小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:気功

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061
毎月のように施術していた芳子さんが肺がんになったと聞いて、私は動揺していた。

ちょっと前までは、患者ががんだとわかると家族には伝えるが、本人にはいわないことになっていた。がんだと告知してしまうと、あまりのショックで自殺する人までいたからだという。

ある有名なお寺の大僧正は悟りを開いているから、この人になら告知してもいいだろうと思われた。そこで正直にがんだと伝えたら、半狂乱になって自殺してしまったという話を聞いたこともある。

あるとき、父の姉である伯母が胃がんになった。見つかったときにはかなり進行していたので、余命いくばくもない。それを聞いて、父はまだ学生だった私を連れて最後の見舞いに行った。

病室に入る前の父は、いつになくきびしい顔をして、「いいか、絶対にがんだと悟られないようにするんだぞ」と私にいった。だから父は伯母の前では当たり障りのない世間話をし、私も東京での学生生活の話なんかをした。

そしていよいよ病室を出る際、父は「それじゃまた来るね」というと、伯母に向かって深々とおじぎをした。父にしてみれば、これが姉の顔の見納めだとでも思ってのことだろう。だがその姿からは、これが最期のお別れだという気持ちがバレバレだった。

最近はがんも治ることがあるらしいが、あのころはまだがんは不治の病で、助かる見込みなど全くなかった。そのため、がんの告知は死の宣告に等しかったのである。

しかし私ががんなら、絶対に告知してほしい。自分の体のことを自分が知らないほうがおかしいと思う。終わりが近いとわかれば、身のまわりのモノも処分できるし、借りがあればきちんと返して、自分の人生の後始末ができる。会いたい人にも会いに行ける。

だが医学が進歩したとはいえ、芳子さんはがんのなかでも特に難しいタイプの肺がんらしい。彼女はこのまま死んでしまうのだろうか。あれこれ思い悩んでいると、以前習いに行っていた気功の先生のことを思い出した。

そうだ。あのナカバヤシ先生なら、「気」の力でがんも治せると聞いていた。そこで早速先生に会いに行って、芳子さんを治療してもらえないかと頼んでみた。すると快く応じてくださったのである。

ところが芳子さんの肺には水が溜まっていることを話すと、「そりゃダメだ」といって急に素っ気なくなってしまった。あわてて理由をたずねると、水は「気」を通してくれないから、がんを叩こうとしても、水があるうちは治療にならないというのだ。

そんなことは初めて聞いた。習いに来ていたころには、そんな話はしていなかった。そもそも人間の体は半分以上が水でできている。その水が邪魔するというのなら、気功なんて意味がないじゃないか。口には出さないが、そんな反問を頭のなかでくり返した。

すると少しの沈黙のあと、先生は「肺の水がなくなったらやりましょう」といった。肺の水がなくなる?それは肺からがんが消えたらということなのか。もう返す言葉も見つからない私は、時間をとっていただいたことにお礼をいって、先生の家をあとにした。

気功の達人として有名なナカバヤシ先生になら、芳子さんを助けてもらえると思っていたのに、希望の灯が消えてしまった。これからどうしたらいいのだろう。

抗がん剤治療が始まった途端、あれほど元気だった芳子さんから笑顔が消えた。足までパンパンにむくんで、見るからに完全な重病人の姿になり、日に日に弱っていく。そして病室を訪れた私に向かって、「先生、助けて」と泣きながら訴えるのだ。

しかし私には彼女を救う力などない。何もしてあげられないのである。私はただ芳子さんの手を握り、不用意に涙が落ちてしまわないよう、天井で白白と光る蛍光灯を見つめているしかなかった。(つづく)


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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 042


私の整体は出張専門なので、いろいろなお宅に出かけていく。
一人暮らしの小さなアパートから高級住宅街の豪邸、企業の会議室や高級ホテルにいたるまで、行き先はさまざまだった。

友人の近野さんのおかげで(せいで)、私の患者には医師をふくめた医療関係者が多くなっていた。先日も近野さんの紹介で、高橋さんというお医者さんのお宅にうかがった。

高橋さんは東京都内で大学病院の消化器科に勤務しているそうだ。たとえ相手が医師だろうが、さしあたって他の人に施術するときとのちがいはない。

ところがいつも通りの施術で軽くおなかに手が触れたとき、手のひらに何か異質な感触のものが当たったのである。それは腸のあたりだった。

「これは何だろう」
口には出さないが、気になって丹念にその部分を指先でなぞって調べていると、高橋さん本人も「わかりますか」と聞いてくる。

実は彼も、前からその部分の異常な感触が気になっていた。自分の専門領域なので、職場で一通り検査してみたが、それが何であるかははっきりとはわからなかったのだという。

「何でしょうね?」と聞かれたが、専門の医師が調べてわからないものが、ついこのあいだ整体で開業したばかりの私にわかるわけがない。そもそも民間療法では、何かの症状に対して病名を診断する行為すら、法律上は許されていないのだ。

だがこの体験が、私にとって大きなターニングポイントとなった。
今までは特殊美術で使っていた技を使って、骨についての異常ならかんたんに見つけられるようになっていた。しかし骨と内臓はちがう。内臓となると体の外から見ても、手でさわってみても何がどうなっているのかよくわからない。

昔見た時代劇で、女優さんが「おなかの子が!」といいながら胃の位置に手を当てていた。それぐらい、一般的には内臓の異常どころか、それぞれの位置すらわからないものなのだ。

ところが特殊美術の技術を使えば、手で触れることで内臓の形だけでなく、質感のちがいも識別できることがわかってきた。しかもこの技術は大して特別なものでもないようだ。

洋服の表面をサラッとなでて、その生地が綿か絹か化繊かを当てるぐらいはだれでもできる。別に指でさわらなくたって、着た瞬間の肌触りでも、それぐらいのちがいはすぐわかる。

このセンサーを人の体に応用すると、内臓の形や質感のちがいだって判断できるようになる。しかも何か異常のある内臓は、しこり状態になっていたり、逆に弾力が部分的に失われていたりして、健康な状態とは明らかにちがっている。まるで「私はここにいますよ」と訴えているようなのだ。

こういうことがわかり始めると、私のなかで人の体に対する関心が、いわゆる健康のカテゴリーからははずれてきた。そしてだんだんと美術のモチーフになっていった。

ひょっとして医学というのはアートの延長なのだろうか。いや、むしろアートそのものなのかもしれない。そんなことを考えるようにもなっていた。この先には何があるのか。そう思うと、とてつもなくエキサイティングなのだった。(つづく)

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考えてみると、人から人への「紹介」はおもしろいものだ。
以前、タモリのお昼の番組に「ともだちの輪」というコーナーがあった。そこではその日のゲストが次のゲストを指名する。すると思いもよらない人同士のつながりが見られて、番組内でも一番人気のコーナーだった。

たしか、知り合いを6人たどればアメリカ大統領までつながるという話もある。そこまでつながらなくても、私に患者さんを紹介してくださる輪も、今では紹介の紹介程度まで広がった。もちろん仕事なのだから、紹介は多ければ多いほどありがたい。

ところが私が忙しくなると、自分の予約が入れにくくなってしまうのを心配して、「だれにも教えない」と心に決めている人もいた。それを本人から聞いても悪い気はしなかったし、人間の心理としても興味深かった。

その一方で、まわりの人に宣伝しまくって、次から次へと紹介してくれる人もいる。そんな一人に友人の近野さんがいた。

看護師をしている近野さんは、職場で疲れが溜まっていそうな同僚を見つけては、私の施術を受けるようにすすめてくれたのだ。おかげで私の患者には医療関係者がやたらと多くなった。ときには勤務先の病院に呼ばれて、診察台のうえで医師や看護師さんたちに施術することまであった。

そんなご縁から、ある助産師さんたちの職場にも呼ばれたことがある。
助産師の仕事は出産の補助だけではない。彼女たちが別名「おっぱい先生」と呼ばれているのは、産後のお母さんたちに授乳の指導をしたり、母乳の出が悪い人には、乳房をマッサージして改善させたりもするからである。

助産師として出産に立ち会うとなれば24時間体制だし、そのうえ授乳の改善は重労働なのでみな疲れ切っていた。そこで私が、彼女たちの疲れを取るために助産院に通うことになったのだ。

ところがそのうち、母乳の出が悪いお母さんたちからの依頼も増えてきた。
母乳が出にくい人は、もともと体調がすぐれない。出産の疲れも取れないのに授乳は昼夜を問わないから、睡眠不足でますます体調が悪化する。その結果、さらに母乳の出が悪くなって、しまいには乳腺炎にまでなってしまう。

しかしそういうお母さんたちでも、背骨のズレをもどしてあげると母乳の出がよくなった。そんなことが関係あるのかと思う人もいるだろうが、背骨がズレていると筋肉が固くなって血流が悪くなる。母乳は血流が命ともいえる存在なので、血流の改善が母乳の改善に直結しているのだろう。

そんなこんなで私の出張整体は、一時は「母乳専門か?」と思うような方向になっていた。しかし誤解も生じやすいので、若い女性の胸のあたりにはできるだけさわりたくないのだ。おかげで私にとっては緊張の日々なのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵040
整体の仕事を出張専門で開業した私は、紹介のおかげで予約がたくさん入るようになった。これなら仕事としてつづけられそうで、まずは一安心である。ところが整体と銘打っている以上、整体を提供しなくてはならない。これが予想以上につらかった。

「整体師は白衣を着たドカタだ」と自嘲気味にいう人もいたが、実際にやってみると、予想以上に体力が必要だった。まして出張専門なのだから、店舗で座ってお客さんを待つ間に休憩するようなわけにもいかない。施術が終わったら、すぐに次の場所へ移動しなくてはならないのだ。

東京近郊限定とはいえ、今は車などもっていない私は、もっぱら電車やバスを乗り継いで移動する。これは上り下りする階段の数だけでも相当なものだった。予約がたくさん入るのはありがたいが、インド帰りで栄養失調から回復しきっていない私には、1日に何人も施術できるものではなかった。

施術中にエネルギーが切れて、絶望的に眠くなることも多かった。ほめられた話ではないが、そんなときは例の気功の技で眠ってもらう。相手がいびきをかき始めた瞬間を見計らって、私もちょっとだけ寝ることで、その場をしのいだ。

この短時間で熟睡するテクニックは、特殊美術の仕事のころに会得したものである。単なる美術作品の制作とちがって、テレビ局相手の仕事ではどうしても徹夜がつづく。車の運転中に、はげしい眠気に襲われることもたびたびあった。

そういうときは、信号が赤になったら、すかさずハンドルに突っ伏して寝てしまう。信号が青になると、後ろの車が必ずクラクションを鳴らして起こしてくれる。それを合図にパッと起きて、また次の赤信号まで車を走らせるのだ。こうやって一瞬でも熟睡できれば、かなり寝た気がするものだった。もちろんこんなことはおすすめできない。

さすがにあのころほど眠くはないが、整体をつづけることには、体力的な限界があるのを自覚するようになった。そこで私の施術は、以前使っていた、軽い力で背骨のズレをもどす技へとシフトし始めた。

体力的な問題だけではない。人から教わったことを繰り返すより、オリジナルな技を作り上げたい気持ちもあった。オリジナルに向かうのは、美術家の性癖かもしれない。だがこのやり方のほうが、具体的な症状がある人には有効なようだった。そうなると、施術のおもしろみもちがってくる。

私の習った整体では、技の組み立てがルーティンで、だれに対しても同じ施術になる。それでは特定の症状に積極的にアプローチできないし、時間も同じだけかかってしまうのだ。

最小の力で、短時間でおさまる最も効率のよい方法を見つけたい。そんな療法が開発できれば、ひょっとして新しい治療体系、ひいては全く新しい医学体系までできるかもしれない。

これはあながち無謀な夢物語でもない。以前、特殊美術の仕事のころ、テレビ局でスタッフの腰痛を劇的に治せたのだから、あれが再現できればいいのではないか。あのやり方は、私にとっては美術の延長だった。


たとえば特殊美術では、キティちゃんのような平面のイラストをもとにして、立体のキャラクターを作ることがある。その際、まずは中心線に沿って左右対称な形を作らなくてはならない。

平面から立体を作るとなると、補わなくてはいけない情報が多すぎて、相当な難題なのである。試行錯誤の結果、やっとできあがった立体物も、それがちゃんと左右対称になっているかは、目で見ただけではわからない。必ず両手で触って確かめる。そうすることで、かなりの精度で仕上げられるのだ。

この技術をそのまま人の体に応用すれば、体の中心軸となる背骨がまっすぐでないところや、骨の位置の左右のちがいがはっきりとわかる。症状があるところは、体の形がいびつになっているようなので、左右のちがいさえ確認できれば、あとはゆっくりと、背骨をまっすぐにしたり、骨を左右対称な位置にもどせばいいだけだ。

この作業なら、ルーティンな整体の技とちがって、ほぼ指先だけしか使わない。だから体力を消耗しないですむ。体力が乏しい私向きだし、年をとってもつづけられるだろう。そして何よりも大切なことだが、このやり方だと、患者さんからもたいへん好評なのだった。(つづく)


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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 038
友人たちに、最近占いの勉強をしているというと、みんなキラッと目が光り、「見て見て!」とせがんでくる。整体なんかよりも、占いに興味がある人が多いようである。そこで頼まれるまま、あちこちで運勢を占ってあげていた。そんな話が伝わったのか、昔の友人から占いの原稿の依頼まで舞い込んだ。

聞けば、携帯電話の音声サービスの一つとして、占いのコーナーを新設するから、そのための原稿を書いてほしいらしい。ちょうど例の危ないバイトも辞めて、収入源が途絶えていたところだったので、これ幸いと引き受けた。

しかし占いについては、ちょっと気になることがあった。
実はお釈迦様の説話のなかに、「幸せに生きるには星を占ってはならない。また占ってもらってもならない」という教えがあるからだ。

宇宙の真理からすれば、占いなど、してもされてもイケナイのである。これは実体験としても理解できるできごとがあった。

あれは私の父が50の誕生日を過ぎたときのことだった。父はだれにいうともなく、ボソッと「アイツ、はずれやがった」と呟いた。

何のことかと思って聞くと、ずっと若い時分に、占い師から「アンタ、50まで生きないよ」といわれていたらしい。それから数十年もの間、その言葉がずっと気になっていたのだ。

無事に50歳を迎えた父は「ザマァミロ」と勝ち誇ってはいたが、占い師のたった一言が、それだけ長い間、重しとなって心にのしかかっていたのである。その心情を思うと哀れだった。やっぱり占いはおそろしいものだ。全くもってお釈迦様のおっしゃる通りである。

しかしすでに原稿書きの仕事は引き受けてしまった。それまでの成り行き上、断るわけにもいかない。どうしようかとよくよく考えた末、占いとしては当たり障りのないことを書くことにした。ちまたの占いだって、どうにでも受け取れるようなことしかいわないものだ。だから問題ないだろう。

私は知恵を絞り、占いの辞書のようなものを駆使して、なんとか原稿を仕上げて届けた。そして数日たったころ、スタジオでその原稿の音声収録があるから来ないかと誘われた。

うちの近くだったので出かけていくと、録音ブースで女性アナウンサーが、私の原稿を読み上げているところだった。

ヘタな絵でも、高い額縁に入れると格段に見栄えがよくなるものだ。私の文章だって、プロが流暢に朗読すると、もっともらしく聞こえてくる。お釈迦様の教えのことなんか忘れて、気分よく聞き入っていたら、一通りの収録が終わった。

休憩に入ったところで、私を見つけたディレクターが「ちょっと本人の声でも録ってみよう」といって、私を録音ブースに呼び入れた。

こりゃ休憩時間のお遊びだナと思ったので、調子にのった私は、マイクに向かってアナウンサーっぽく原稿を読んでみせた。するとヘッドフォンから私の声を聞いていた彼は、「よし、これでいこう!」と決めた。

「え、マジですか!?」
あわててみてももう遅い。ディレクターがいうことは「絶対」なのである。おかげで、始まったばかりの携帯電話の占いサービスでは、私の声が流れるハメになってしまった。

よほど慣れた人でないと、録音した自分の声なんぞ聞けたものではない。私も絶対に聞きたくない。ところがその後の利用者アンケートでは、私の占いコーナーがサービス全体の2位になっていた。

かなりの人気だったということだから、これはいよいよ整体よりも占いのほうがウケがよさそうだ。それならこのまま占い師にでもなろうか。そんな考えがチラリとよぎる。

だが待てよ。やはりお釈迦様の教えに背いて生きるわけにはいかない。当初の目的通り、占いはあくまでも、相手の「気」の変化を調べるときだけにしておこう。そう心に決めた。

そんなこんなでとりあえずのところ、少々うさん臭めではあるが、整体(+気功+占い)のプロになる準備は整った。あとは整体の学校を卒業してから、実地で経験を積めばいいだろう。そうと決まったら、早く卒業してしまおう。

この学校では、各自が自主練習に励んで、それ相応の自信がついたら、自分で卒業時期を決められる。だが卒業の前に、例の「回天の生き残り」の小嵐会長を試験台にして、整体の技術を披露しなければいけない。

会長は生徒の技を受けながら、要所要所に鋭いチェックを入れる。これはいわば、教官を乗せて走る路上教習みたいなものなのだ。

回天とまではいわないまでも、会長は歴戦のツワモノである。そんな人を相手に、一度や二度の挑戦で即座に合格できるものではない。早く卒業したいと思うあまり、私も少なからず緊張していた。

そこでつい、整体技をかけながら、少しずつ「気」を入れてみた。するとどうだろう。小嵐会長の体から、潮が引くように緊張が消えた。そして徐々にいびきをかき始めたのである。

「勝った!」

この瞬間、私の整体学校の卒業が決まったのだった。(つづく)


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