小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:気功治療

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 035
何か得体のしれない黒いモノ、意念でしか見えないソイツは、人に取り憑いて悪さをするのだという。それはいわゆる「悪霊憑き」というヤツだろうか。

ナカバヤシ先生は、その取り憑いたヤツを「気」の力で引きはがすのだ。そのためには、まずは憑かれている人の足元のほうから「気」を送り込み、憑きモノを手の先のほうに少しずつ追い込んでいく。

そして最後に「エイッ」とばかりに「気」を操って、憑きモノを手の先から引っ張り出して床に叩きつけるのだ。このとき、決して口から引き出してはいけないらしい。口から出したらどうなるのだろう。そう考えると恐ろしくなってくる。

なかにはナカバヤシ先生ほどの達人でも引き出せないヤツがいるようだから、ますます恐ろしい。しかしそういうときには、憑かれている人の額に「気」で呪文を書いて、それを御札(おふだ)のように貼り付ける。こうしておくと、憑きモノを取り払えなくても、力が封印されて悪さはできなくなるそうだ。

これはもう香港映画の『霊幻道士』の世界である。映画のなかでは、中国の民間信仰だった道教の道士が、悪霊が取り憑いた死体(キョンシー)の額に呪符を貼って封じ込めるシーンがあった。

呪符とは、黄色い紙にニワトリの生き血で呪文を書いた御札だが、ナカバヤシ先生は、「気」の力でもって直接書き込むのである。全くディープすぎてめまいがする。しかし気功とはそもそも道教の方術の一つであって、不老不死を達成するための秘術なのだから仕方がない。

道教の秘術といえば、友人が台湾の道教寺院で、異界を旅する方術を受けた話を聞いたことがある。

さして珍しくもない造りの寺に一歩足を踏み入れると、ほとんど日の差さない暗がりのなかで、お香がもうもうと焚かれている。祭壇の前には案内役の道士が座り、その後ろに10人ほどの参加者が座る。そこで道士が何やら呪文を唱えると、参加者たちの頭のなかには共通した建物のイメージが浮かび上がってくるのだ。

その建物の前には薪が積んである。薪が多い人、少ない人、バラバラに散らかっている人などさまざまだ。薪はその人の財産を表しているので、もし少ないようなら道士が増やしてやったり、散らばっている薪を積み直したりもする。

次にイメージのなかで建物に入っていくと、正面にはやはり祭壇があって、そこには自分の配偶者となる人の写真が置いてある。その横には、自分の寿命を意味するろうそくが立っているのである。こんな話が延々と続いて、もっと強烈な話も聞いた。

しかしこの異界への旅の映像は、その場のだれもが見えるわけではない。人によってはぼやけていたり、全く何も見えてこない人もいる。気功を極めると、こういう世界が広がるというか、深まっていくものらしい。

ナカバヤシ先生からも、中国のとんでもなくスゴイ人を見てきた話を聞いた。

もう30年以上前、中国で気功の全国大会が開かれた。そこに集まった腕自慢たちはそれぞれの得意技を披露する。「気」の力で相手を吹っ飛ばすのはもちろんのこと、テーブルの上の大皿を、「気」の力でUFOのように自在に飛ばしてみせる人もいた。

なかでも極めつけは、見た目は小柄な老人だった。彼は力むこともなくスッと登壇したかと思うと、壁に自分の右肩と右腰をつけて立った。そして肩と腰を壁につけたまま、左の脚を高々と頭の上まで上げてみせたのだ。

「??」

それがどうしたというのだろう?これを聞いたときには全く意味がわからなかった。私がキョトンとしているのを見ると、ナカバヤシ先生はニヤッとして、「やってごらん」という。そこで自分で試してみると、初めてその意味がわかった。人体の構造上、そんなことは絶対にできるはずがなかったのだ。

こういった話が事実なら、気功というのはやはり底なし沼のごとく、深くふか~くはまりこんでいくトンデモない世界なのである。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 034

「私は気功に向いているのかもしれない」

そう思うと練習が楽しくて仕方がない。毎週、日曜にナカバヤシ先生のお宅に行くのが待ち遠しいほどだった。夢中で通い続けてしばらくたったころ、ようやく治療のための気功を教えてもらえることになった。

治療に使う「気」というのは、相手を倒すための「気」とは全くちがった種類なのである。しかも漢方医学では、各臓器ごとにそれぞれちがった「気」があって、気功師は患者の病態に合わせて、それらの「気」を使い分けて治療に当たるのだ。

たとえば、胃の「気」が弱くなったり強くなりすぎたりすると、胃が病気になる。それに対して気功師は、自分の胃の「気」を患者の胃に送ってパワーを補ったり、逆に強すぎる「気」を弱めたりする。そうやって「気」のバランスをとることで胃の病気を治すのだという。

気功で病気治療をやるには、まずは自分のそれぞれの臓器から、「気」を出せるようにならなければならない。なかでも気功治療でもっとも重要なのは、腎臓から出す腎気(じんき)である。

腎気は生命の「気」とも呼ばれる。したがって、治療で無闇に腎気を使っていると、自分の生命エネルギーが無くなってしまうのだ。だから腎気を使うのは、よほど重病の人を治療するときに限定し、しかも少量を効率よく使わなくてはならない。

これらの「気」をちゃんと使い分けられるようになって初めて、気功治療が行えるようになる。つまり、なんでもかんでも「気」を出せればいいというものではない。そこがバトルのときとちがうところである。

また同じ「気」でも、その質には良し悪しがある。良くない「気」は邪気と呼ばれる。邪気は病気の原因になるので、すみやかに取り払わなければならない。

ところが気功師が邪気を払おうとすると、そいつがモゾモゾと手から入り込もうとする。だからこそ、自分を守るためにも、邪気を払う技術は非常に重要になってくるそうだ。

なんだか恐ろしげな話である。ここでひるんでいる場合ではないので、まずは一つ一つの内臓に対応した「気」の出し方から練習する。

確かに、相手を倒すときに出す「肺気」とちがって、治療目的の「気」を出すには相当繊細なテクニックが必要だ。イメージした臓器から「気」が出せているのか、自分ではよくわからない。確かめようにも確かめようがないところもむずかしい。

ここまでで、とりあえず気功治療への理解は深まったと思うが、果たしてこれで本当に病気が治るのだろうか。ここがいちばん肝心なところである。

そういえば、まだナカバヤシ先生が病気を治しているところは見たことがない。一度見てみたいものだ。そう考えていたら、ちょうど腰が痛み始めた。われながらなんと都合がよい体ではないか。

そこで恐る恐る、先生に気功で腰を治してもらえないか頼んでみた。すると先生は「ヨシッ」と応じて、私の腰に手を当てた。手を当てて「気」を入れるときには手の平を患部に密着させる。こうすると、「気」をもらさず体内に送り込めるのだ。

手を当ててもらっていると、ジンワリと腰に心地よさが伝わってくる。手のぬくもりのせいかもしれないが、3分もするとなんとなく腰が軽くなってきた。さきほどまでのズキズキとした痛みも消えたようだ。

これが「気」の効果なのだろうか。仮に単なる気のせいだったとしても、私の体感では気功治療に効果はあるようだった。

先生の話では、今のは「気」による治療だが、たいへんな病気のときには意念の力もいっしょに使うらしい。

丸めた紙の内側の字を読みとってみせてくれたときのように、意念でもって相手の体のなかを見ていく。そこで何か悪いモノが見つかれば、意念の力で焼き払うか、外から「気」を送り込む。この方法で難病を治療するのだという。

ところが「気」というのは、必ず強いほうから弱いほうへと流れる性質があるので、もしこちらの「気」が患者よりも弱ければ、治療効果も小さくなる。

しかし力の差がはっきりしていれば、「気」を受けた側はほぼ眠ってしまう。今回、私は先生から「気」を入れられても眠らなかった。すると、私の「気」の力は強いと思ってよいのだろうか。

さらに意念の目で見ていくと、体に黒いモノがへばりついている人がたまにいるらしい。その黒いモノはひどい悪さをするので、すぐに取り去る必要がある。しかしそれに対処するには、これまた特別な方法があるのだという。

もうこうなってくると、私の理性では判断もつかないほど、あちら側にはディープな世界が展開しているのだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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