小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:池袋

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私が学生のころ、池袋の怪しいエリアに文芸坐という映画館があった。たしか当時の学割で、3本立てが100円で見られたと思う。

私は子供の時分から映画が好きで、学校帰りに近所の映画館に通っていた。東京に出てきてからも、お金もないのに映画館にだけはよく行った。映画館をはしごして、月に100本以上見ていた時期もある。

その日は黒澤明監督作品が3本100円で見られるとあって、いつもより混み合っていた。席がないので通路に立ったまま見たなかの1本が、あの名作「生きる」だったのだ。

そこでは志村喬演じる主人公が末期のがんだと宣告されたあと、公園のブランコに揺られながら、「い~のち~みじ~かし~」と「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが印象に残っている。

ところがあの映画を見たころは、がんという病気の生々しい現実など全くわかっていなかったのだ。末期の肺がんで治療中の芳子さんが、日々おそいかかる激痛にのたうち回り、助けを求める姿は心が引きちぎられるような光景でもあった。

あまりの痛みにモルヒネまで処方されるようになっても、私には何も手助けできない。それでも病室にだけは顔を出していた。行きも帰りも足取りは重い。気が晴れる瞬間もないまま、来る日も来る日も通いつづけた。

そんなある日、病室に入って芳子さんの顔を見ると、ふしぎな感覚におそわれた。どこかおなかの深いところから、何かがこみ上げてくるのだ。それを感動などという言葉では表現できない。ただ、今生で芳子さんと出会えて良かったという、強い喜びにも似た感情が体全体を満たしていた。

芳子さんの目を見ると、今、私と全く同じ感覚に包まれているのがわかる。そのせいで、芳子さんはがんの苦しみも忘れ、私を見つめて「うれしい、うれしい!」といいながら大粒の涙をこぼしている。

ベッドのかたわらにいた家族には状況がわからないので、「おばあちゃん、いきなりなに泣いてるの。薬のせいでボケたのかしら」とつぶやいていた。私も涙があふれそうになったので、芳子さんに向かって少しうなずいてから、そっと病室を出た。

芳子さんが亡くなったのは、それから数日後のことである。お葬式では、他の参列者はだれ一人として泣いていなかった。それなのに、私だけ涙があとからあとからあふれてくる。

その涙のわけは、単に芳子さんとの別れのつらさからではなかった。人をあやめてしまった犯人は、被害者を手にかけたときの感触が、その手にいつまでも残り、罪の意識にさいなまれつづけるのだという。その慚愧(ざんき)の情にも似ているだろうか。

もともと美術家である私は、対象を視覚や触覚で覚える訓練をしている。その記憶は、時間がたってもなかなか消えることがない。患者さんの名前は忘れてしまっても、施術したときの体の状態は私の手のなかに刻みこまれていて、決して忘れることができないのだ。

今、芳子さんの肉体はこの世にはなくても、その形や感触は私の手のなかでいつでも再現できる。これから先、私はこの記憶をどうしたらよいのだろう。

この仕事を始めてからというもの、患者さんを治せたときの手の感触は、喜びとなって私に跳ね返ってきていた。しかし今残っているのは無力感だけだ。

私が必死になって習ってきた整体も、気功も、占いも、これはと思って始めたことは、ただの身過ぎ世過ぎの手段にしかならなかったのか。もうこんな仕事なんかやめちゃおうか。私には、もうこの仕事をつづけていく目的も、気力もなくなってしまった。

だがこの世を去る前の芳子さんと共有した、あのふしぎな感覚は何だったのか。その記憶だけが私をこの仕事につなぎとめ、どこかへ導いてくれているようだった。(つづく)

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ヒロコさんが旅立ってしまってからも、彼女が遺した「あったかい」という言葉は、私の耳に響き続けていた。

あのときお腹に軽く手を当てただけで、死にゆく人に向けて言葉にならない気持ちを伝えることができた。言葉ではなく、触れることでしか伝えられない思いもあるのだろう。これは私にとって大きな気づきだった。

美術の世界にいたころは、私が触れる対象は単なる「物」でしかなかった。その対象が物から人の体へと変わり、触れることが治療として役立つようにもなっていた。そればかりか、触れるという行為は、言葉を超えた感情を伝える役割まで果たせるのだ。

それほどの大役であっても、触れるための特別な技術など要らない。これまでの私は、美術作品を作り上げるためだの、病気を治すためだのといって、一生懸命に技術ばかりを高めようとしていた。

しかしそんな大それたことなど考えなくともいい。触れるという行為そのものに大切な意味があったのだ。この気づきによって、急に肩の荷が降りた。

「何も治せなくたっていい。ただ、この道を進んでみよう」

やっとそう決心できた。

「それでいいのよ」

ヒロコさんも、そういってくれているような気がする。

もちろん「治せなくてもいい」とはいえ、やっぱり治せる人にはなりたい。だが、それを本業にするとなると、医大に行くか、何か国家資格を取るための専門学校に行かなければならないだろう。それは今の私にはどちらもハードルが高すぎる。何年も学校に通えるほどのお金のゆとりもない。

しかし民間療法なら、国家資格がなくても開業できるものもあるらしい。そのための学校もあると聞いたので、早速電話ボックスに置かれた電話帳を開いてみる。そこで池袋の整体学校を見つけた。電話で見学を申し込むと快く受け入れてくれた。

思い立ったが吉日だ。そのまま山手線に揺られて池袋まで出かけた。駅の雑踏を抜けてしばらく歩いていくと、学校があるはずの住所まで来た。ところがそこに立っているのは、いかにも場末な雰囲気を漂わせる雑居ビルである。

一瞬たじろいだが、ビルの暗い階段を上ってドアを開けると、そこには白衣を着た先生たちが、5~6人の生徒を相手に指導していた。とりあえず学校としての実体はあるようで、少しホッとする。

だがなかに入ると、室内がやたらと煙い。治療台の横に立っている灰皿にはタバコの吸い殻が山と積まれ、床にまでこぼれ落ちている。先生も生徒もおじさんばかりで、むさくるしい。これはどこかで見た光景だ。

そうだ、雀荘だ。そう思えば親しみも湧く。しかしここは整体の学校だったはずだ。それなのに、あまり人様の健康を預かる雰囲気ではない。これが普通の人なら「ここはちょっと…」と躊躇する場面だろう。

ところがなぜか今の私には、しっくりとなじめそうな気がした。しかもそこにいる先生も生徒も、みんななんだかえらく楽しそうなのだ。

「よし、ここに通おう」

そう決めた私は受講を申し込んだ。そして手渡されたかんたんな申し込み用紙を見て、初めて大事なことに気がついた。住所を書き込もうにも、今の私には住所がない。私はホームレスだったのだ。

そうなると学校の申し込みどころではない。住民票が先である。そこにいた先生には「また来ます」とだけ告げて、急いでアパートを探しに出かけた。

しかしアパートを探すといっても、インド帰りの無職で住民票もない人間に、部屋を貸してくれるところなどない。そうでなくても、アパートを借りるには保証人だの収入証明だのと厄介なのだ。

何より、私の風体そのものが怪しいときている。私が不動産屋の立場でも、絶対にこんなヤツに物件なんか紹介しない。それはわかっていた。ところが何軒も断られ続けて途方に暮れかけたころ、やっと部屋を貸してくれるところが見つかった。六畳一間ながら、歩いて15分ほどで渋谷駅まで出られるのだから文句はない。

これで住所が決まった。整体の学校の入学手続きもできた。こうしてやっとこさ、いそうろう生活にも終止符を打ち、私の新たな人生が始まったのだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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