小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:武蔵野美術大学

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小説『ザ・民間療法』挿し絵002-2
中学の時点で人体のからくりに触れたとはいえ、その後の私の興味は、絵を描くことに向かっていた。地元の進学校に入学した私は、その興味のまま、何となく美術クラブに入った。特に強い思い入れがあったわけではない。もともと絵を描くのも苦手だった。ところが入部後に初めて描いた油絵は違った。

「天才の作品とは、このようにして生まれるものか」

そんな大それた錯覚が生まれるほど、自分の実力をはるかに超越した作品が勝手にでき上がっていたのだ。描いた私はもちろんのこと、周囲にいた先輩や先生も「あっ」と声を挙げるほどの出来栄えだった。そしてこの作品は、地方の美術展でいきなり最高賞を獲得したのである。

ところがそこからあとが続かない。いくら同じように描いても、私の筆先からは本来の実力通りのものしか出てこないのだ。それでも、あの最初の作品に取り組んでいるときの高揚感は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。

あれはランナーズ・ハイのようなものだったのか。ゾーンに入った状態とでもいうのかもしれない。もう一度、あの感覚を再現したい。そう考えた私は、ひとまず美大への進学を目標にすえた。

受験とは単なるテクニックである。そのテクニックを駆使して、何とか東京にある武蔵野美術大学に合格した。その知らせを聞いて、母の往診をしてくれた例の山本院長が、「祝いだ」といって酒に誘ってくれた。いくら子供のころからの顔なじみでも、それまでは医者と患者の関係でしかなかった。だからそれが、私にとっては白衣を脱いだ医者との初めての対面だった。

私には2つ年上の兄がいる。彼が医大に進学していたので、先生は私も医大志望だと思っていたようだ。それなのに美大に進学すると聞いて、私は脱落したのだと考えたらしい。酔いが回るに連れ、やがて先生の口からは徐々に本音がこぼれ始めた。

「私ら医者は、人の命を救う大事な仕事をしている。それに比べて絵描きなんぞが、人の命を救うようなことはない」
そういって、医者の仕事は美術より崇高だということを、私に向かって長々と説き続けた。

「そうだろうか。それなら、どうしてうちのバアさんの命を助けられなかったんだ」
そんなことを腹のなかでつぶやきながら、それをあえて口には出さない分別は私にもあった。彼の論理など、家で奥さんに向かって「オレは外で金を稼いでいるのに、オマエは家にいて云々」といっているようなものだ。その姿は、高校を出たての私の目にも、ひどく幼く見えた。

しかし、彼の言い分は核心を突いていた。果たして美術には、医学と肩を並べられるほど明確な目的があるだろうか。それは私が何を描くか以前の問題だ。この美術の存在意義に対する疑問は、いつまでも消化できずに私のなかに残り続けた。そして大学での4年間を費やしても、結局その解答は得られなかったのである。

最初の絵に向かっていたときの高揚感も、その後の私の作品に再び現れることはなかった。やはり山本先生がいった通り、美術は医学を超えることなどできないのだろうか。(つづく)

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あるとき、武蔵野美術大学の相沢韶男先生が、リヤカーに自著を積んで売っている男に出会った。

話を聞くと、これからリヤカーを引いて日本中を売って回るつもりだという。

早速、彼の本を買い求めて読んでみると、とんでもない名著であった。

学生たちにもすすめ、一部地域では話題の本となった。

この本『馬の骨放浪記』を書いた山田勝三さんは、大正生まれの全く無名の人である。

彼には親も家もなく、橋の下での記憶から始まる壮絶な人生を綴った自伝だ。

自分の名前も年齢もわからないまま、兵隊として戦争で中国にも渡った。

そして帰国後、頭が禿げ上がる年齢になってから、夜間中学に通い始めて文字を覚えた。

そしてこの本を書いたのである。


千枚にも及ぶ手書きの原稿を持ち込んだ出版社で、出版に至る経緯にもドラマがあった。

本書を超える本は存在しないのではないかと思うほど、強烈な内容である。

孤児の悲惨、里親からの虐待、軍隊でのいじめ、詐欺、それでも曲がることのないまっすぐな魂。

ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』など、はるか足元にも及ばない驚愕の「実話」なのだ。


これほどの本が絶版になったままなのは本当に惜しい。

私はなんとかこの本の存在を残したくて、自著の参考図書のリストにも紛れ込ませた。

だれも気づいていないようだが、「馬の骨」といっても決して博物学の本ではないのである。(花山水清)

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武蔵野美術大学には、民俗学者の宮本常一が教鞭をとっていた時期があった。

美術大学であるから、ふしぎなことではある。

他の大学からも引き合いはあったそうだが、宮本が師事していた渋沢敬三はうんとはいわなかった。

そして、武蔵野美術大学からの誘いに対してだけ、「ここならいい」といってくれたのだという。


この渋沢敬三という人はかなりの傑物だったことで知られている。

宮本の本にもたびたび登場しているが、当時、日銀の総裁だった渋沢が語った言葉は大変興味深い。

「日支事変は次第に泥沼へと足を突込んだようになっていって、その収拾をつけることのできる政治家も軍人もいないから、おそらく近いうちに世界大戦になるであろう。そうして日本は敗退するだろう。それまでの間に日本国内を歩いて一通り見ておくことが大切である。満州へゆくことも意義があろうが、満州は必ず捨てなければならなくなる日がくる。(中略)これから敗戦後に対してどう備えていくかを考えなければならない」(『民俗学の旅』宮本常一著)

民俗学の旅 (講談社学術文庫)
宮本 常一
講談社
1993-12-06



渋沢がこう話したのは、なんと昭和15年の初めのことであった。

これから起こる歴史の筋書きを、すでに見てきたかのような話ぶりである。

眼の前にある「事実」を丹念に集めていけば、彼にとっては当然の結論だったのかもしれない。

私には今の日本が良い方向に向かっているとは思えないが、彼ならこれから世界がどうなっていくと見るのか、聞いてみたいものである。(花山水清)

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次回のメールマガジンの題材はマーティン・ガードナーの『自然界における左と右』を参考にしている。

新版 自然界における左と右
マーティン ガードナー
紀伊國屋書店
1992-05-01


これは以前、武蔵野美術大学で心理学の教授だった立花義遼先生からいただいた本である。


先生は私の研究内容を理解した上で、「私はもう使わないから」といって幾冊かの蔵書を託してくださった。

そのなかにはこの『自然界における左と右』の初版本の他に、ヘルマン・ヴァイルの『シンメトリー』の初版も混じっていた。

シンメトリー
ヘルマン・ヴァイル
紀伊國屋書店
1987-09-01



これらはシンメトリを扱う本を読めば引用の最初に出てくる2冊である。

つまりシンメトリを研究する人間なら、必ず押さえておくべき本なのだ。

そんな本をチョイスしてわざわざ持参してくださった先生には心から感謝している。


立花先生は私が30年ぶりに大学に顔を出したときにも「おお、君か!」といって再会を喜んでくださった。

一般教養で心理学を受講しただけの一学生の私のことを、ずっと気にかけてくださっていたそうだ。

退官されて10年過ぎた今でもご自宅には学生が泊まりに行っていると聞くから、いかに学生に慕われているかがわかる。

先生は演劇界でも顔が広いことでも知られている。

どれだけ多くの若者が先生の後押しのおかげで世に出たことだろう。

この本を眺めていると、私も先生から応援していただいていることを思い出して、少しうれしくなるのである。(花山水清)

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数年前、西洋中世美術史学者である馬杉宗夫先生から何冊かご著書をいただいた。そのなかの1冊に『黒い聖母と悪魔の謎』(講談社現代新書)があった。

 
この本のなかに、中世までとルネサンス以降とでは、絵画での視点が左右逆転している話が出てくる。これは大変興味深く、いつか私の頭のなかで整理がついたときに、改めて先生にお目にかかって話をうかがおうと考えていた。

 
今回のメールマガジン(2019年1月号)でやっと【「モナ・リザ」の謎と鏡文字】という話としてまとめることができた。だが残念なことに馬杉先生は昨年亡くなられてしまっていたのである。

先生のご冥福をお祈りいたします。(花山水清)

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