小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:整体学校

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114
「やんだタマゲたな~。急にナニいうだぁ~♪」

私の頭のなかで、オヨネーズの名曲「麦畑」が鳴り響いている。整体学校の大外先生から、出し抜けに「師匠、私を一番弟子にしてください」といわれた私は、いきなりプロポーズされた女性みたいにタマゲてしまった。

大外先生は、この整体学校で私が初めて教わった先生である。業界でのキャリアも長いプロ中のプロだから、どう見たって私のほうが弟子なのだ。そんな人から師匠などと呼ばれたら、何とも居心地が悪い。「まあ、師匠だ弟子だなんて堅苦しいことはいわずに、一緒に研究してくださいヨ」といって落ち着いた。

それにしても、私の発見した現象が特別なことだと即座に理解してくれたのが、大外先生のスゴイところである。

私はこれまでどれだけ多くの人たちに、この現象のことを伝えてきただろうか。そのなかには医学界の権威といわれている人もいた。ところがいっしょうけんめい伝えても、実際に自分の目で確かめてくれる人は少ない。それを確認した人からも全く反応がない。何も見なかったかのように、ふしぎなほど無反応なのである。

私は、この現象の存在が一般的に知られるようになれば、多くの人の役に立つと確信している。だからこそ必死に訴えてきたのだが、この重要性が全く伝わらない。逆に、私が何か売り込もうとしていると勘違いして、あからさまに不快感を示す人までいた。

そんなお寒い状況のなか、格下の私ごときの弟子になってでも、このことを知りたい、極めたいといってくれた人は大外先生が初めてだった。これに感激しないわけがない。

ひょっとして、これまではたまたまハズレくじばかり引いてきただけで、世のなかには、まだまだ当たりくじがひそんでいるのだろうか。にわかに希望の灯がともって、期待で胸がふくらむ。

私がまたしても妄想に没入していると、大外先生はそばにいる生徒の一人に目をやった。先生が「ヤマガタくん、どうした?」と声をかけると、「ちょっと腰が」といって、彼は腰をかがめてつらそうにしている。それを見た大外先生は、私に向かって「師匠、お願いしますッ」といって頭を下げた。

山形くんは1年ほど前に交通事故に遭って以来、腰痛に悩まされているそうだ。こうやって整体の学校に通っているのも、半分は自分の腰痛治療が目的らしい。

これまた私には普及のチャンスである。再度、教室のみんなに集まってもらうと、腰痛の原因になっている「背骨のズレ」についての説明を始めた。

この「背骨のズレ」も、脊柱起立筋の左側の盛り上がりと同じく、人体にとって重大な現象なのである。背骨がズレること自体は、民間療法の世界では大昔からだれでも知っている。しかし「背骨は左にしかズレない」ことは、まだだれにも知られていないのだ。

起立筋と背骨に現れるこの2つの現象は、私は大発見だと思っている。ところが、それぞれが別個の現象でも、「左」というキーワードが共通しているせいで、どうも混同されやすいのが悩みのタネだった。

起立筋の左側が異常に盛り上がっていることは、がんなどの重大疾患に関係している。一方、背骨が左へズレると、これは腰痛の原因となる。この2つをごっちゃにすると、「背骨がズレると、腰痛からがんにいたるまで万病の元になる」という、いかにも眉唾な話になってしまう。

しかし一般的には、そういう単純な説明のほうが伝わりやすい。しかもインパクトが強くて受けがいい。だが、それではこの現象の重大性や信憑性が、完全にぼやけてしまうのだ。

私は科学としての信憑性を重視したいので、できるだけ分けて説明してきた。それでもやっぱり最後にはいっしょくたにされる。金太郎と桃太郎の物語をつづけて聞いたら、聞いた人の頭のなかでは、金太郎がまさかりで鬼退治した話になってしまうようだ。

この2つの現象でもっとも重要なのは、そこに規則性がある点だ。規則性がある現象の発見は、科学の最大のテーマのはずである。科学から遠い世界の美術家だった私にも、それは常識だった。だから科学の分野の人たちには、特にこの規則性の部分を強調して説明してきたのだ。

ところが私の説明では、どうもピンと来てくれる人がいない。あるときなど、知り合いの医師に私が発見した規則性の話をしたら、かなり真剣に耳を傾けてくれた。理解してくれたのかと思ってさらに熱を入れて説明したら、最後の最後になって「ヘー、東洋医学ではそういう考え方もあるんだ」といわれてしまった。

あのときはさすがにガックリ来た。自分が学校で習った医学の教科書には出ていなかったから、科学の外の話として処理したかったのだろう。新しい現象の話は、聞く人の頭に引き出しがないと伝わらないというが、その引き出しを作ってもらうには、一体どうしたらいいのだろう。(つづく)
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113
がん患者には、左側の脊柱起立筋が異常なほど固く緊張している人が多い。起立筋だけではなく、左半身の知覚はことごとく鈍くなっている。そんな状態では、どんなに力を入れてもんでも叩いても、ビクともしないのである。

ところがある特定の神経をねらって、指で軽く刺激しつづけていると、突然、知覚が変化する。昔はテレビが映らなくなったら、横からポンポンと叩くと急に映りだすことがあった。電気の接触不良が、外からの軽い刺激で直ったのだろうか。私の手技も、原理としてはそれに似ている。

しかしこの刺激は、相手によっては全く通用しないこともあった。まだまだ私の技術は完成していないのである。だが、だれも知らなかった現象なのだから、これから改善していけばいい。そのためにも、この技を整体学校で紹介する機会があってよかった。

ここまで体験モデルをやってくれた加納先生にお礼をいうと、今度は私の体を使って、大外先生にもこの刺激をやってみてもらうことにした。

私はこの手技を神経刺激と呼んでいる。神経刺激のやり方は、筋肉と筋肉の間に親指の先を軽く当てていくだけだ。やることはかんたんでも、刺激するポイントを見つけるのがちょっとむずかしい。そのねらい方を一通り説明する。

説明が終わると、周りで見ていた人たちも、それぞれがペアになってチャレンジし始めた。するといきなり受け手の人たちから、「ギャーッ、ヒィ~~ッ」という悲鳴が上がり始めた。軽く触れるだけで十分だといったのに、みな「これでもかっ」というほど強い力でグイグイ押している。それでは単に相手の体を痛めつけているだけだ。

実はこの業界は体力自慢の人ばかりで、いろいろな格闘技を身に着けている人も多い。なかにはプロの格闘家までいる。彼らは相手の体を治すよりも、破壊することに長けている。しかも相手が痛がれば痛がるほど、エキサイトしてしまう傾向があるのだ。

そんな人たち相手に、今日の教え方では非常にまずかった。これが職人の世界なら、弟子は親方の技を見て盗むものだ。手取り足取り教えられたからといって、それで習得できるものではない。しかしわれわれは体を扱うのだから、もっと事前に注意すべきだった。

職人といえば、特殊美術の仕事でディズニーランドのスプラッシュ・マウンテン用の岩壁を造ったことがあった。鉄筋と金網で大まかな造形をし、その上からモルタルで仕上げて岩壁風にするのだ。

そのモルタル仕上げのために、私は大勢の左官職人に集まってもらった。ところが彼らは、モルタルでキチッと真っ平に仕上げる技はあっても、不定形は苦手だ。ゴツゴツした岩のように仕上げた経験がない。それどころか、そういう雑な仕事は、職人としてやりたがらないのである。これには困った。

一方、アメリカの本家ディズニーランドでは、モルタルで岩を作る作業がちゃんとマニュアル化されている。だから職人としての経験などなくても、素人でもできる。それを聞いた私は、急いで美術系の人を集めて何とかオープンに間に合わせた。

それなら私が編み出したこの手技だって、しっかりとマニュアル化すれば素人でもできるようになるはずだ。それが完成すれば、プロに施術してもらわなくても、家族や友人同士で事足りるようになる。

そもそも自分の体のメンテナンスは、自分や家族の手でできるようになるのが理想だろう。それこそが民間療法の本質ではなかろうか。そう思いついたら、なんだかこれから進むべき道が見えてきたようでうれしくなった。

そんな未来を妄想してウットリしていたら、「師匠!」とだれかが私の耳元で叫んだ。おどろいて振り向くと、そこには目をキラキラさせた大外先生が立っていた。そして「私を一番弟子にしてくだサイッ」といったのだった。(つづく)

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112
沖縄から帰った私は、久しぶりに池袋の整体学校に行ってみた。さわやかな潮風でリフレッシュしたばかりの私には、この場末感が漂う雑居ビルのたたずまいが、ある意味とても新鮮だ。

ギギギィーッと建付けの悪いドアを開けると、そこには大外先生をはじめ、いつものメンバーがそろっていた。室内は相変わらず雑然としている。この色気のなさが妙に落ち着く。とっ散らかった実家の居間に似た安心感があるのだ。

沖縄みやげの「ちんすこう」を差し出すと、みなワッと集まってきて食べ始めた。大外先生はすばやく2個目を口に放り込むと、私のほうに向き直って「で、最近どうヨ?」と聞いてきた。私がしばらくぶりに顔を出したからには、何か新しい情報があると気づいているのだ。

そこで、がん患者たちの体で発見した、例の現象について話し始めた。がん患者はみな脊柱起立筋の左側だけが異様に盛り上がっていて、体の感覚も左側だけひどく鈍くなっていることだ。

それだけではない。私が新しく開発した手技で刺激すると、その起立筋の盛り上がりが消える。しまいには、がんまで消えてしまったという話なのである。

こんな話はだれにでもいえることではない。私には何人ものがんが消えた実感があったが、まだこれには科学的な裏づけがない。ましてがん患者さんを相手にこんなことをいって、妙な期待をさせてもいけない。だからこの話を人に聞いてもらう機会はあまりなかった。

もちろんお医者さんにだけは、これまで何人にもこの話をしてきた。ところがなぜこんな現象が起こるのか、だれもはっきりとは説明してくれない。それどころかせっかくの大発見なのに、この異常な現象に興味をもってくれる人さえいなかったのだ。

しかし整体の先生なら、毎日大勢の人の体に直接手で触れているから、感覚的には理解しやすいはずだ。大外先生ならわかってくれるかもしれない。そう期待しながら、この発見について熱を込めて話した。

ふと気づくと、整体の練習をしていた生徒たちが寄ってきて、私の話を興味深げに聞いている。これは理解者を増やすチャンスだから、具体例を見てもらったほうがいいかもしれない。

見回すと、大外先生の後ろでまだちんすこうをモグモグしている加納先生と目が合った。ちょうどいい。彼も大外先生と同じでこの学校の指導員だ。生徒から施術を受けることには慣れているので、彼に体を貸してもらおう。

ちんすこうの恩があるから、加納先生も「ノー」とはいえない。早速うつ伏せになってもらうと、これまた都合がよいことに、彼の起立筋はしっかりと左側だけが盛り上がっていた。

「ホラ、これですよ、これ」と私が指差すと、大外先生が業界人っぽい口調で、「加納ちゃ~ん、やっちまったな~」といって、彼ががんだと決めつけた。いきなりのことで、加納先生がおびえた目をして私を見上げた。

あわてて、「イヤ、左の起立筋が盛り上がっているからって、それだけでがんがあるわけじゃないですよ」と説明しても、時すでに遅しだった。もうみなの思い込みはゆらがない。私はますます焦ったが、これがこの話の怖いところなのである。

「がん」という言葉をつかうと、その響きが独り歩きして、聞いた人の意識の深いところに入ってしまうのだ。案の定、加納先生も突然がんの宣告を受けたみたいに不安がっている。だが今日は仕方がない。「がんじゃないですよ。大丈夫ですよ」とくり返しながら、私は説明をつづけた。

まずは、見ている人たちにもわかるように、彼の左右の起立筋を私が親指で左右同時に押してみせる。やはり加納先生は、右よりも左の起立筋のほうが、感覚が鈍くなっている。

しかしうつ伏せになっているから、彼には私が何をやっているかは見えない。左側は、私の押す力が弱いのだと感じているようだった。だが横で見ている人たちには、同じぐらいの力だとわかる。

この左右の感覚のちがいを確認したところで、いよいよ私が開発した例の手技で刺激を加えてみせる。肩や背中など何か所かの特定の神経をねらって、親指でリズミカルに刺激していくのだ。

その様子を見た人から、ギターか何かを弾いているみたいだといわれたことがあった。たしかに親指をバチに見立てれば、三味線を弾いている姿に似ているかもしれない。

そうやってベンベンベ~ンと弾いていると、まもなく彼の体が変化してきた。その感触の変化が私の指先に伝わってくる。それと同時に「イタ、イタ、イタタ~ッ」と彼は声を上げて体をよじり始めた。

やはりがんがある人に比べると、刺激に対する反応が出るのがすこぶる早い。これなら加納先生の体に大した問題はなさそうだ。

この刺激は、指先で軽く触れる程度のものでしかない。彼が痛がり始める前と後とで、力の加減は変えていない。それなのにこのあまりの変化の激しさに、大外先生やまわりの人たちもえらくおどろいている。

次に、あえて人差し指だけで体中をあちこちツンツンと軽く突いてみせる。すると、ツンと突くごとに加納先生が「イタッ」と身をよじる。ツンと突くと「イタッ」、ツンと突くと「イタタッ」の連続だ。

これを見ていた大外先生が、横から手を出して私と同じように突いてみる。やっぱり同じように加納先生が痛がる。それに釣られてまわりの人たちも、珍しいおもちゃでも見つけたように一斉につつき始めた。

日ごろからいじられ役の加納先生には災難だったが、この刺激は体にとってはいいはずだから、きっと今晩はよく眠れるだろう。そうこうするうちに、あれだけ盛り上がっていた彼の左の起立筋は、もうかなりへこんできたのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵040
整体の仕事を出張専門で開業した私は、紹介のおかげで予約がたくさん入るようになった。これなら仕事としてつづけられそうで、まずは一安心である。ところが整体と銘打っている以上、整体を提供しなくてはならない。これが予想以上につらかった。

「整体師は白衣を着たドカタだ」と自嘲気味にいう人もいたが、実際にやってみると、予想以上に体力が必要だった。まして出張専門なのだから、店舗で座ってお客さんを待つ間に休憩するようなわけにもいかない。施術が終わったら、すぐに次の場所へ移動しなくてはならないのだ。

東京近郊限定とはいえ、今は車などもっていない私は、もっぱら電車やバスを乗り継いで移動する。これは上り下りする階段の数だけでも相当なものだった。予約がたくさん入るのはありがたいが、インド帰りで栄養失調から回復しきっていない私には、1日に何人も施術できるものではなかった。

施術中にエネルギーが切れて、絶望的に眠くなることも多かった。ほめられた話ではないが、そんなときは例の気功の技で眠ってもらう。相手がいびきをかき始めた瞬間を見計らって、私もちょっとだけ寝ることで、その場をしのいだ。

この短時間で熟睡するテクニックは、特殊美術の仕事のころに会得したものである。単なる美術作品の制作とちがって、テレビ局相手の仕事ではどうしても徹夜がつづく。車の運転中に、はげしい眠気に襲われることもたびたびあった。

そういうときは、信号が赤になったら、すかさずハンドルに突っ伏して寝てしまう。信号が青になると、後ろの車が必ずクラクションを鳴らして起こしてくれる。それを合図にパッと起きて、また次の赤信号まで車を走らせるのだ。こうやって一瞬でも熟睡できれば、かなり寝た気がするものだった。もちろんこんなことはおすすめできない。

さすがにあのころほど眠くはないが、整体をつづけることには、体力的な限界があるのを自覚するようになった。そこで私の施術は、以前使っていた、軽い力で背骨のズレをもどす技へとシフトし始めた。

体力的な問題だけではない。人から教わったことを繰り返すより、オリジナルな技を作り上げたい気持ちもあった。オリジナルに向かうのは、美術家の性癖かもしれない。だがこのやり方のほうが、具体的な症状がある人には有効なようだった。そうなると、施術のおもしろみもちがってくる。

私の習った整体では、技の組み立てがルーティンで、だれに対しても同じ施術になる。それでは特定の症状に積極的にアプローチできないし、時間も同じだけかかってしまうのだ。

最小の力で、短時間でおさまる最も効率のよい方法を見つけたい。そんな療法が開発できれば、ひょっとして新しい治療体系、ひいては全く新しい医学体系までできるかもしれない。

これはあながち無謀な夢物語でもない。以前、特殊美術の仕事のころ、テレビ局でスタッフの腰痛を劇的に治せたのだから、あれが再現できればいいのではないか。あのやり方は、私にとっては美術の延長だった。


たとえば特殊美術では、キティちゃんのような平面のイラストをもとにして、立体のキャラクターを作ることがある。その際、まずは中心線に沿って左右対称な形を作らなくてはならない。

平面から立体を作るとなると、補わなくてはいけない情報が多すぎて、相当な難題なのである。試行錯誤の結果、やっとできあがった立体物も、それがちゃんと左右対称になっているかは、目で見ただけではわからない。必ず両手で触って確かめる。そうすることで、かなりの精度で仕上げられるのだ。

この技術をそのまま人の体に応用すれば、体の中心軸となる背骨がまっすぐでないところや、骨の位置の左右のちがいがはっきりとわかる。症状があるところは、体の形がいびつになっているようなので、左右のちがいさえ確認できれば、あとはゆっくりと、背骨をまっすぐにしたり、骨を左右対称な位置にもどせばいいだけだ。

この作業なら、ルーティンな整体の技とちがって、ほぼ指先だけしか使わない。だから体力を消耗しないですむ。体力が乏しい私向きだし、年をとってもつづけられるだろう。そして何よりも大切なことだが、このやり方だと、患者さんからもたいへん好評なのだった。(つづく)


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039
整体の学校を卒業した私は、いよいよプロの整体師として開業することにした。とはいっても、ちゃんと場所を構えて看板を上げるようなゆとりなどない。

不動産バブルは崩壊していたが、それでも東京都内の路面店となれば、べらぼうに家賃が高いのである。ここで店舗を借りようと思えば、礼金や保証金、前家賃だけで家賃の半年分以上は必要だ。最低限の安アパートを借りるだけで四苦八苦していた私に、それほどの大金を捻出できるはずもなかった。

しかも自営の整体での開業では、経営が安定するのは相当先になるだろう。そうでなくても1990年代の整体といえば、性風俗の隠れ蓑的な怪しいイメージが強かった。そんな商売に部屋を貸すとなると、大家さんとしては不安になる。不動産屋だってあまり斡旋したがらないから、審査も通りにくい。そういう時代だった。

仮にそれらの障害を乗り越えて店舗を借りられたとしても、客商売なら設備だってそれなりに揃えなくてはならない。するとますます出費がかさむ。そればかりか、どんな一等地に立派な店舗を構えたって、そこに肝心のお客さんが来てくれるかどうかは、全く別問題なのである。

どんな商売でも予想外のことが起きるものだ。開業時には半年分ぐらいの運転資金がなければ、あっという間に立ち行かなくなってしまう。開店早々、経営に行き詰まり、借金を背負って閉店する可能性も大きい。

そこで考えた。
やっぱりいきなり店を構えるのはやめよう。まずは出張専門でやってみるのだ。出張で相手の家まで行って施術するだけなら、店舗を借りなくてもいい。設備を揃える必要もない。携帯電話さえあれば開業できるじゃないか。そう決めたら、問題が一つクリアできた。

次の問題は、お客さんをどうやって集めるかだ。
昔ならチラシでも配るのだろうか。だが店舗がない以上、配布エリアが絞れない。すると範囲が広くなって、その分費用も格段に大きくなる。もちろんそのチラシの反響があるかもわからない。そんなことでは心もとないから、チラシもダメだ。

ここでふとひらめいた。それなら紹介制にしよう。
最初は知り合いに施術してまわり、その人たちから新規のお客さんを紹介していただくのだ。これがうまくいけば、路面店につきものだといわれる、タチの悪いお客を相手にすることもないし、「みかじめ料を出せ」などと脅されることもない。

逆にお客さんの立場でも、いきなり路面店に飛び込んで施術を受けるよりも、知り合いの紹介のほうが安心だろう。私のウデが悪ければ紹介されることもないから、よりフェアな関係になれる。これでまた一つ不安が減った。

あとは施術料金をいくらにするか。これも悩みどころである。
これまでは、練習台になってもらう名目で無料で施術してきた。次からはお金をいただくとなると、少しばかり気まずい。だが有料でなければプロではない。気まずいからといってあまり安くしては続けられないし、高すぎてもいけない。

出張整体の相場なんかあるのだろうか。考えてみてもわからないので、よほど遠方でなければ、交通費込みで8000円に決めた。

そうと決まったら、残るのは宣伝だ。
紹介制なのだから、知り合いに名刺を配ればいいだろう。名前と携帯電話の番号と「1回8千円」と入れて、奮発して3千枚も印刷した。これが開業のときの唯一の投資となった。

まずは挨拶がてら、一通り名刺を配って歩く。30枚も配り終えたあたりから、少しずつ予約が入り出した。最初の予約は開業へのご祝儀みたいなものだろう。全くもってありがたいことである。

そうやって知り合いからの予約が一巡するころには、今度は見ず知らずの人からも紹介で予約が入るようになった。保険の営業と同じで、営業先が身内だけでは先細りになるのは目に見えているから、これはまずまずの滑り出しだ。

ところが順調に私の手帳が予約で埋まり出したら、なぜだか「あっちが痛い」「こっちが痛い」「実は〇〇病で」という人からの予約が増えてきた。整体でリラックスしてもらえたらイイかな、くらいに軽く考えていた私には、ちょっと意外だった。

そもそも整体をはじめとする民間療法では、「治療」という言葉は使えない。「治療する」とか「治す」という表現は、医師法で守られた医師だけが使えるものなのだ。

まして何か具体的な症状を「治します」なんて、絶対にいえない立場なのに、効果を期待されても困る。整体の学校でもそこまでは教わっていない。

たしかに病院で治らない病気は山ほどあるようだし、民間療法に期待する人が多いのもわかる。それを逆手にとって、難しい病気を「治す」と評判のカリスマ治療家がいることも知っている。

彼らはテレビに出演し、それぞれの得意技をオーバーアクションでやってみせる。なかには患者の関節からバキバキッとすごい音を鳴らして、観客の度肝を抜く人もたくさんいた。

そういうスゴイことをやった分だけ、効果も大きいと思う人も多いようだが、私にはあんなことは恐ろしくてできないし、やりたくもない。

実は整体のような民間療法のプロなら、必ず傷害保険に加入している。施術によって患者の体に何か不具合が生じたら、それを保険で補償するのである。

ところが私が加入している保険では、あの関節をバキバキいわせるアジャストと呼ばれる手技には保険が下りない。アジャストは血管を傷つけたり、骨が欠けることもよくある危険な行為なので、やれば事故が起きて当たり前。そんな手技は最初から補償の対象外なのだ。

そもそもアジャストで何かが治るわけでもないので、かっこよく見えても手を出すべきではない。人体には、できるだけ大きな力や衝撃を与えないようにするのが安全だ。

私も素人のときには思いもしなかったが、プロになって経験と知識が増えてくると、人の体に触れること自体が怖くなってきた。安全第一という思いは、日を重ねるごとにさらに強くなっていく。

今では名医と評判の外科医も、初めての執刀前夜には、自分の不手際で患者が死ぬかもしれないと考えると、不安で寝つけなかったらしい。そこで思わず、「ナムアミダブツ」と手を合わせて祈ったのだという。

信仰心などなくても、自分が人の生死の鍵を握っているとなれば、そういう心境になって当然だ。そしていつしか私も、神に祈るような気持ちで、人の体に立ち向かっていくことになるのだった。(つづく)


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