私が暮らすオーロビルには、チベットから来た人も何人か住んでいた。彼らはダライ・ラマ法王に従って亡命し、インドの各地で暮らしているのである。ご近所さんとして彼らと親しく接してみると、チベット人は見た目だけでなく、メンタリティまで日本人とよく似ているようだった。ひょっとすると、中国や韓国の人よりも近い存在ではないかとすら思う。
そのチベット人たちから、モモというチベット餃子のパーティに誘われたことがある。モモだけでなく、そこで出されたチベット料理は、限りなく日本への郷愁を誘うなつかしい味だった。異国の地でやせ細っていた私にとって、彼らの親切は心だけでなく、胃袋にも深く沁み入るものだった。
そんなやさしいチベット人の一人に、私と同じコミュニティでフランス人と暮らしているドルマという女性がいた。ドルマはオーロビルにあるカルチャーセンターでボランティアをしている。そこでいろいろな講座が開かれているのは知っていたが、私は顔を出したことはなかった。
それを聞きつけたドルマが、アフリカンダンスのスクールに誘ってくれたのである。ところが私には踊りの経験がない。盆踊りすらまともに踊ったことはない。ダンスと名のつくものは、小学生のときのフォークダンス以来である。だがお互い異国の地で、親しくなった人がわざわざ誘ってくれているのだから、恐る恐る参加した。
教室に入ると、明るい音楽が建物の外まで鳴り響いている。そのリズムに合わせ、フランス人男性の先生が中心になって、20人ほどの生徒が輪になって踊っていた。踊りそのものは、ひざを曲げたり伸ばしたりするだけの単純なものである。
その踊りを見ていると、北海道の阿寒で目にしたアイヌの女の子の踊りを思い出した。彼女は他の娘さんたちといっしょに、観光客向けにアレンジされたアイヌの踊りを披露していた。ところが踊っているうちに、彼女だけがどんどんトランス状態に入っていったのである。その一心不乱に踊る姿は、アイヌの先祖の魂が乗り移ったかのようだった。あの、どこを見ているのかわからない目線の先には、何が見えていたのだろうか。
実はこのアイヌの踊りのように、輪になって単調な動作を繰り返していると、トランス状態に陥りやすい。日本の子供が「かごめかごめ」と歌いながらぐるぐる回る遊びにしても、もともとは子供のお遊戯ではない。
輪になって単調な言葉や動きを繰り返していると、中心になっている人に霊が入り込んで話し始めるのである。似たような風習は世界中にあるから、このアフリカンダンスにしても、起源は呪術的なものだったはずだ。
とはいえ、眼の前で踊っている人たちはすこぶる楽しそうである。ぐっと腰を落とす。横に進みながら伸び上がる。そしてまたぐっと腰を落とす。基本はこの繰り返しだけだ。「カニ歩きみたいだな。これなら私にもできそうだ」そう思った私は、輪のなかに入った。
ところがどっこい。見るとやるとは大ちがいである。かんたんなはずのひざの屈伸運動が、あっという間にひざを直撃した。ほんの2、3分踊っただけなのに、私のひざは曲げも伸ばしもできなくなってしまったのである。踊り続けるまわりの人たちは、こぼれる笑顔がまぶしいほどだ。私の顔だけが苦痛にゆがんでいる。楽しい踊りのはずが、私だけが相撲部屋のしごきの輪に叩き込まれたようだった。
「もうだめだ」
ギブアップした私は、ダンスの輪から離れた。そしてクラスが終わるまでの時間は、乱れた呼吸を整えるので精一杯だった。しかもいざ帰る段になっても、足が前に出てくれない。これには参った。もう文字通り、這うようにしてやっとのことで帰宅したのである。
そんな情けない姿を見た近所の人たちから、ドルマは「なんでMをそんなところに連れて行ったんだ!?」と、さんざん叱られていた。彼女にしてみたら、アフリカンダンスは楽しいから、親切心で誘っただけなのに、あの動きはハードすぎて私には全く向いていなかったのだ。
特に連日気温が40度どころか、50度近くまで上がる猛暑のなか、自覚する以上に、私の体力が落ちていたのだろう。おかげであの「殺虫剤事件」に続いて、またしてもひ弱な日本人ぶりを露呈してしまった。
しかし、あのまま無理して踊り続けていたら、また「日通」のときのように、意識が肉体から離れるか、もしくは離れたままになるところだった。つくづく、体調管理はむずかしいものだと思い知らされた。(つづく)
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