小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:整体

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162
前に釣りに来たのはいつだったかな。冬の間は休みを取れなかったから、もう半年ぶりだろうか。今日はせっかく晴れているのに、風が強いせいで糸がからんでばかりだ。

からんだ釣り糸ってのは、どうしてこうもほどきにくいんだろう。ただでさえ釣れないときに、糸までからむとガッカリする。

ここで根気のある人なら、からんだ糸を丹念にほどいていくのだろう。でも元来イラチな私はすぐにキーッとなって、糸がからんだ部分をまるごと切ってつないでしまう。

どうせヨリをもどしたって、一度からんだ糸はクセがついているから、次からはもっとからみやすくなる。だから私のやり方は、あながちまちがっているわけでもない。

からむのは柔らかい釣り糸だけじゃない。金属製の硬い針金だって、からむときにはからむのだ。妙な形でからんでくる針金を見ると、「おまえはタチの悪い酒飲みかヨ」といいたくなる。

実は人間の体にも、釣り糸みたいにヨレてからむ力が働いている。そんなこと、世の中の人は全く知らないはずだ。その点、先日、来院した安野さんは例外だった。

「変な話なんですけど、私、トイレで用を足しているときに、なぜか上半身が右手側に回転しちゃうんです。これってどうしてなんでしょう」

そういうと、彼女は恥ずかしそうにうつむいて、目をパチパチさせた。

安野さんはまだ20代なのに、病院で大腸がんだと診断されていた。彼女の話では、がんだと診断される前から、体が右に回るようになっていたらしい。

がんの診断を受けたころには、それがますますひどくなっていたので、がんと何か関係があるのではないかと考えたのだ。こういう風に、客観的に自分の体を観察できる人は案外少ない。

私の患者さんのなかにも、上体が右手側に回ることに気づいた人が何人かいた。彼らはみな共通して、左の脊柱起立筋が異様なほど緊張していた。

だれでも上半身を右に回そうとすれば、左の起立筋が緊張する。これは人類共通のノーマルなしくみである。ところが安野さんみたいに、自分が回そうと思ってもいないのに、勝手に左の起立筋が緊張して、上体が右に回ってしまう人がいる。これは「アシンメトリー現象」の一つの特徴なのである。

また、「アシンメトリー現象」では、左の肩が前のほうに巻き込んでいく。すると上体はいよいよ右手側に回りこむ形になる。

私は、自分の体を右に回してみせながら、説明をつづけた。

「だれでも多少のアシンメトリー現象はありますし、睡眠不足や疲れが溜まっているときには、その度合いが強くなるんですよ」

「あ、それわかります! 私も体調の悪いときほど、上半身がグイッと右に回っていたんです!」

安野さんは、これまで一人で抱えてきた疑問や不安の原因がわかって、ちょっと興奮気味にそういった。「アシンメトリー現象」のことを知ったおかげで、ちょっとだけ不安が解消されたようだ。

「アシンメトリー現象」は、体が左右非対称になる現象だけれど、より厳密にいうなら、体が片側にねじれていくことで、左右非対称に見える現象である。

つまり平面で見れば「アシンメトリー現象」だが、立体的に見れば、動きを伴ってねじれていく「ねじれ現象」なのである。

「アシンメトリー現象」と呼ぶにしろ「ねじれ現象」と呼ぶにしろ、この左右の非対称性は、初めから人間の体に組み込まれているしくみらしい。その証拠に、大なり小なりだれにでもこの現象が見られるので、無意識のうちに、私たちのごく身近な生活にも影響しているのだ。

たとえば陸上競技場は、全て左回りに走るように設計されている。なぜそうなったかについては諸説あるが、どれも決定的ではない。

実は「アシンメトリー現象」の場合、骨盤の左側が上体方向に上がっている。これは仰向けになれば、左脚が右脚よりも短くなった状態だ。

この状態で立ち上がると、重心が左側に偏るので、体は左に傾く。左に傾いた人は右回りには走りにくいから、左回りのコースのほうが走りやすい。

実際、「アシンメトリー現象」の人の割合は非常に多いので、トラックは左回りになっていると考えることもできる。

他にも、右回りか左回りかは、利き足の影響で決まったという説もある。しかし利き足を決定する大本の要因ですら、そもそも「アシンメトリー現象」の影響が大きいのではなかろうか。

安野さんの背骨のズレを矯正しながら、そんな話をした。彼女はまだ若い自分がどうしてがんになったのか。その答えを探していたので、こういう話にも人一倍興味があるらしかった。

熱心に耳を傾けてくれる彼女と話していたら、ふとこんなことを思いついた。

ヨリのついた釣り糸は、古くなったりちょっと傷がついたりすると、よけいにからみやすくなる。これは人間も同じなのかもしれない。逆に、人間の体にはもともとヨリがかかっている分、釣り糸よりもからみやすいのではないか。

もちろん人の体は、釣り糸みたいにヨレたところでプツンと切ってつなげるわけにはいかない。あくまでも根気よく、丹念にヨリをもどしていくのが大切なのである。(つづく)

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155
渋谷駅のホームに駆け上がると、電車は今出たばかりだった。まあいい。山手線は間隔が短いから、すぐ次が来る。焦る必要はない。

ホームに立って息を整えていると、線路の向こうに貼ってあるポスターに目が止まった。そうか。上野の博物館でナスカ展が開催中なのか。テレビもないし、新聞も取ってないから知らなかった。

ポスターのすみには、つぼ型の土器の写真が載っている。赤茶色のつぼの表面は、レリーフ状の人の形になっていて、その顔を見た瞬間、私は息が止まった。

「こ、この顔ってもしや?」

鼻筋が極端に左に折れ曲がり、口角も左側が上がっている。それはもう、ものの見事に、「アシンメトリー現象」が表現されているのである。

これは適当にイメージして造ったものではない。明らかに、モデルの顔に似せて造られたのだ。そうでなければ、ここまで特徴をつかんだ似顔絵みたいな表現にはならない。それが私にはわかる。

当時、でき上がったばかりのこのつぼを見せられた人たちは、「おい、アイツにソックリじゃないか!」といって大笑いしたにちがいない。

それにしても二千年も前のつぼに、「アシンメトリー現象」が表現されているとはおどろきだ。以前、岡本太郎が縄文時代の火焔土器を見て、「あの時代にオレの作品をマネしたヤツがいる」といった話を思い出す。

地球の真裏の南米ペルーで、しかも大昔のナスカの時代に、私と同じ発見をした人がいたのだろうか。そう思うと感慨深い。これはぜひとも上野に行って、この陶工と語り合わねばならぬ。

翌日、勢い込んで上野の博物館に出かけた。だが平日にもかかわらず、館内は人でごった返している。これはどういうことだ。そんなにナスカは人気なのか。

「上野の人混みはアメ横だけでたくさんだッ」

声には出さずにブツブツ文句をいいながら、大勢の人をかき分けて前に進む。すると会場の中ほどに、お目当てのつぼが鎮座して私を待っていた。

このつぼはポスターに載るほどだから、今回の展示ではスター格である。そのはずなのに、みなチラッと一瞥しただけでサッサと通り過ぎていく。これ幸いと、私はすかさずつぼの真ん前に陣取って、じっくりと観察させてもらうことにした。

やはりつぼの実物を見ても、私がポスターを見て感じたことはまちがっていなかった。この顔は、陶工の技術不足のせいで、たまたまゆがんでしまったわけではない。彼は意図的に、顔の形を変形させているのである。これは私にとっては大発見だ。

つぼの前で考え込んでいると、次第に私の周りに人だかりができ始めた。さっきまでは私一人だったのに、今ではみなが「私の」つぼをしげしげと見つめている。

「アァうっとうしい。アメ横にでも行きやがれッ」

もちろん口には出さない。でも、私のところで流れが滞留するのも迷惑だろう。気を取り直して他の展示も見ることにした。

あのつぼから離れてみると、なんと他にも顔を変形させたつぼがある。それらもみな、鼻を左に曲げてあるではないか。これも同じ人をモデルにしたのだろうか。

展示ケースの脇にある小さな説明書きを読むと、それぞれの制作された時期は、全く別の時代だった。つまり鼻を左に曲げた表現は、時代を超えているのである。これまた大発見ではないか。

それじゃナスカでは何世代にもわたって、鼻が左に曲がった人がたくさんいたのだろうか。ひょっとしたら彼の地では、鼻は左に曲がっているのが当たり前だったのかもしれない。うーむ、ますますおもしろい。

さらに他の展示物を見ていくと、私の足が一点の頭蓋骨の前で止まった。これはトロフィーだ。トロフィーというのは、戦で敵の首を切り落としてミイラにしたものだ。ミイラとはいっても、もうほとんど骨だけの状態になっている。

その頭蓋骨は、あのコペルニクスやうちの骨格標本のジェームスくん同様、左半分が変形していた。これは決定打である。やっぱり古代ナスカには、「アシンメトリー現象」の顔をもつ人がいたのだ。

逆に、どっちを向いても「アシンメトリー現象」の人だらけだった可能性もある。だからこそ、当たり前のようにつぼにだってそのまま表現されているのだろう。

ナスカといえば、地上絵で有名なミステリーゾーンである。そこに新たなミステリーが加わったのだ。ひょっとしたらこれは、人類学的にも大発見かもしれない。

「アシンメトリー現象」はいつから人類に現れたのか。この問いの答えに向かって、これでまた一歩近づけた気がした。(つづく)

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153
「センセ~、これ読む~?」

そういって、患者さんが科学雑誌を置いていってくれた。休み時間にパラパラめくっていると、天文学者のコペルニクスの顔が載っていた。

「エッこれって!?」私はその顔に目が釘付けになった。

彼の生きた16世紀にはカメラなどない。だからこれはコペルニクス本人を撮った写真ではない。そこにあったのは、彼の遺骨から復元された、精巧なイラストだったのだ。

骨から復元といえば法医学だろうが、ふつうに暮らしていたら法医学などとは縁がない。もっぱら海外のドラマで見るだけだ。

身元不明の遺骨が発見されると、さっそうと現れた法医学者が、その骨から生前の顔を復元し、死因や凶器まで特定して殺人事件を見事解決!そんなシーンがおなじみだ。今の法医学の技術は、それほど正確なのだろうか。

もちろん私には、このコペルニクスの復元イラストが正確かどうかはわからない。私がおどろいたのは、彼の顔に「アシンメトリー現象」の特徴が、はっきりと現れていたからだ。

彼の左目は明らかに右よりも小さい。しかも左目の眼球が上がって、上目づかいになっている点まで再現されている。細い鼻筋は大きく左に曲がり、口角も左が上がっている。

それだけではない。頭の骨だけで復元したはずなのに、彼の左肩は見事に右よりも上がっているのである。「アシンメトリー現象」の説明画像としては、ほぼ満点の出来栄えだ。

それにしても、頭の骨だけから、どうしてここまで完璧に「アシンメトリー現象」の特徴を復元できるのだろう。私は、元になった頭の骨と、復元された顔をじっくりと見比べてみた。すると次第にそのしくみが見えてきた。

コペルニクスの頭の骨は、左半分が若干つぶれたように変形している。そして目、鼻、口の部分の変形が、それぞれ「アシンメトリー現象」の特徴になっているようだ。

「フーン、なるほどね。骨がこういう風に変形すると、顔の形がこうなるのか。おもしろいじゃないか」

クルリとイスを回した私は、部屋のすみに吊ってある、骨格標本のジェームスくんに目が行った。

彼は身長180センチほどで、若いドイツ人だったようだ。うちに来たときからジェームスくんと呼んでいるけれど、ドイツから来たならヤーコプくんとかにするべきだったのかもしれない。

それはさておき、私は前から、彼の骨格が左右で非対称なのが気になっていた。でも、ヒトの骨の形なんてじっくり見たことがなかったから、「こんなものか」と思いこんでいたのだ。

ところが彼の骨は、コペルニクスの遺骨と同じように変形している。そうなると、生前のジェームスくんも、左目が小さくて鼻が左に折れ曲がり、左の口角が上がっていたのだろうか。

それだけではない。彼の背骨の一つ一つが、24個すべて非対称な形をしているのだ。私はこれが最も気になる点だった。ひょっとしたらこの変形は、「アシンメトリー現象」の最大の特徴である、左の脊柱起立筋が盛り上がっていたことの証明なのかもしれない。

少なくとも、本来であれば対称に使われるはずの背中の筋肉に、左右で片寄りがあったことはまちがいない。ここまで骨が変形していたら、ジェームスくんの体には、子どものころから「アシンメトリー現象」があったのではないか。

彼の骨は太くて立派なのに、なぜ若くして亡くなってしまったのだろう。同じ特徴をもつコペルニクスは70歳まで生きたというのに、この2人の寿命のちがいは一体何だろう。

コペルニクスには、いつからこれほどの「アシンメトリー現象」が現れるようになったのか。その原因は何だったのか。私のなかで、次から次へと新たな疑問が湧き上がってくるのだった。(つづく)

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152
あれは私がちょうど中学に入ったころ、父方の祖父が亡くなった。葬式は、祖父が生前信仰していた、大本教の様式で行われることになっていた。彼は若い時分に岐阜から北海道に渡った人だが、そのころから信仰していたのだろうか。

大本教と聞いても、私はもちろん親戚一同だれもよく知らなかった。でも本人の希望なのだから仕方がない。大人しくみなそれに従った。

ところがいざ始まってみると、仏式のいつものやり方とはちがって、辛気くささが全くないのである。おかげで葬式だというのに、みな妙に明るい雰囲気に満たされていた。

「さすが、じいさんの判断はちがうな」
「いいな、こういうのも」

ボソボソとみなが口々にほめているうちに、とりあえず一通りの儀式がすんだ。次は棺に横たわる祖父に向かって、一人ずつ最後のお別れをいう。それも終わると、棺は静かに隣の部屋へと運ばれていった。

棺を見送った私たちは、反対側の別室に向かってゾロゾロと移動し始めた。そこで食事をしながら、火葬が終わるのを待つのである。列のいちばん最後にいた私が、ふと人の気配を感じて振り向くと、脇にある職員用の出入口のドアが開いた。

そこから作業着姿の職員が入ってきて、慣れた手つきで備品を片付け始める。ガラーンとして静まり返った会場で、私は彼らのテキパキとした作業ぶりに見入っていた。

作業を終えた職員たちが、一人また一人、道具を抱えてドアの向こうへと消えていく。私は一瞬、そのなかの一人と目が合った。職員のなかではいちばん年配らしいその男性は、表情も変えずに私をチョイチョイと手招きした。

なんだろう。近づいていくと、彼は背中でドアを支え、向こうの部屋へと私を招き入れた。そこは火葬場のバックヤードになっていた。壁には小さなのぞき窓が3つ並んでいる。

そのうちの一つに向かって、彼はクイッとあごを上げた。「のぞいてみろ」というのだろう。私は恐る恐る近づいて、小窓をのぞいた。そこには、先ほど納めた祖父の棺が、勢いよく燃えているのが見えた。

ゴーッともヒューッともいえるぶきみな音を立てて、赤々と燃える炎。その中心にはひときわ濃く赤く、祖父のシルエットが浮かび上がっていた。

私は息を呑んだ。ふつうなら衝撃的な光景だろう。しかし私の目には、そこで人が焼かれているようには見えなかった。人が燃えるのも、ストーブのなかで薪が燃えるのも大差ない。そんなごく自然なことに思われた。

決して恐ろしくはない。むしろ美しくさえあった。言葉にはならない威厳すら感じられて、じっと見つめている間に、どれくらい時間がたっただろう。

「長居しすぎたかもしれない」

そう思い始めた私は、だまって彼に頭を下げると、親戚たちがいる別室へと向かった。結局、私も彼も、一言も言葉を交わすことはなかった。

今見てきた光景は、親戚のだれにもいわないでいよう。酒が入って和気あいあいとした雰囲気をこわしたくない。何よりも、これは私と祖父だけの、神聖な秘密にしておきたかったのかもしれない。

それから3時間近くが過ぎたころ、ようやく火葬が終わったようだ。職員の一人がドアから顔を出し、喪主である伯父に向かって少し頭を下げた。伯父は立ち上がると、酒が入って上機嫌の親戚たちに向かって、一言二言あいさつした。

伯父が何をいったのかは覚えていないけれど、親戚たちは重い腰を上げ、またゾロゾロと先ほどの会場へと戻っていく。

全員そろったところで、先ほどのあの年配の職員が無表情のまま、祖父を乗せた台をガラガラと引っ張って現れた。

その台の上には、ちょっと前までは死に装束の祖父が乗っていたのだ。それが今は、砂浜に打ち上げられたサンゴみたいに、真っ白い骨になって横たわっている。

その姿は、俗世の全てを真っ赤な炎で焼き尽くした、いかにも清浄なものとして私の目に映った。このときからだろうか。私が骨に対して、特別な思い入れをもつようになったのは。

あれから30年以上が過ぎた。私の治療院には、等身大のヒトの骨格標本がつり下げられている。若いドイツ人の骨を型取りしたもので、非常に精巧に造られていて感心する。

私は彼の姿を、芸術作品のごとく日々鑑賞して暮らしている。どれだけ眺めていても飽きることがない。どんな天才芸術家でも、これほどの作品をゼロから生み出すことなどできないだろう。私はそこに、神の存在を強く感じるのである。(つづく)

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148
この前、ムサビの会田先生が、彫刻科の学生から作品の批評を頼まれた。先生は彫刻とは全く関係ないから、その学生は専門外の人のすなおな目で見た感想を聞きたかったのだろう。

ところが先生は彼の作品を見るなり、「アレ?」と首をかしげた。そして、「確か起立筋は左側が盛り上がると聞いてたけど、この作品は逆になっているナ。こりゃ変じゃないのか」といったのだ。

学生にしてみたら、まさか民俗学の教授から、そんな専門的な指摘を受けるとは思ってもいなかっただろう。彼は目を白黒させて、何やらブツブツいっていたらしい。そんな話を会田先生がちょっと自慢げに聞かせてくれたので、私もつい笑ってしまった。

だが実は私にも、この学生と似たような体験があったのを思い出した。

あれはまだ高校生のころのことである。美術部で油絵を描いていた私は、たまたま近所の医院の山本先生に、最近描いたばかりの人物画を見せた。すると先生は、「ここの筋肉のつき方はちがってるナ。これじゃまともに立ってられないゾ」といったのだ。

そのあとも、「こっちの筋肉もダメだ。あっちの筋肉もダメだ」としつこいぐらいに、解剖学的な批評をつづけたので、私もいい加減、閉口した。

絵の批評というのは、色使いとか構図がどうとか、絵画としての良し悪しに限られるのがふつうである。それを医学的な視点だけで評価されては、絵画としては身も蓋もない。そんな批評に耐えられる美術作品など、そうめったにあるものではないし、解剖学的に正しい絵が、作品として優れているかは全く別の問題だ。

「こちとら、解剖図を描いてるわけじゃないんだ」

そんな啖呵でも切りたいところだったが、日ごろ家族がお世話になっている先生なので、私はだまってお説を拝聴していた。

しかしあれから20年以上が過ぎ、多くの人の体に日々接するようになってみると、あのころとは人体に対する見方が大きく変わった。いつのまにか私も、山本先生寄りの見方になっているのである。

そのせいで、美術作品の人体像を見るたびに、やたらと違和感がある。あのロダンの彫刻でさえ、あのときの山本先生そのままに、「ここの筋肉はつき方がおかしい」と、頭の中でつぶやいている。もう私は昔みたいに、純粋に美術作品として鑑賞できなくなってしまったのだ。

美術作品だけじゃない。街を歩いても、道行く人の体の異常にばかり目が行ってしまう。テレビに美人女優が出ていても、彼女の顔や体が左右非対称なのを見ると、体がどこか悪いのではないかと心配になってくる。

これではせっかく出された料理を味わいもせずに、成分やカロリーだけを気にする無粋なヤツみたいじゃないか。ところがちょっと前から、私よりももっと無粋な研究が話題になっている。

フランスかどこかの医者が、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の顔に、イボが描かれているのを見つけた。これは高脂血症の人によく見られる眼瞼黄色腫だから、「モナ・リザ」のモデルだった女性も、高脂血症だったと発表したのである。

この発表は、瞬く間に世界中の美術関係者の知るところとなり、ニュースや書籍にでも取り上げられた。

だがこれは、写真とリアルに描かれた絵とを混同した、素人によくあるかんちがいなのである。こんな話をダ・ヴィンチが聞いたら、「オレの絵にナニ、イチャモンつけてるんだ!これほど美しく描いたのに、イボなんか描き込むわけがないだろ!」と憤慨するはずだ。

ダ・ヴィンチでなくても、美人の顔にわざわざイボを描き入れるような悪趣味の絵描きなどいない。まして当時の肖像画は、貴族や金持ちからの依頼で描くものだ。シミ・シワ・ほくろといった、クライアントの心象を悪くするような余計なモノを描くわけがない。

ではあれは何だったのか。絵描きならすぐにわかる。この作品は500年以上前に描かれたものなので、油絵の具のちょっとした経年変化か、修復の過程で付着した異物がイボに見えているに過ぎないのだ。

しかしこの「モナ・リザ」の高脂血症の話は、よほどセンセーショナルだったのか、今ではもう事実として浸透してしまった。専門家がだれも本気で訂正しないものだから、きっとこのまま後世に語り継がれることになるのだろう。

だが私には、あんなあるかないかわからんレベルのイボなんぞよりも、「モナ・リザ」の顔が左右非対称になっていることのほうがよっぽど気になる。

こんなことをいうのは、さらに無粋の極みなのは承知である。それでも私は、「モナ・リザの左目が小さいのも、左の口角が上がっているのも、あれはみんなアシンメトリー現象の特徴なんだああぁぁ~ッ!」と、穴の中へでも叫びたい気がするほどなのである。(つづく)

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