小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:気功

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037

世の中は占い流行りである。今や街のいたるところに、占いの看板が立っている。

ところが今ほど占いが流行っていなかった、私がまだ中学生のころ、地元の飲み屋街に住んでいた「児島のおばさん」が占いを始めた。始めたといっても、おばさんはそれまで一度も占いの勉強などしたことはない。ごくふつうの50代の主婦である。しかしあるとき、突然ひらめいてしまったのだ。

彼女は、通りに面した自宅の壁に穴を開け、そこに小窓と呼び出しブザーを取り付けた。そして小窓の脇に小さく「手相」と書いた看板をぶら下げた。

すると夜も更けたころ、通りを歩く酔っぱらい達がおもしろがってブザーを鳴らす。それを合図におばさんが席につく。そして小窓から差し込まれた手を見て、適当に占ってやるのである。

元来、話し好きのおばさんの占いはやたらと受けがよく、毎日けっこうな収入になったという。もちろん占いだから仕入れもない。ビジネスモデルとしては、年寄がやるタバコ屋以上の効率のよさである。

だが私はというと、占い全般にあまり興味はない。
それでもだいぶ前に一度だけ、たまたま知り合った中国人占い師に見てもらったことがあった。私が占いなど信じていないのを知って、その陳先生は「それなら」といって、とっておきの占いの話をしてくれた。

その占いだと未来のことが100%当たってしまうのだという。ふつうの占いは、当たるかどうかわからないから、気楽に見られるし、見てももらえる。それが確実に当たるとなると、「明日死ぬ」なんて結果が出るかもしれないから、そんな占いは恐ろしくて、だれも見てもらう気がしない。陳先生本人はもちろんのこと、それまでだれもこの占いで見てもらった人はいなかった。

しかしそれを聞いた私は、因果なことに恐怖心よりも好奇心が勝った。やめておけばいいのに、「それで占ってくれ」とお願いしてしまったのである。

占ってくれといわれた以上、陳先生としては断るわけにもいかない。不承不承ながら、先生は隣の部屋から一握りの米粒と、古くて分厚い中国製の本を持って戻ってきた。

その米粒のなかから、私が適当にいくつかをつまみ出す。先生はその数を数える。その数に何らかの数字を加えて計算する。

次に辞書を引くように、本のなかに羅列してある漢字から、その数字に対応した一文字を選び出して紙に書きつける。

この作業を規定の数だけくり返すと、紙の上には漢字が並ぶ。最後の漢字が出そろうと、そこには漢詩ができあがっているのだ。

私の選んだ米粒の数からできあがった漢詩には、ちゃんと韻も踏んであり、立派に意味が通っていた。この結果には、占った陳先生もおどろいている。しかもそれは、私が以前にある霊能者から告げられた内容と同じだったから、さすがに私もおどろいた。

その霊能者は本人に直接会わなくても、人の持ち物をさわっただけで、その人の未来の映像が見えるという人だった。それで友人がおもしろがって、私が使っている小銭入れを持っていったのだ。

その小銭入れに触れると、彼は即座に「この人は絵よりも彫刻のほうが向いている」といった。彼は私が美大を出た絵描きだとも知らないのに、である。次に私の未来を見ると、「オヤ」といって間をおいて、「彼は全くちがうことをやり始める」といったのである。

「具体的なことは今はいわないほうがいいだろう」
彼はそういって、それ以上は何も教えてくれなかった。でも、その新しく始めることで、私がかなり成功するような口ぶりだったらしい。

この話を友達から聞いたときは、私の心には何も響かなかった。だが陳先生の「絶対当たる占い」でも、「その新しいことで錦を飾り云々」という結果だったのだ。これは本当に当たるのだろうか。

当時の私の状況からでは、どう転んでもそんな大成功を収めそうにはなかった。それはその日暮らしの今でも変わっていない。しかしこれまでは占いなんて信じてこなかったが、これはこれで「アリ」なのかもしれない。そう思うようにはなった。

漢方医学の全貌を知るために、今、改めて占術を勉強しようとすると、あのとき陳先生に教わっておけばよかったと思う。だが先生はもう中国に帰ってしまっている。連絡先もわからない。

あの占いは一体何だったのだろう。あらゆる占いを調べてみても、米粒を使う占いならいくつもあるが、あれと同じ占いは見つからなかった。

そもそも100%当たる占いがあるなら、未来は全てあらかじめ決まっているということなのか。占いで将来起こることがわかっても、それを変えられないのでは、運気を知って病気を未然に防ぐこともできないのではないか。そんな疑問が、頭のなかをグルグルとめぐり続けるのだった。(つづく)

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平日通っている整体の学校では、私が顔を出すたびに、大外先生をはじめみんなが私の気功修行の成果を知りたがる。そこで週末に習ってきたことを、「にわか気功師」の私がレクチャーすることになった。

初歩的な「気」の出し方から始まって、悪霊の払い方まで説明していると、なんだか大ベテランになったようでたいそう気分がいい。

この学校では、卒業生も自由に教室に出入りして、勝手にお互いで練習できるシステムになっている。みんなそれぞれ腕には自信があるので、身につけた新しい技を自慢気に披露するのだ。

整体では、相手の技を受けているうちに、気持ちよくなってそのまま寝てしまうことがある。すると相手に落とされたことになって、「負け」となる。ほぼ格闘技の技のかけあいなのである。

たしかに整体や柔道整復師をやっている人には、空手などの格闘技の有段者が多い。なかにはその世界で伝説といわれる人までいた。それに比べて私は格闘技どころか、アフリカンダンスを踊らされただけでいきなりギブアップしたぐらいだ。それなのに、そんな猛者たちを相手に、実際に気功を披露することになってしまった。

ちょっと無謀な気もするが、これはもう仕方がない。効果がなくたって、体に触れるわけではないから、相手にダメージはない。単に私が恥をかくだけだ。

まずは相手に治療台に横になってもらう。そしておもむろに、額から「気」を入れてみる。すると間もなく、彼はいびきをかきながら寝てしまった。効果アリ。よかったよかった。せっかくだからこのまま寝かせておこう。

隣の治療台では、次のチャレンジャーが「今か今か」と待っている。彼の額にも「気」を入れる。するとまたあっという間にいびきをかき出した。

これにおどろいたのは大外先生だ。「それなら」と3つ目の治療台に横になる。先生の体からは「絶対に落とされてたまるか」という意気込みが、熱気となって立ちのぼっている。大外先生も空手の有段者であるから、その気迫にはすごみがあった。

そこで私は、「気」だけでなく意念も使ってみることにした。意念を使ったからといって、私には相手の体のなかが見えるわけではない。それでも意念を使おうとすると、集中度が増すのである。

私の意識が大外先生のなかにグッと入り込んでいく。「さらに深く」と思った瞬間、緊張してがんばっていた先生の呼吸が寝息に変わった。

ふと我に返ると、目の前では大の男が3人並んで、いびきをかきながらグッスリと眠り込んでいる。なかなか笑える光景だ。

おかげで相手を寝かせるコツがつかめたと思う。だが相手を寝かせることに何の意味があるだろう。寝かせたからといって、何かが治るわけでもない。

実際のところ、私は気功で病気を治した経験は一度もない。それでも一応のところ、漢方医学で重視されている「気」については、大まかにはわかるようになった。とりあえず当初の目的は達成されたので、これでヨシとしよう。

ところが私が全貌を知ろうとしていた漢方医学には、もう一つ大きなテーマがあった。それは相手のホロスコープを知ることなのである。

ホロスコープとは、占星術で各人を占うための、天体の配置図のことだ。人にはそれぞれ、生まれながらにちがった「気」の性質があって、しかもそれはずっと一定なわけではない。一生のうちにはさまざまに性質が変化する。そして変化するたびに、それが体の不調として現れるのだという。

漢方医学では、その変化をあらかじめ知ることで病気を未然に防ごうとする。だから、いつどのように変化するかの運気を知るためには、ホロスコープの知識が欠かせないのだ。

その一つに奇門遁甲(きもんとんこう)がある。三国時代の蜀の軍師だった諸葛亮は、この占術を使って敵の大将の運気を調べ、運気が下がったときを見計らって攻め入ったという話もある。

同じように、人の運気を知ることは治療の役に立つらしい。そうなのか。それを聞いた以上、占術も学んでみなくてはならないだろう。私の目指すところからは遠のいている気がしないでもないが、もうこうなったら「毒を食らわば皿まで」の境地なのだった。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 035
何か得体のしれない黒いモノ、意念でしか見えないソイツは、人に取り憑いて悪さをするのだという。それはいわゆる「悪霊憑き」というヤツだろうか。

ナカバヤシ先生は、その取り憑いたヤツを「気」の力で引きはがすのだ。そのためには、まずは憑かれている人の足元のほうから「気」を送り込み、憑きモノを手の先のほうに少しずつ追い込んでいく。

そして最後に「エイッ」とばかりに「気」を操って、憑きモノを手の先から引っ張り出して床に叩きつけるのだ。このとき、決して口から引き出してはいけないらしい。口から出したらどうなるのだろう。そう考えると恐ろしくなってくる。

なかにはナカバヤシ先生ほどの達人でも引き出せないヤツがいるようだから、ますます恐ろしい。しかしそういうときには、憑かれている人の額に「気」で呪文を書いて、それを御札(おふだ)のように貼り付ける。こうしておくと、憑きモノを取り払えなくても、力が封印されて悪さはできなくなるそうだ。

これはもう香港映画の『霊幻道士』の世界である。映画のなかでは、中国の民間信仰だった道教の道士が、悪霊が取り憑いた死体(キョンシー)の額に呪符を貼って封じ込めるシーンがあった。

呪符とは、黄色い紙にニワトリの生き血で呪文を書いた御札だが、ナカバヤシ先生は、「気」の力でもって直接書き込むのである。全くディープすぎてめまいがする。しかし気功とはそもそも道教の方術の一つであって、不老不死を達成するための秘術なのだから仕方がない。

道教の秘術といえば、友人が台湾の道教寺院で、異界を旅する方術を受けた話を聞いたことがある。

さして珍しくもない造りの寺に一歩足を踏み入れると、ほとんど日の差さない暗がりのなかで、お香がもうもうと焚かれている。祭壇の前には案内役の道士が座り、その後ろに10人ほどの参加者が座る。そこで道士が何やら呪文を唱えると、参加者たちの頭のなかには共通した建物のイメージが浮かび上がってくるのだ。

その建物の前には薪が積んである。薪が多い人、少ない人、バラバラに散らかっている人などさまざまだ。薪はその人の財産を表しているので、もし少ないようなら道士が増やしてやったり、散らばっている薪を積み直したりもする。

次にイメージのなかで建物に入っていくと、正面にはやはり祭壇があって、そこには自分の配偶者となる人の写真が置いてある。その横には、自分の寿命を意味するろうそくが立っているのである。こんな話が延々と続いて、もっと強烈な話も聞いた。

しかしこの異界への旅の映像は、その場のだれもが見えるわけではない。人によってはぼやけていたり、全く何も見えてこない人もいる。気功を極めると、こういう世界が広がるというか、深まっていくものらしい。

ナカバヤシ先生からも、中国のとんでもなくスゴイ人を見てきた話を聞いた。

もう30年以上前、中国で気功の全国大会が開かれた。そこに集まった腕自慢たちはそれぞれの得意技を披露する。「気」の力で相手を吹っ飛ばすのはもちろんのこと、テーブルの上の大皿を、「気」の力でUFOのように自在に飛ばしてみせる人もいた。

なかでも極めつけは、見た目は小柄な老人だった。彼は力むこともなくスッと登壇したかと思うと、壁に自分の右肩と右腰をつけて立った。そして肩と腰を壁につけたまま、左の脚を高々と頭の上まで上げてみせたのだ。

「??」

それがどうしたというのだろう?これを聞いたときには全く意味がわからなかった。私がキョトンとしているのを見ると、ナカバヤシ先生はニヤッとして、「やってごらん」という。そこで自分で試してみると、初めてその意味がわかった。人体の構造上、そんなことは絶対にできるはずがなかったのだ。

こういった話が事実なら、気功というのはやはり底なし沼のごとく、深くふか~くはまりこんでいくトンデモない世界なのである。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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「私は気功に向いているのかもしれない」

そう思うと練習が楽しくて仕方がない。毎週、日曜にナカバヤシ先生のお宅に行くのが待ち遠しいほどだった。夢中で通い続けてしばらくたったころ、ようやく治療のための気功を教えてもらえることになった。

治療に使う「気」というのは、相手を倒すための「気」とは全くちがった種類なのである。しかも漢方医学では、各臓器ごとにそれぞれちがった「気」があって、気功師は患者の病態に合わせて、それらの「気」を使い分けて治療に当たるのだ。

たとえば、胃の「気」が弱くなったり強くなりすぎたりすると、胃が病気になる。それに対して気功師は、自分の胃の「気」を患者の胃に送ってパワーを補ったり、逆に強すぎる「気」を弱めたりする。そうやって「気」のバランスをとることで胃の病気を治すのだという。

気功で病気治療をやるには、まずは自分のそれぞれの臓器から、「気」を出せるようにならなければならない。なかでも気功治療でもっとも重要なのは、腎臓から出す腎気(じんき)である。

腎気は生命の「気」とも呼ばれる。したがって、治療で無闇に腎気を使っていると、自分の生命エネルギーが無くなってしまうのだ。だから腎気を使うのは、よほど重病の人を治療するときに限定し、しかも少量を効率よく使わなくてはならない。

これらの「気」をちゃんと使い分けられるようになって初めて、気功治療が行えるようになる。つまり、なんでもかんでも「気」を出せればいいというものではない。そこがバトルのときとちがうところである。

また同じ「気」でも、その質には良し悪しがある。良くない「気」は邪気と呼ばれる。邪気は病気の原因になるので、すみやかに取り払わなければならない。

ところが気功師が邪気を払おうとすると、そいつがモゾモゾと手から入り込もうとする。だからこそ、自分を守るためにも、邪気を払う技術は非常に重要になってくるそうだ。

なんだか恐ろしげな話である。ここでひるんでいる場合ではないので、まずは一つ一つの内臓に対応した「気」の出し方から練習する。

確かに、相手を倒すときに出す「肺気」とちがって、治療目的の「気」を出すには相当繊細なテクニックが必要だ。イメージした臓器から「気」が出せているのか、自分ではよくわからない。確かめようにも確かめようがないところもむずかしい。

ここまでで、とりあえず気功治療への理解は深まったと思うが、果たしてこれで本当に病気が治るのだろうか。ここがいちばん肝心なところである。

そういえば、まだナカバヤシ先生が病気を治しているところは見たことがない。一度見てみたいものだ。そう考えていたら、ちょうど腰が痛み始めた。われながらなんと都合がよい体ではないか。

そこで恐る恐る、先生に気功で腰を治してもらえないか頼んでみた。すると先生は「ヨシッ」と応じて、私の腰に手を当てた。手を当てて「気」を入れるときには手の平を患部に密着させる。こうすると、「気」をもらさず体内に送り込めるのだ。

手を当ててもらっていると、ジンワリと腰に心地よさが伝わってくる。手のぬくもりのせいかもしれないが、3分もするとなんとなく腰が軽くなってきた。さきほどまでのズキズキとした痛みも消えたようだ。

これが「気」の効果なのだろうか。仮に単なる気のせいだったとしても、私の体感では気功治療に効果はあるようだった。

先生の話では、今のは「気」による治療だが、たいへんな病気のときには意念の力もいっしょに使うらしい。

丸めた紙の内側の字を読みとってみせてくれたときのように、意念でもって相手の体のなかを見ていく。そこで何か悪いモノが見つかれば、意念の力で焼き払うか、外から「気」を送り込む。この方法で難病を治療するのだという。

ところが「気」というのは、必ず強いほうから弱いほうへと流れる性質があるので、もしこちらの「気」が患者よりも弱ければ、治療効果も小さくなる。

しかし力の差がはっきりしていれば、「気」を受けた側はほぼ眠ってしまう。今回、私は先生から「気」を入れられても眠らなかった。すると、私の「気」の力は強いと思ってよいのだろうか。

さらに意念の目で見ていくと、体に黒いモノがへばりついている人がたまにいるらしい。その黒いモノはひどい悪さをするので、すぐに取り去る必要がある。しかしそれに対処するには、これまた特別な方法があるのだという。

もうこうなってくると、私の理性では判断もつかないほど、あちら側にはディープな世界が展開しているのだった。(つづく)
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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 033
さあ今日から気功の修行が始まる。私はいくつか電車を乗り継いで、ナカバヤシ先生の自宅がある埼玉県の郊外まで出かけていった。

ナカバヤシ先生は痩せ型の50代ぐらいで、ちょっと見は中国人の風貌をしている。弟子はとらないと聞いていたが、今日はほかにも習いに来ている人がいて少しホッとした。

みんなで初対面のあいさつをすませると、すぐに先生は気功の説明に入った。そのなかで、先生は気功のほかに意念という技も使えると聞いてワクワクしてきた。

気功では、自分や相手の「気」を操作して武術や治療に応用する。「気」は一種の物理的なエネルギーだが、意念となるといわゆるサイキック的なエネルギーなのである。

そのため「気」は距離が離れると弱くなるのに対して、意念なら距離とは関係なく、どこまでもパワーを飛ばせるのだという。どちらも、自分のなかでどれぐらい明確にビジュアルがイメージできるかがポイントらしい。

「では試しに」といいながら、先生はそばにいた練習生の一人をうつ伏せにならせる。すると彼の左脚は右よりも短くなっていた。それをみんなで確認したあと、先生は手も触れずに、「気」の力だけで両脚の長さをそろえてみせた。まわりでは「へーー」と感嘆の声が上がる。

次に先生は、向こうの机の上にあった白い紙を持ってきた。そして私に、なんでもいいから隣の部屋で文字を書いて、外から見えないように紙を丸めて持ってきなさいといった。

私はいわれた通り、紙に適当な文字を書きこんでからクシャクシャに丸めて手渡した。もちろん私が何を書いたかは、先生にはわからないはずだ。それなのに、先生は紙に書かれた文字を、次々に正確に言い当てたのである。

そんなことができるわけがない。なんだかだまされているような気がする。しかしここで使われた意念とは、紙を広げるのではなく、丸められた紙のなかに入っていって、そこに書かれた文字を読み取ってくる力のことなのだ。

さすがにすぐには信じられなかったが、以前にも似たような体験があったのを思い出した。ある霊能者と呼ばれる人から、私がイメージした映像を事細かに言い当てられたのである。あれも意念だったのかもしれない。

やはり「気」や意念とは、意識のなかでビジュアル化した世界なのだろう。それが腑に落ちたおかげで、なんとなく概要がつかめた気がする。

ここまで来ると、もう実技の練習に入った。
まずは椅子に座って両手を前に出す。その両手の平でボールを持つような形を作る。そのボールを持ったまま、腹式呼吸をしながら、ボールのところに「気」を溜めていく。これを20分ほどくり返すのである。

やってみたらわかるが、20分は長い。ずっと腹式呼吸をくり返していると、それだけで何か自分のなかで感覚が変わっていくのがわかる。

次に、その溜まった「気」を、自分の体のすみずみにまで巡らせる。すると実際に「気」が体を巡っているのが体感できた。「気」というのは本当に存在していたのだ。

そこまでできたら、今度は溜まった「気」をほかの練習生と飛ばし合うことになった。2~3メートル離れたところに立って、お互いに「気」のやりとりをするのである。

「気」を出すときは、目線で「気」の通り道を決めてから相手に渡す。逆に、「気」を受けるときは、側頭部あたりのある一点に集中して感じとるように意識する。こうやって「気」を出す、受けるをくり返していると、はっきりと「気」のパワーを感じられるようになった。

しばらくこの練習を続けたあと、今度はバトルが始まった。「気」のパワーで相手を倒すバトルである。

気功では、自分の「気」だけでなく、相手が出した「気」も自分のパワーとして使うことができる。だから、相手の「気」を上体に集めて重心を上にしておいて、こちらから出した「気」で足元を払うのだ。

これがうまくいけば相手が倒れる。しかし、相手も負けじと私の「気」を逆手にとって攻撃してくる。力が拮抗していると、なかなか勝負がつかない。そこがまたおもしろくて熱が入る。

実感として、バラエティ番組で呼んだ気功師の動きが理解できた。これは太極拳の動作にも似ているだろうか。『ドラゴンボール』のカメハメ波だという人もいた。確かにマンガの世界のようだが、それでもしばらく真剣にバトルを続けていると、少しずつコツがつかめてきた。

試しに相手の足元をすくい上げるようにひねりの力を加えておいて、こちらから強い「気」を上体に向かってぶつけてみた。すると相手がヨロッと倒れそうになった。

「お、効いた!」

どうも私には気功の才能があるのかもしれない。そう思うとうれしくなって、どんどん深みにはまっていくのだった。(つづく)
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