんが「イタイ、イタイ、イタイ~ッ」と叫び始めた。

夢中で刺激をつづけていた私は、その声におどろいて体に電気が走った。そして全身から一気に血の気が引いた。あわてて手を引っ込めたが、私は何も痛がられるようなことはしていないはずだ。彼女の体に、一体何が起きたのだろう。(つづく)


*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング
    このエントリーをはてなブックマークに追加

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
062
私が学生のころ、池袋の怪しいエリアに文芸坐という映画館があった。たしか当時の学割で、3本立てが100円で見られたと思う。

私は子供の時分から映画が好きで、学校帰りに近所の映画館に通っていた。東京に出てきてからも、お金もないのに映画館にだけはよく行った。映画館をはしごして、月に100本以上見ていた時期もある。

その日は黒澤明監督作品が3本100円で見られるとあって、いつもより混み合っていた。席がないので通路に立ったまま見たなかの1本が、あの名作「生きる」だったのだ。

そこでは志村喬演じる主人公が末期のがんだと宣告されたあと、公園のブランコに揺られながら、「い~のち~みじ~かし~」と「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが印象に残っている。

ところがあの映画を見たころは、がんという病気の生々しい現実など全くわかっていなかったのだ。末期の肺がんで治療中の芳子さんが、日々おそいかかる激痛にのたうち回り、助けを求める姿は心が引きちぎられるような光景でもあった。

あまりの痛みにモルヒネまで処方されるようになっても、私には何も手助けできない。それでも病室にだけは顔を出していた。行きも帰りも足取りは重い。気が晴れる瞬間もないまま、来る日も来る日も通いつづけた。

そんなある日、病室に入って芳子さんの顔を見ると、ふしぎな感覚におそわれた。どこかおなかの深いところから、何かがこみ上げてくるのだ。それを感動などという言葉では表現できない。ただ、今生で芳子さんと出会えて良かったという、強い喜びにも似た感情が体全体を満たしていた。

芳子さんの目を見ると、今、私と全く同じ感覚に包まれているのがわかる。そのせいで、芳子さんはがんの苦しみも忘れ、私を見つめて「うれしい、うれしい!」といいながら大粒の涙をこぼしている。

ベッドのかたわらにいた家族には状況がわからないので、「おばあちゃん、いきなりなに泣いてるの。薬のせいでボケたのかしら」とつぶやいていた。私も涙があふれそうになったので、芳子さんに向かって少しうなずいてから、そっと病室を出た。

芳子さんが亡くなったのは、それから数日後のことである。お葬式では、他の参列者はだれ一人として泣いていなかった。それなのに、私だけ涙があとからあとからあふれてくる。

その涙のわけは、単に芳子さんとの別れのつらさからではなかった。人をあやめてしまった犯人は、被害者を手にかけたときの感触が、その手にいつまでも残り、罪の意識にさいなまれつづけるのだという。その慚愧(ざんき)の情にも似ているだろうか。

もともと美術家である私は、対象を視覚や触覚で覚える訓練をしている。その記憶は、時間がたってもなかなか消えることがない。患者さんの名前は忘れてしまっても、施術したときの体の状態は私の手のなかに刻みこまれていて、決して忘れることができないのだ。

今、芳子さんの肉体はこの世にはなくても、その形や感触は私の手のなかでいつでも再現できる。これから先、私はこの記憶をどうしたらよいのだろう。

この仕事を始めてからというもの、患者さんを治せたときの手の感触は、喜びとなって私に跳ね返ってきていた。しかし今残っているのは無力感だけだ。

私が必死になって習ってきた整体も、気功も、占いも、これはと思って始めたことは、ただの身過ぎ世過ぎの手段にしかならなかったのか。もうこんな仕事なんかやめちゃおうか。私には、もうこの仕事をつづけていく目的も、気力もなくなってしまった。

だがこの世を去る前の芳子さんと共有した、あのふしぎな感覚は何だったのか。その記憶だけが私をこの仕事につなぎとめ、どこかへ導いてくれているようだった。(つづく)

    このエントリーをはてなブックマークに追加

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
061
毎月のように施術していた芳子さんが肺がんになったと聞いて、私は動揺していた。

ちょっと前までは、患者ががんだとわかると家族には伝えるが、本人にはいわないことになっていた。がんだと告知してしまうと、あまりのショックで自殺する人までいたからだという。

ある有名なお寺の大僧正は悟りを開いているから、この人になら告知してもいいだろうと思われた。そこで正直にがんだと伝えたら、半狂乱になって自殺してしまったという話を聞いたこともある。

あるとき、父の姉である伯母が胃がんになった。見つかったときにはかなり進行していたので、余命いくばくもない。それを聞いて、父はまだ学生だった私を連れて最後の見舞いに行った。

病室に入る前の父は、いつになくきびしい顔をして、「いいか、絶対にがんだと悟られないようにするんだぞ」と私にいった。だから父は伯母の前では当たり障りのない世間話をし、私も東京での学生生活の話なんかをした。

そしていよいよ病室を出る際、父は「それじゃまた来るね」というと、伯母に向かって深々とおじぎをした。父にしてみれば、これが姉の顔の見納めだとでも思ってのことだろう。だがその姿からは、これが最期のお別れだという気持ちがバレバレだった。

最近はがんも治ることがあるらしいが、あのころはまだがんは不治の病で、助かる見込みなど全くなかった。そのため、がんの告知は死の宣告に等しかったのである。

しかし私ががんなら、絶対に告知してほしい。自分の体のことを自分が知らないほうがおかしいと思う。終わりが近いとわかれば、身のまわりのモノも処分できるし、借りがあればきちんと返して、自分の人生の後始末ができる。会いたい人にも会いに行ける。

だが医学が進歩したとはいえ、芳子さんはがんのなかでも特に難しいタイプの肺がんらしい。彼女はこのまま死んでしまうのだろうか。あれこれ思い悩んでいると、以前習いに行っていた気功の先生のことを思い出した。

そうだ。あのナカバヤシ先生なら、「気」の力でがんも治せると聞いていた。そこで早速先生に会いに行って、芳子さんを治療してもらえないかと頼んでみた。すると快く応じてくださったのである。

ところが芳子さんの肺には水が溜まっていることを話すと、「そりゃダメだ」といって急に素っ気なくなってしまった。あわてて理由をたずねると、水は「気」を通してくれないから、がんを叩こうとしても、水があるうちは治療にならないというのだ。

そんなことは初めて聞いた。習いに来ていたころには、そんな話はしていなかった。そもそも人間の体は半分以上が水でできている。その水が邪魔するというのなら、気功なんて意味がないじゃないか。口には出さないが、そんな反問を頭のなかでくり返した。

すると少しの沈黙のあと、先生は「肺の水がなくなったらやりましょう」といった。肺の水がなくなる?それは肺からがんが消えたらということなのか。もう返す言葉も見つからない私は、時間をとっていただいたことにお礼をいって、先生の家をあとにした。

気功の達人として有名なナカバヤシ先生になら、芳子さんを助けてもらえると思っていたのに、希望の灯が消えてしまった。これからどうしたらいいのだろう。

抗がん剤治療が始まった途端、あれほど元気だった芳子さんから笑顔が消えた。足までパンパンにむくんで、見るからに完全な重病人の姿になり、日に日に弱っていく。そして病室を訪れた私に向かって、「先生、助けて」と泣きながら訴えるのだ。

しかし私には彼女を救う力などない。何もしてあげられないのである。私はただ芳子さんの手を握り、不用意に涙が落ちてしまわないよう、天井で白白と光る蛍光灯を見つめているしかなかった。(つづく)


*応援クリックもよろしくお願いいたします!
にほんブログ村 小説ブログ 実験小説へ
にほんブログ村

長編小説ランキング

FC2ブログランキング
    このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ