小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:整体学校

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 038
友人たちに、最近占いの勉強をしているというと、みんなキラッと目が光り、「見て見て!」とせがんでくる。整体なんかよりも、占いに興味がある人が多いようである。そこで頼まれるまま、あちこちで運勢を占ってあげていた。そんな話が伝わったのか、昔の友人から占いの原稿の依頼まで舞い込んだ。

聞けば、携帯電話の音声サービスの一つとして、占いのコーナーを新設するから、そのための原稿を書いてほしいらしい。ちょうど例の危ないバイトも辞めて、収入源が途絶えていたところだったので、これ幸いと引き受けた。

しかし占いについては、ちょっと気になることがあった。
実はお釈迦様の説話のなかに、「幸せに生きるには星を占ってはならない。また占ってもらってもならない」という教えがあるからだ。

宇宙の真理からすれば、占いなど、してもされてもイケナイのである。これは実体験としても理解できるできごとがあった。

あれは私の父が50の誕生日を過ぎたときのことだった。父はだれにいうともなく、ボソッと「アイツ、はずれやがった」と呟いた。

何のことかと思って聞くと、ずっと若い時分に、占い師から「アンタ、50まで生きないよ」といわれていたらしい。それから数十年もの間、その言葉がずっと気になっていたのだ。

無事に50歳を迎えた父は「ザマァミロ」と勝ち誇ってはいたが、占い師のたった一言が、それだけ長い間、重しとなって心にのしかかっていたのである。その心情を思うと哀れだった。やっぱり占いはおそろしいものだ。全くもってお釈迦様のおっしゃる通りである。

しかしすでに原稿書きの仕事は引き受けてしまった。それまでの成り行き上、断るわけにもいかない。どうしようかとよくよく考えた末、占いとしては当たり障りのないことを書くことにした。ちまたの占いだって、どうにでも受け取れるようなことしかいわないものだ。だから問題ないだろう。

私は知恵を絞り、占いの辞書のようなものを駆使して、なんとか原稿を仕上げて届けた。そして数日たったころ、スタジオでその原稿の音声収録があるから来ないかと誘われた。

うちの近くだったので出かけていくと、録音ブースで女性アナウンサーが、私の原稿を読み上げているところだった。

ヘタな絵でも、高い額縁に入れると格段に見栄えがよくなるものだ。私の文章だって、プロが流暢に朗読すると、もっともらしく聞こえてくる。お釈迦様の教えのことなんか忘れて、気分よく聞き入っていたら、一通りの収録が終わった。

休憩に入ったところで、私を見つけたディレクターが「ちょっと本人の声でも録ってみよう」といって、私を録音ブースに呼び入れた。

こりゃ休憩時間のお遊びだナと思ったので、調子にのった私は、マイクに向かってアナウンサーっぽく原稿を読んでみせた。するとヘッドフォンから私の声を聞いていた彼は、「よし、これでいこう!」と決めた。

「え、マジですか!?」
あわててみてももう遅い。ディレクターがいうことは「絶対」なのである。おかげで、始まったばかりの携帯電話の占いサービスでは、私の声が流れるハメになってしまった。

よほど慣れた人でないと、録音した自分の声なんぞ聞けたものではない。私も絶対に聞きたくない。ところがその後の利用者アンケートでは、私の占いコーナーがサービス全体の2位になっていた。

かなりの人気だったということだから、これはいよいよ整体よりも占いのほうがウケがよさそうだ。それならこのまま占い師にでもなろうか。そんな考えがチラリとよぎる。

だが待てよ。やはりお釈迦様の教えに背いて生きるわけにはいかない。当初の目的通り、占いはあくまでも、相手の「気」の変化を調べるときだけにしておこう。そう心に決めた。

そんなこんなでとりあえずのところ、少々うさん臭めではあるが、整体(+気功+占い)のプロになる準備は整った。あとは整体の学校を卒業してから、実地で経験を積めばいいだろう。そうと決まったら、早く卒業してしまおう。

この学校では、各自が自主練習に励んで、それ相応の自信がついたら、自分で卒業時期を決められる。だが卒業の前に、例の「回天の生き残り」の小嵐会長を試験台にして、整体の技術を披露しなければいけない。

会長は生徒の技を受けながら、要所要所に鋭いチェックを入れる。これはいわば、教官を乗せて走る路上教習みたいなものなのだ。

回天とまではいわないまでも、会長は歴戦のツワモノである。そんな人を相手に、一度や二度の挑戦で即座に合格できるものではない。早く卒業したいと思うあまり、私も少なからず緊張していた。

そこでつい、整体技をかけながら、少しずつ「気」を入れてみた。するとどうだろう。小嵐会長の体から、潮が引くように緊張が消えた。そして徐々にいびきをかき始めたのである。

「勝った!」

この瞬間、私の整体学校の卒業が決まったのだった。(つづく)


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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 033
さあ今日から気功の修行が始まる。私はいくつか電車を乗り継いで、ナカバヤシ先生の自宅がある埼玉県の郊外まで出かけていった。

ナカバヤシ先生は痩せ型の50代ぐらいで、ちょっと見は中国人の風貌をしている。弟子はとらないと聞いていたが、今日はほかにも習いに来ている人がいて少しホッとした。

みんなで初対面のあいさつをすませると、すぐに先生は気功の説明に入った。そのなかで、先生は気功のほかに意念という技も使えると聞いてワクワクしてきた。

気功では、自分や相手の「気」を操作して武術や治療に応用する。「気」は一種の物理的なエネルギーだが、意念となるといわゆるサイキック的なエネルギーなのである。

そのため「気」は距離が離れると弱くなるのに対して、意念なら距離とは関係なく、どこまでもパワーを飛ばせるのだという。どちらも、自分のなかでどれぐらい明確にビジュアルがイメージできるかがポイントらしい。

「では試しに」といいながら、先生はそばにいた練習生の一人をうつ伏せにならせる。すると彼の左脚は右よりも短くなっていた。それをみんなで確認したあと、先生は手も触れずに、「気」の力だけで両脚の長さをそろえてみせた。まわりでは「へーー」と感嘆の声が上がる。

次に先生は、向こうの机の上にあった白い紙を持ってきた。そして私に、なんでもいいから隣の部屋で文字を書いて、外から見えないように紙を丸めて持ってきなさいといった。

私はいわれた通り、紙に適当な文字を書きこんでからクシャクシャに丸めて手渡した。もちろん私が何を書いたかは、先生にはわからないはずだ。それなのに、先生は紙に書かれた文字を、次々に正確に言い当てたのである。

そんなことができるわけがない。なんだかだまされているような気がする。しかしここで使われた意念とは、紙を広げるのではなく、丸められた紙のなかに入っていって、そこに書かれた文字を読み取ってくる力のことなのだ。

さすがにすぐには信じられなかったが、以前にも似たような体験があったのを思い出した。ある霊能者と呼ばれる人から、私がイメージした映像を事細かに言い当てられたのである。あれも意念だったのかもしれない。

やはり「気」や意念とは、意識のなかでビジュアル化した世界なのだろう。それが腑に落ちたおかげで、なんとなく概要がつかめた気がする。

ここまで来ると、もう実技の練習に入った。
まずは椅子に座って両手を前に出す。その両手の平でボールを持つような形を作る。そのボールを持ったまま、腹式呼吸をしながら、ボールのところに「気」を溜めていく。これを20分ほどくり返すのである。

やってみたらわかるが、20分は長い。ずっと腹式呼吸をくり返していると、それだけで何か自分のなかで感覚が変わっていくのがわかる。

次に、その溜まった「気」を、自分の体のすみずみにまで巡らせる。すると実際に「気」が体を巡っているのが体感できた。「気」というのは本当に存在していたのだ。

そこまでできたら、今度は溜まった「気」をほかの練習生と飛ばし合うことになった。2~3メートル離れたところに立って、お互いに「気」のやりとりをするのである。

「気」を出すときは、目線で「気」の通り道を決めてから相手に渡す。逆に、「気」を受けるときは、側頭部あたりのある一点に集中して感じとるように意識する。こうやって「気」を出す、受けるをくり返していると、はっきりと「気」のパワーを感じられるようになった。

しばらくこの練習を続けたあと、今度はバトルが始まった。「気」のパワーで相手を倒すバトルである。

気功では、自分の「気」だけでなく、相手が出した「気」も自分のパワーとして使うことができる。だから、相手の「気」を上体に集めて重心を上にしておいて、こちらから出した「気」で足元を払うのだ。

これがうまくいけば相手が倒れる。しかし、相手も負けじと私の「気」を逆手にとって攻撃してくる。力が拮抗していると、なかなか勝負がつかない。そこがまたおもしろくて熱が入る。

実感として、バラエティ番組で呼んだ気功師の動きが理解できた。これは太極拳の動作にも似ているだろうか。『ドラゴンボール』のカメハメ波だという人もいた。確かにマンガの世界のようだが、それでもしばらく真剣にバトルを続けていると、少しずつコツがつかめてきた。

試しに相手の足元をすくい上げるようにひねりの力を加えておいて、こちらから強い「気」を上体に向かってぶつけてみた。すると相手がヨロッと倒れそうになった。

「お、効いた!」

どうも私には気功の才能があるのかもしれない。そう思うとうれしくなって、どんどん深みにはまっていくのだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 032
整体の学校に1か月も通うと、技も少しずつ使えるようにはなってきた。しかし整体そのものの実体が、私には今いちナゾのままである。

自分なりにいろいろ調べてみたが、整体にはそれほど古い歴史があるわけではなさそうだ。19世紀末にアメリカで開発された手技療法のカイロプラクティックを、日本で改良したものが整体の元になっているらしい。

本家のカイロプラクティックは骨格の矯正を主眼としているから、整体も骨格矯正がポイントなのだろう。

もちろん「我こそは」と主張する猛者が居並ぶ世界なので、整体の起源にだって諸説ある。なかでもこの学校では、整体を漢方医学の一つだと位置づけられていた。

漢方医学では、病気は生命エネルギーである「気」が滞った状態だと考える。そのため、滞った「気」を整体で正常にすると、体の不調が改善するらしい。なるほど単純な話である。

しかしここでまた疑問がわいてきた。そもそも「気」とはなんだろうか。「気」がどこで滞っているのか、どうやって判断するのだろう。滞っている「気」は、施術者には見えているのだろうか。

この学校の中心的存在である大外先生に聞いてみたが、よくわからないらしい。ただ、整体技をルーティンで一通りやれば、大まかには「気」が流れるという話だった。

そういえば私がテレビ番組の美術さんだったころ、あるバラエティ番組に、中国で本格的に修行した気功師を呼んだことがある。彼は「気」のパワーだけで、スタジオのお笑い芸人たちを次々にひっくり返して見せた。

彼らが転がるタイミングを見ていると、とても演技だとは思えない。日ごろの芸風からは、あの絶妙な転がり方はありえなかった。あれを見た人なら、だれでも気功のパワーは本物だと思ったはずだ。

もし本当に「気」という生命エネルギーがあるものなら、自分も気功をモノにしたい。そうすれば漢方医学の深淵にも触れることができるかもしれない。

そんなことを大外先生に相談すると、この学校の修了生で、気功治療をやっているナカバヤシ先生の話を教えてくれた。ナカバヤシ先生はかつて中国で本格的に気功を学んでおり、あの番組に出ていた気功師とも同門なのだという。

気功といっても、通常の武術として使う「気」は一種類だけだが、治療で使う「気」には種類がいくつもあって、それを病態ごとに使い分ける必要がある。そこまでマスターしているナカバヤシ先生は、整体と気功治療のプロとして活躍しているらしい。

しかもナカバヤシ先生は、病院では不治だといわれた難病だって「気」のパワーで治しているのだという。そんな話まで聞くと、ぜひともその先生から気功を学んでみたくなった。

ところが先生は、今は弟子をとるつもりはないらしい。だがそれを聞いたぐらいであきらめる私ではない。「そこをなんとか・・・」と、インド仕込みの強烈なねばりを駆使して頼み込む。そうやって大外先生経由でも何往復ものやりとりがつづいたあと、ようやく弟子入りが許された。

これで平日は池袋の整体学校へ通い、日曜だけは気功を習うことになったのである。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る
029
やっと住むところも決まったことだし、私は意気揚々と池袋の整体の学校に通い始めた。

40になったばかりの私など、かなり若い部類である。生徒の大半は中高年で、退職や定年を機に新たな技術を身につけ、人生の再出発を目指している人が多い。その分、みな真剣に技術を学びとろうとしている。なかには地方からわざわざ習いに来ている人までいた。

教室の壁には、第1期からの修了者たちの集合写真が貼ってある。毎期5~10人ほどで、トータルでは千人近くの修了者がいるようだから、なかなか歴史があるのだろう。

学校の創始者である小嵐会長は70そこそこのはずだが、「ワシは回天の生き残りじゃ」が口癖だった。回天といえば太平洋戦争の特攻艇の名称だから、どうも世代がちがう。整体を全国に広めた功労者だと聞いていたので、その信憑性すら薄らぐ気もする。でも、そのうさん臭いところがまたおもしろい。


ここでは決められた手技を、生徒同士が練習台となって行う。手技を一通り全部やると20分ほどかかる。それが終わると攻守交替して練習を続けるのである。

一口に整体といっても、押しや揉みだけでなく、ストレッチ的なもの、さらに関節に勢いよくひねりを加えて、音を鳴らすアジャストと呼ばれる技もある。


そういえばオーロビルには、韓国系デンマーク人の女性治療家がいた。栄養失調でやせこけている私から見たら彼女はかなり立派な体格で、流暢な英語を話していたので、こちらでの暮らしも長いようだった。

彼女は治療のとき、妙な節回しの歌を口ずさみながら、ランバダダンスのように腰をくねくねさせて踊る。そして歌が終わると同時に、うつ伏せに寝ている患者の上にまたがって、両手で勢いよく背中をグイッと押す。するとバキバキバキッとすごい音が室内に鳴り響くのだ。

私はこわくて受けたことはないが、この一連のパフォーマンスを彼女はピッチピチの衣装を着てやるので、オーロビルの男性たちにはファンが多かった。


今思えば、あのとき彼女が使っていたのも整体技の一種だったのかもしれない。日本のバラエティ番組でも、オーバーアクションで人気の治療家が大勢出演していた時期があったから、ああいうのがウケるのだろう。

しかしここでは、そんなハデな手技はほとんどない。いたって地味な作業の連続である。整体師というのは、白衣を着た土方だという人がいるのも納得できる。確かにこれは治療というより肉体労働に近い。練習しているだけでも、かなり体力が必要なのだ。


それでも整体を一日中受けていれば、体の調子が良くなると思うかもしれない。ところがその手技をやっているのは素人なのである。力の加減も不安定だから、突然強い力が加わらないか心配で、体は常に緊張を強いられる。

逆に力が弱くても、指先に迷いがあると、体のあちこちをモゾモゾと動くだけで、痴漢にでもあっているようだった。なかには手のひらにやたらと汗をかく人もいる。体質だから仕方ないのだが、そんな人の練習台になると、着ている服が汗でじっとり湿るので、これまた気持ちが悪い。

これが先生方となるとさすがに力加減が絶妙で、技を受けていて全く不快感がない。それどころか、教わっているのを忘れてついリラックスしてしまう。これはイイ。そこで私も早速、習った技を友人たちに披露してみるのだが、あまり評判がよろしくない。受けた感触としては、悪くもないが良くもないといったところらしい。

技そのものは単純なのに何がちがうのだろう。私にはそのちがいがよくわからない。これでは整体でプロを名乗るのは、まだまだ先のことになりそうだ。(つづく)


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