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大腸がんの手術を間近に控えた須藤さんは、入院準備だけでなく、入院で不在中の仕事の段取りなどもあって、けっこう忙しそうだ。忙しくしていなければ、不安な気持ちに押しつぶされそうなのかもしれない。
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大腸がんの手術を間近に控えた須藤さんは、入院準備だけでなく、入院で不在中の仕事の段取りなどもあって、けっこう忙しそうだ。忙しくしていなければ、不安な気持ちに押しつぶされそうなのかもしれない。
そこにあるのは、がんそのものへの不安だけではない。手術でおなかを開けて腸を切除するとなれば、それだけでも死ぬリスクは十分にある。これまで手術など経験したことのない私が、気軽に「大丈夫だよ」などといい加減な励まし方をするわけにもいかない。私はただ、手術までに残された時間で、施術に力を注ぐだけだ。
そうして須藤さんの体を刺激しつづけて4週間が過ぎた。これでもう8回目になる。最初のころに比べると、彼女は体調がすこぶるよさそうだ。異常にこわばっていた左の起立筋からは、私の指先をはじき返すような硬さが消え、全身がやわらかくなっている。体つきがふっくらとして、丸みを帯びてきた気もする。
本人に聞くと、体重が増えたわけではないらしい。施術の刺激によって、なにか体の組成が変わってきているのだろうか。ずっと痔だと思っていた出血も少なくなっているというから、この変化は良い方向な気がする。
入院まであと1週間を切ったところで、最終的な仕上げの段階に入っていた。子宮頸がんだった京子さんのときは、手術までの間にがんが消えた。私の施術との因果関係はどうあれ、おかげで手術は回避できたのだ。
だが須藤さんはどうだろう。私としては手応えはあるものの、確かなことではない。なんといっても須藤さんには2か所もがんがあるのだから、京子さんよりも悪性度が高いと考えられる。そこに懸念があったので、楽観はできない。
50代の須藤さんは、ずっと独身で子供もいない。つきあっているパートナーはいても、入院して手術となると、同意書などの手続きは身内でなければいけない。そのため姪の朋子さんが、入院の手続きや身の回りの世話をすることになっていた。
あれこれと準備も進み、明後日が入院という日、仕事を終えた須藤さんは覚悟を決めたようだ。「もうまな板の上の鯉よ。煮るなり焼くなり好きにして!」といったかと思うと、こぶしを振り上げ、「ヨシ!景気づけにカラオケに行こう!」と気勢を上げた。
彼女の元気な声に呼応して、朋子さんや社員たちも一斉に「オーッ」と雄たけびを上げる。彼女の会社は社員全員が女性なのでノリがいい。その勢いに負けて、ノリの悪い私までカラオケに同行することになった。
事務所からタクシーに分乗し、みんなで行きつけの渋谷のカラオケ店へとなだれこむ。須藤さんが真っ先にマイクを握ると、得意のザ・ピーナッツで盛り上げる。やっぱり昭和歌謡はイイ!
須藤さんががんだと診断されてからというもの、ともすると沈みがちだったみんなも、それまでの反動からか大いにはっちゃけている。次々に曲を指定して歌いまくって、ついに私にまでマイクが回ってきた。
見た目こそロックミュージシャン風とはいえ、私は人前で歌うのは苦手だ。楽譜にとらわれない大らかな歌いっぷりが魅力だといわれるほどである。でも、ここまで来て場を盛り下げてしまっては台無しだろう。いっしょに歌うことで、いっときでも須藤さんが楽しい気分になるならそれでよかった。
入院の日、須藤さんの住んでいる代官山は朝からよく晴れていた。天気など関係なくても、私にはこれが吉兆に思われた。きっとうまくいくだろう。病院へ向かう須藤さんを乗せたタクシーを見送ったあと、不安がよぎるたびにあの晴れた空を思い出していた。
2日後、入院に付き添っていた朋子さんからの電話で、明朝、予定通りに手術だと知らされた。そうか、手術になってしまったか。検査の結果はダメだったということなのか。がんが消えているのを期待していた私は、電話を持ったまま体から力が抜けていくのを感じていた。そしてため息といっしょに、「がんばってと伝えて」というのが精一杯だった。
手術当日の午後、心配で気もそぞろな私のもとに朋子さんから電話がきた。さきほど無事に手術が終わり、今はまだ麻酔から完全には覚めていないらしい。朋子さんは「あのネ…」と話をつづける。
須藤さんが受けたのは、がんが2つある部分の両端で大腸を切り取って、残された部分をつなぐ手術だったようだ。ところがいざ切り取った腸を開いてみると、2つあるはずのがんが1つしかなかった。つまりこの1か月で、がんが1つ消えていたのである。
それを聞いた私は、思わず「エッ、手術前に検査しなかったの!?」と口走ってしまった。私はてっきり手術前の検査の結果、がんが消えていなかったから手術になったのだと思い込んでいた。
ところが朋子さんは、2つあったがんが1つになっていたことなど気にもしていない。「あ~そうだったかしら?」程度にしか感じていないようだ。
しかし私はちがう。胸のなかから強い喜びが吹き上げてくるのがわかる。あの手応えはまちがっていなかったのだ。それと同時に、がんの存在とあの左の起立筋の異常が、密接に関係していることを改めて確信したのだった。(つづく)
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