小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:日本人

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小説『ザ・民間療法』挿し絵010

私が暮らすオーロビルには、チベットから来た人も何人か住んでいた。彼らはダライ・ラマ法王に従って亡命し、インドの各地で暮らしているのである。ご近所さんとして彼らと親しく接してみると、チベット人は見た目だけでなく、メンタリティまで日本人とよく似ているようだった。ひょっとすると、中国や韓国の人よりも近い存在ではないかとすら思う。

そのチベット人たちから、モモというチベット餃子のパーティに誘われたことがある。モモだけでなく、そこで出されたチベット料理は、限りなく日本への郷愁を誘うなつかしい味だった。異国の地でやせ細っていた私にとって、彼らの親切は心だけでなく、胃袋にも深く沁み入るものだった。

そんなやさしいチベット人の一人に、私と同じコミュニティでフランス人と暮らしているドルマという女性がいた。ドルマはオーロビルにあるカルチャーセンターでボランティアをしている。そこでいろいろな講座が開かれているのは知っていたが、私は顔を出したことはなかった。

それを聞きつけたドルマが、アフリカンダンスのスクールに誘ってくれたのである。ところが私には踊りの経験がない。盆踊りすらまともに踊ったことはない。ダンスと名のつくものは、小学生のときのフォークダンス以来である。だがお互い異国の地で、親しくなった人がわざわざ誘ってくれているのだから、恐る恐る参加した。

教室に入ると、明るい音楽が建物の外まで鳴り響いている。そのリズムに合わせ、フランス人男性の先生が中心になって、20人ほどの生徒が輪になって踊っていた。踊りそのものは、ひざを曲げたり伸ばしたりするだけの単純なものである。

その踊りを見ていると、北海道の阿寒で目にしたアイヌの女の子の踊りを思い出した。彼女は他の娘さんたちといっしょに、観光客向けにアレンジされたアイヌの踊りを披露していた。ところが踊っているうちに、彼女だけがどんどんトランス状態に入っていったのである。その一心不乱に踊る姿は、アイヌの先祖の魂が乗り移ったかのようだった。あの、どこを見ているのかわからない目線の先には、何が見えていたのだろうか。

実はこのアイヌの踊りのように、輪になって単調な動作を繰り返していると、トランス状態に陥りやすい。日本の子供が「かごめかごめ」と歌いながらぐるぐる回る遊びにしても、もともとは子供のお遊戯ではない。

輪になって単調な言葉や動きを繰り返していると、中心になっている人に霊が入り込んで話し始めるのである。似たような風習は世界中にあるから、このアフリカンダンスにしても、起源は呪術的なものだったはずだ。

とはいえ、眼の前で踊っている人たちはすこぶる楽しそうである。ぐっと腰を落とす。横に進みながら伸び上がる。そしてまたぐっと腰を落とす。基本はこの繰り返しだけだ。「カニ歩きみたいだな。これなら私にもできそうだ」そう思った私は、輪のなかに入った。

ところがどっこい。見るとやるとは大ちがいである。かんたんなはずのひざの屈伸運動が、あっという間にひざを直撃した。ほんの2、3分踊っただけなのに、私のひざは曲げも伸ばしもできなくなってしまったのである。踊り続けるまわりの人たちは、こぼれる笑顔がまぶしいほどだ。私の顔だけが苦痛にゆがんでいる。楽しい踊りのはずが、私だけが相撲部屋のしごきの輪に叩き込まれたようだった。

「もうだめだ」
ギブアップした私は、ダンスの輪から離れた。そしてクラスが終わるまでの時間は、乱れた呼吸を整えるので精一杯だった。しかもいざ帰る段になっても、足が前に出てくれない。これには参った。もう文字通り、這うようにしてやっとのことで帰宅したのである。

そんな情けない姿を見た近所の人たちから、ドルマは「なんでMをそんなところに連れて行ったんだ!?」と、さんざん叱られていた。彼女にしてみたら、アフリカンダンスは楽しいから、親切心で誘っただけなのに、あの動きはハードすぎて私には全く向いていなかったのだ。

特に連日気温が40度どころか、50度近くまで上がる猛暑のなか、自覚する以上に、私の体力が落ちていたのだろう。おかげであの「殺虫剤事件」に続いて、またしてもひ弱な日本人ぶりを露呈してしまった。

しかし、あのまま無理して踊り続けていたら、また「日通」のときのように、意識が肉体から離れるか、もしくは離れたままになるところだった。つくづく、体調管理はむずかしいものだと思い知らされた。(つづく)
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小説『ザ・民間療法』挿し絵005-2-2
インドに到着した私は、しばらく仏跡を散策して過ごしていた。日本から同行したグループが、いよいよサイババの元へ出発する段になって、そこで彼らとは別れた。

「あなたにはサイババのところよりも、オーロビルのほうが向いている」
顔見知りになったインド人から、そうアドバイスされたからだった。

私はささいなことでは悩んだりもするが、逆に重要なことだと、後先考えずに行動に移すタイプである。この性質は、海外旅行では役に立つことが多い。それを体験的に知っていた。このときも、調べもしないでオーロビル行きを決めた。

だが同じインド国内とはいえ、オーロビルは遠いのだ。まずはカルカッタから飛行機でマドラスまで飛ぶ。今度はバスに乗り込んでポンディチェリまで行く。そこから先は、オートリキシャに揺られていけば、オーロビルに着く。

こう書いていくと、だれでもかんたんに着けると思うだろう。ところが私が教えられたオーロビルへの行き方は、「着いた先々で、地元の人に教えてもらいなさい」という至極かんたんなものだった。

「そりゃそうだよな」と思う人もいるだろう。だがこれがインドではなかなか難しい。インドなら、どこでも英語が通じると思ったら大まちがいだ。地元の言葉にしても、隣の村ですら話が通じないこともあるという。

さらに地元の人に聞くといっても、インド人は日本人とちがって「すこぶる親切」なのである。道を聞かれて、「知らない」などとは絶対に答えない。異国の人が道に迷っているのだから、何としても答えてあげようと考えるらしい。

だから、とにかく思いつくままの方向を指差してくれる。彼が、道を知っていようがいまいが関係ないのである。そうなると、あとは彼の勘を信じるか、自分の勘を信じるかだけである。

日本で暮らしていると勘など必要ないが、海外に出るとめっぽう野性の勘が鋭くなる。突然命の危険にさらされるような場面が続けば、自ずとそうなるものなのだろう。そうやって勘だけを道連れに、何とかオーロビルまでたどり着いたら、移動だけで丸々3日が過ぎていた。

オーロビルといえば、それなりの街を思い描いていたが、着いてみたらそこは広い森だった。その森の中心に、巨大な瞑想施設がある。そこを取り巻くようにして、小さなコミュニティが点在しているのだ。各コミュニティは10人程度で構成され、コミュニティごとに、自給自足の質素な生活から、プールつきの豪邸暮らしまで、それぞれが思い思いに暮らしていた。

元々このオーロビルは、インド人思想家のオーロビンド・ゴーシュとフランス人女性「マザー」らが開いたアシュラムだった。アシュラムとは、共同生活をしながら修行するところである。1960年代の終わりごろからヒッピー全盛の時代には世界中から人が集まって暮らしていたらしい。

しかし私が着いたころには、中心となる指導者はいなかった。外国人が集まって永住しているだけで、その多くはヨーロッパ各国から来た人たちだった。そこには国境も何もない。お互いを束縛する空気もない。ただ、むせ返るように濃密な花の香りに包まれて、ゆっくりと時間が過ぎていく場所だったのだ。(つづく)

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misosoup
 海外のホテルでは、日本人の団体客が泊まったフロアはみその匂いがするらしい。

海外旅行にインスタントみそ汁を持参する人は多いから、みなホテルで一斉にみそ汁を作っているのだろうか。

阿川佐和子さんだったかのエッセイにも、ヨーロッパでヘビーな食事に胃が耐えられなくなったとき、1杯のみそ汁で救われたという話があったそうだ。

みそ汁信仰はこうして受け継がれていくのか。

 

私はインドで暮らしていたころ、高熱で意識のない状態が2日ほど続いた。

やっと立ち上げれるようになったら、それを聞きつけた友人(イタリア人)が、「日本人ならこれだろう」といって、みそスープを作ってきてくれた。

だが、それはどう見てもみそ汁ではなかった。

気持ちはありがたかったが、得体のしれないみそスープは病み上がりの体にはきつかった。

あれは一体何だったのだろう。

 

それでネパールで入った日本料理店のことを思い出した。

私は奮発して、メニューに載っていたかつ丼とすき焼きを注文したのだ。

したはずだった。

ところが出てきたのは、どちらがかつ丼かすき焼きかわからない。

そればかりか、何の料理かもわからない。

使われているのが何の肉かも判然としないので、ひたすら不気味だった。

料金は払ったが、食べられたかどうかの記憶はない。
 
この経験のおかげで食にさらに保守的になった私は、海外に行くと無難なパンだけを食べる。

そしてみごとにやせ細って帰国するのだった。(花山水清)
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Kudara_kannon_1
 私は日本でもっとも美しい仏像は、法隆寺の百済観音像だと思っている。

百済観音像といえば、飛鳥時代を代表する仏像の一つである。

その左右対称ですらりとした八頭身は、アルカイック様式を思わせる。


 しかし日本では、このようなプロポーションを持つ仏像は他にはない。

日本のほとんどの仏像は、顔が大きくて寸胴で脚が短い、まるっきり日本人体型そのものなのである。

渡岸寺の十一面観音像にしても、あれだけ美しい姿でありながら、脚は極端に短い。

なぜ日本の仏像はこんなに脚が短いのだろうか。


 以前読んだ本には、拝観者が仏像を仰ぎ見るのに都合が良いように、下半身を短くしてあるのだと書かれていた。

当時はその説明で納得していたが、よくよく考えてみればそんなわけがない。

仏像を見上げるのなら、遠近法では逆の表現になるはずなのだ。


 遠近法には、大きく分けて線遠近法と逆遠近法とがある。

線遠近法では遠くのものを小さく、近くのものを大きく表現する。

一般的に遠近法として知られているのは、この線遠近法のことである。

逆遠近法では、その反対になる。


 信仰の対象となる仏像であれば、大きさを強調するためには、線遠近法を用いて脚を長く上半身を短くしたほうが、より効果的だ。

現に百済観音像の場合は、そのように造られているのである。

それなのに、なぜ日本の仏像の多くは逆遠近法で造られているのだろうか。


 実は遠近法と逆遠近法には、遠近の向きだけでなくもう一つ大きな違いがある。

それは視点の違いなのだ。

線遠近法の場合は、作者は鑑賞者と同じ視点に立って、見る側の目線で対象物を造り上げる。

ところが逆遠近法となると、作者の視点は対象物の側に立つ。

そして内側から鑑賞者を見る。

つまり、視点が180度逆転するのである。

すると日本の仏像を造った仏師の目線は、拝観者の側ではなく仏の目線だったことになる。

日本の仏像の脚が短いのは、単にわれわれに似せたわけではなく、仏が衆生を見下ろしている形を表現した、特殊なものだったのだ。(花山水清)

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