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私が学生のころ、池袋の怪しいエリアに文芸坐という映画館があった。たしか当時の学割で、3本立てが100円で見られたと思う。

私が学生のころ、池袋の怪しいエリアに文芸坐という映画館があった。たしか当時の学割で、3本立てが100円で見られたと思う。
私は子供の時分から映画が好きで、学校帰りに近所の映画館に通っていた。東京に出てきてからも、お金もないのに映画館にだけはよく行った。映画館をはしごして、月に100本以上見ていた時期もある。
その日は黒澤明監督作品が3本100円で見られるとあって、いつもより混み合っていた。席がないので通路に立ったまま見たなかの1本が、あの名作「生きる」だったのだ。
そこでは志村喬演じる主人公が末期のがんだと宣告されたあと、公園のブランコに揺られながら、「い~のち~みじ~かし~」と「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが印象に残っている。
ところがあの映画を見たころは、がんという病気の生々しい現実など全くわかっていなかったのだ。末期の肺がんで治療中の芳子さんが、日々おそいかかる激痛にのたうち回り、助けを求める姿は心が引きちぎられるような光景でもあった。
あまりの痛みにモルヒネまで処方されるようになっても、私には何も手助けできない。それでも病室にだけは顔を出していた。行きも帰りも足取りは重い。気が晴れる瞬間もないまま、来る日も来る日も通いつづけた。
そんなある日、病室に入って芳子さんの顔を見ると、ふしぎな感覚におそわれた。どこかおなかの深いところから、何かがこみ上げてくるのだ。それを感動などという言葉では表現できない。ただ、今生で芳子さんと出会えて良かったという、強い喜びにも似た感情が体全体を満たしていた。
芳子さんの目を見ると、今、私と全く同じ感覚に包まれているのがわかる。そのせいで、芳子さんはがんの苦しみも忘れ、私を見つめて「うれしい、うれしい!」といいながら大粒の涙をこぼしている。
ベッドのかたわらにいた家族には状況がわからないので、「おばあちゃん、いきなりなに泣いてるの。薬のせいでボケたのかしら」とつぶやいていた。私も涙があふれそうになったので、芳子さんに向かって少しうなずいてから、そっと病室を出た。
芳子さんが亡くなったのは、それから数日後のことである。お葬式では、他の参列者はだれ一人として泣いていなかった。それなのに、私だけ涙があとからあとからあふれてくる。
その涙のわけは、単に芳子さんとの別れのつらさからではなかった。人をあやめてしまった犯人は、被害者を手にかけたときの感触が、その手にいつまでも残り、罪の意識にさいなまれつづけるのだという。その慚愧(ざんき)の情にも似ているだろうか。
もともと美術家である私は、対象を視覚や触覚で覚える訓練をしている。その記憶は、時間がたってもなかなか消えることがない。患者さんの名前は忘れてしまっても、施術したときの体の状態は私の手のなかに刻みこまれていて、決して忘れることができないのだ。
今、芳子さんの肉体はこの世にはなくても、その形や感触は私の手のなかでいつでも再現できる。これから先、私はこの記憶をどうしたらよいのだろう。
この仕事を始めてからというもの、患者さんを治せたときの手の感触は、喜びとなって私に跳ね返ってきていた。しかし今残っているのは無力感だけだ。
私が必死になって習ってきた整体も、気功も、占いも、これはと思って始めたことは、ただの身過ぎ世過ぎの手段にしかならなかったのか。もうこんな仕事なんかやめちゃおうか。私には、もうこの仕事をつづけていく目的も、気力もなくなってしまった。
だがこの世を去る前の芳子さんと共有した、あのふしぎな感覚は何だったのか。その記憶だけが私をこの仕事につなぎとめ、どこかへ導いてくれているようだった。(つづく)