小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:海外生活

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 小説『ザ・民間療法』挿し絵027

インドから帰国してしばらくたつというのに、私にはまだ住む家がない。あいかわらず友人たちの家を転々とする暮らしが続いていた。今どき、いそうろうなんてメイワクだろうと思うが、どこの家でもごちそうを用意してもてなしてくれる。

学生時代に、地方出身の友人の実家を泊まり歩いていたころを思い出す。われながら、ずうずうしいとはこういうヤツのことだと思う。しかしそんな心づくしのごちそうのおかげで、少しずつ食欲が回復し、インド暮らしで失った体重とともに、本来の体力ももどってきた。

そこでささやかではあるが、お礼として今までの治療法に加えて、インドで覚えたオイルマッサージを披露してみた。するとみなたいそう喜んで、口々に「プロになったらいいのに」といってくれるのだ。

半分お世辞なのはわかっている。それでも内心では、これを生業にできたらいいなと思い始めていた。もちろんお金をもらうとなると、ちゃんとそれなりの勉強をしなければいけないはずだ。そんなことを考えていると、インドで別れた友人たちのことが頭をよぎった。

みんなどうしているだろう。あのときのメンバーのうち二人は、一旦帰国したあと日本での生活をすべて捨てて、ネパールに移住してしまったらしい。その話を人づてに聞いて、あれがきっかけだなと思える出来事を思い出した。

インドに行くとき、私たちは最初にネパールに飛んでからインドに入った。その際、メンバーの一人に連れられて、ネパールの首都であるカトマンズから、車で1時間ほどのところにある孤児院を訪問したのである。

かわいそうな子供たちのために、学用品の一つでも贈りたいと思って出かけたのだ。だがいざ着いてみると、私たちが目にしたのは、身なりこそみすぼらしいが、まばゆいばかりの笑顔に包まれた子供たちの姿だった。その輝きは、徳の高い聖人の一団にでも会ったような衝撃だった。

もともと子供が苦手な私でさえ、子供たちの笑顔に引き込まれ、夢中になって彼らといっしょに遊んだ。友人たちもその世界に完全に魅了されていた。まちがいない。あの体験が彼らをネパール移住へといざなったのである。

そうして彼らは日本での仕事を捨て、ボランティア活動に入っていった。私だって、あの後オーロビルに行っていなければ、彼らと行動を共にしていたかもしれない。

ふと気になって、仲間の一人だったヒロコさんにも連絡してみた。だが、なんだか電話口の声が変である。私より一回り上の50代だが、はじけるように快活な姿が印象的な女性だったのだ。それなのに、電話口から聞こえてくる声は、あまりにも弱々しいのである。

聞けば、帰国後に胃がんが見つかって手術までしたが、すでに末期だからダメらしい。治療としてはもう打つ手もないので、家で療養しているのだという。

あわてて彼女の家に向かう。京王線の駅を降りてしばらく歩くと、落ち着いた感じの住宅街にヒロコさんの家があった。ドアの前で深く息を吐いてから呼び鈴を押す。しばらくしてドアを開けてくれたのは、いっしょに暮らしているご主人だった。

案内された部屋に入ると、そこにはやつれ果てて、肩でやっと息をしている彼女の姿があった。そんな状態でも、私の姿を見るとなんとか笑顔を見せようとしてくれる。そのしぐささえ、体に負担が大きいようで痛々しい。

こんなときにどんな言葉をかけたらいいんだろう。この場にふさわしい言葉など何も浮かんでこない。浮かぶ言葉のすべてが空疎に感じられる。どうにかして励ましてあげたい。言葉にならないこの気持ちを、手でも握って伝えたい。しかし年が一回りも離れているとはいえ、ご主人が見ている前ではそれもはばかられた。

行き場のない手のひらを、そのまま彼女の手術したお腹にそっと当ててみる。するとヒロコさんは一言、「あったかい」とつぶやいた。そして消え入りそうな声で、「私、なんだか死なない気がする」といった。

それが今の心境なのだろう。もともと彼女は、あの世があることに確信をもっていると話していた。魂は永遠なのだから、死の恐怖ももっていないようだ。

だけど私は、そうかんたんにあの世になど行ってほしくない。それが正直な気持ちだったが、それを伝えることも酷な気がした。長居しても負担になるだろう。何もできない強いもどかしさを抱えたまま、「それじゃ、また…」といって私は部屋を後にした。

それから2日が過ぎたころ、ご家族から「逝っちゃった」と連絡があった。あのヒロコさんが死んだのだ。その現実を受け止め切れないまま、私はまた京王線に乗って葬儀場へと向かった。棺のなかに横たわる彼女の安らかな顔を目にしても、私には実感がない。

「人って本当に死ぬんだな」

そんなまぬけな思いしか浮かんでこない。そして足元に落ち続ける自分の涙を、ただぼんやりと見ていた。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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小説『ザ・民間療法』挿し絵026


久々の日本は真夏だった。
ところが連日40度を超すインドの気候に慣れた身には、30度台では暑くない。むしろ寒い。栄養失調でガリガリに痩せた体ならなおさらだ。

こんなときは家でゆっくりと温かいフロにでも浸かって、長旅の疲れをいやしたい。

だが、私には帰る家がない。日本を出るとき、家どころか生活道具から住民票にいたるまで、一切合切を捨ててインドに渡ったのだから、今の私はホームレスなのである。

どうしよう。
国籍だけはあるから、何とかなるか。しかし現実はそれほど甘くはない気もしてきて、成田空港の到着ロビーでしばし考え込む。

そういえば出国のとき、友人たちは「帰ってきたら寄りなさい」といってくれたはずだ。それを思い出して、胸のなかにポッと灯りがともる。

イヤ待て。
転居通知のハガキに「お近くにお立ち寄りの節は」と書かれていたって、文面通りに新居に押しかける人などいないではないか。

迷惑かな。そりゃメイワクだよな。
ところがどっこい、私はインド帰りである。彼の地では、ダメモトで何でもいうだけはいってみるものなのだ。

怖じ気づいている場合ではない。とりあえず手帳にメモしてある友人にかたっぱしから電話して、「泊めてくれ」と頼んでみた。すると予想外に、だれも断らない。みな快く受け入れてくれたのである。

ありがたい。これで当面の居場所は確保できた。
まずは、銀行通帳と印鑑を預けてあるマリちゃんちに行こう。この通帳と印鑑だけが、日本での私の持ち物の全てだから、受け取るついでに泊めてもらうことにした。

つかの間の安心感に包まれた私を乗せて、リムジンバスが静かに走り出す。車窓を流れていく風景を眺めていると、ふと私の周りに異空間が広がり始めた。

何かがちがう。
インドでは都会はもちろん田舎だって、どこへ行っても混沌とした喧騒がやさしく私を包んでいた。

ところが日本では、これだけ大勢の人がいても叫ぶ人など一人もいない。こんなに車があるのに、けたたましいクラクションの音も聞こえてこない。

バスが走っても土ぼこりも立たない。デコボコ道で揺れて、バスの天井に頭を打ちつけることもない。高速道路には牛もラクダもいない。

大きく息を吸い込んでみても、あの濃厚な花の香りもスパイスの匂いもしない。まして、シートの下にコブラやサソリも隠れていない。こんな「ないない尽くし」の日本では、周囲の人間から身を守る必要すら「ない」のだ。

だがこの雰囲気は、あまりにも安全過ぎて身の置きどころがない。安全と安心はちがうというが、戦地から帰還した兵士もこんな感覚なのだろうか。いや、インドを戦地と比べてはインドにも兵隊さんにも失礼だ。

そういえばインドから帰国した人間の一部は、ある風土病に感染しているらしい。一度この病気にかかると、せっかく母国に帰っても一向に環境になじめないのだという。

「かぶれ」と呼ばれるこの風土病は、インド型のほかにアメリカやヨーロッパなどの西洋型もあるようだ。語尾に「ざんす」がつく「おフランス型」、何かと肩をすくめてみせる「アメリカ型」などの症状は有名だが、「インド型」にかかった人は、他人に会うとつい両手を合わせて「ナマステ」と口走る。

症状はファッション感覚にまで及び、色褪せたTシャツに冬でも素足に革サンダルを好むようになってしまう。こうなると外から見ただけでも診断がつく。私のなかに立ちのぼってくる周囲への違和感からすると、私もすでに感染しているのかもしれない。

そんなことを考えているうちにリムジンバスは終点に着いた。そこでは出国前と変わらぬ笑顔でマリちゃん夫妻が出迎えてくれた。

その懐かしい顔を見てホッとしたが、バスを降りた私を見た二人は、口々に「痩せたね~!」「焼けたね~!」といって目を見張る。

インドなら、どれだけ痩せていようが日焼けしていようが全く目立たないが、彼らの目にはいかにもインド帰りに見えたことだろう。

そんな久々の再会を祝って、マリちゃんの夫のコタくんが、「まあ、1本」といってタバコをすすめてくれる。

「お、紙巻きだ」

インドでは、乾燥させたタバコの葉を丸めただけのビリが一般的だから、紙巻きは高級なのである。ありがたくおしいただいてから、火を着けて一息つく。

すると今度は「どうだ、軽くなっただろう?」とコタくんが同意を求めてくる。

「ホウ?」
私が手のなかでタバコの重さを確かめていると、二人が顔を見合わせる。その表情から察するに、どうやら私はかなり妙になっているようだ。

「タバコが軽い」といえばニコチンやタールの話だし、日本では紙巻き以外のタバコのほうが珍しい。そんなことはすっかり忘れていた。

そういえばインドでは、日本語を使う機会がほとんどなかった。コミュニティのメンバーとの夕食の際、それぞれの国でネコのことを何というかが話題になったことがある。

スペイン、フランス、ドイツと回ってきて、いざ私の番になったら、ネコという言葉が出てこない。「あれ? キャットはキャットだろう」という言葉だけが頭のなかで繰り返されていた。

自分でも脳血管障害かと疑ったほどだから、私の「かぶれ」は帰国よりずっと以前に発症していたのかもしれない。

その場を何となくごまかして、やっとたどりついたマリちゃんの家でも、食事のときに私は両足を床に降ろすことができなかった。

それからしばらくたっても、靴のなかに何もいないか確かめてからでないと靴が履けないし、ペットボトルの飲料を買ったら、キャップが開いていないかも入念にチェックする。サンダルを買うときには、左右のサイズが同じかどうかを確かめている自分にも気がついた。

まちがいない。劇症のインド型だ。もちろん治療薬などないから、ただひたすら自然治癒を待つしかない。

こじらせてさらに重症化するようなら、日本での暮らしに支障が出る。そうなるともうインドへもどるしかないが、それは私の体力ではムリなのだ。

そうだ。私は体力を回復するのが先決だ。
マリちゃんちに2晩泊めてもらってから、次の友だちの家に向かう電車のなかで、そう心に決めた。体力さえもどれば何とかなる。あとのことはそれから考えればいいだろう。(ナマステ)(つづく)


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020 小説『ザ・民間療法』挿し絵020
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オーロビルでは毎年4月ごろから急に暑くなる。日によっては夜でも室温が40度から下がらない。暑いだけではない。ここは南インドでも海岸に近いため、その分、湿度も高い。そのせいで寝苦しい夜が続くのである。

部屋には扇風機が置いてあるが、つけたところで熱風をかき回すだけで、全く涼しくはならない。しかもここではちょくちょく停電が起こるから、暑すぎて寝具の上になど寝ていられない。そんなときは、部屋の床が石畳になっているので、その上に直に裸で横たわる。そしてバケツに汲んできた水を、体に少しずつかけてやる。すると気化熱のしくみで若干涼しくなる。そのすきに少しだけ眠るのだ。

そんな暑さが続いたある日、朝からなんだか寒気がした。異常に体が寒い。室温の高さは相変わらずなのに、持っている服を全部着込んでもまだ寒い。ガタガタと震えが止まらないのである。何が起きたのか。高熱でも出ているのだろうが、もちろん体温計など持っていない。あったとしても計る気力すらない。

こういうときは、とにかく水分だけは十分にとらないと危険だ。そんなことを考えているうちに頭にモヤがかかってきた。だんだんと意識が遠のいていくのがわかる。その薄らいでいく意識のなかで、「このまま死ぬのかな」とぼんやり考えていた。

それから何時間たっただろうか。意識が戻った。見上げると、カーテンの向こうが明るい。これは、その日のままなのか、翌日なのかもわからない。起き上がろうとしたら、ふらついて立つこともできない。

這うようにして、いや実際にオオトカゲのようにズルリズルリと這っていって、ようやく体が半分だけ部屋の外まで出た。私の頭に容赦なく照りつける陽射しがまぶしい。そのまま転がって息を整えていると、異様な姿の私を見て、スイス人のユルグがかけ寄ってきた。

「高熱が出て死んでいた」と伝えると、あわてて水を持ってきてくれた。「今日は火曜か」と聞いたら、もう水曜になっていた。気を失ってからそのまま一昼夜も寝ていたのである。よく脱水で死ななかったものだ。自分の生命力には少し感心した。

ユルグは食べ物も勧めてくれたが、全く食欲がない。彼に肩を借りて、ベッドまで戻って横になる。するとユルグに聞いたのか、マルコの奥さんのエレーナまでが、何か持ってきてくれた。

「こんなとき、日本人なら味噌汁がいいでしょ」
そういって差し出されたのは、わざわざ自分で作ってきてくれたスープだった。ありがたい。せっかくの心遣いなので、がんばって少し口に入れてみた。

「はて?」彼女は確かにミソスープといったはずだ。だが味噌汁の味ではない。今私が口にしているこの液体はいったい何だろう。今まで一度も口にしたことのない味である。熱のせいで味覚までおかしくなったのか。うまいまずいの判断すらつかない。どっちにしても病体にはこの味噌汁は酷だった。

日本食といえば、前に友だち数人と連れ立って、カトマンズの日本料理屋に入ったことがある。席についてメニューを見ると、そこには「カツ丼、すき焼き、うどん」といった字が並んでいる。きっとネパール風味だろうが、懐かしさに胸を踊らせながら、それぞれが別の料理を注文した。

ところが出てきた皿を見ると、そこに乗っているのはネパール風どころか、どれも初めて見る料理ばかりだった。恐る恐る口に入れてみたが、見た目だけでなく味までも、どれがどれだかわからない。懐かしさなど微塵も感じられない味だった。

この得体の知れない日本料理は、あのころの海外の日本料理店では定番だった。そんな記憶が一瞬のうちに頭をよぎったが、エレーナの親切心だけは忘れまい。

数日たって、少しずつではあるが体調が回復してきた。するとあれほど寒かったのに、インドの暑さもしっかり復活してきた。寒いのもつらいが、この暑さはやっぱり耐えがたい。

それにしても、私を気絶させるほどのあの高熱の原因は何だったのか。エレーナの味噌汁同様、全く未知の体験だった。ただしこの体験を通して、人はそうかんたんには死なないものであることと、自然治癒力のありがたさを実感した。そうだ。今度エレーナに会ったらお礼をいって、あの味噌汁が何でできていたのかも聞いてみなくてはならない。(つづく)

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019 小説『ザ・民間療法』挿し絵019
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ここから少し離れたところにあるコミュニティには、パワーストーンを扱う人たちがいる。出かけて行くと、色も大きさもちがう珍しい石がズラリと並んでいる。説明によれば、石にはそれぞれちがったパワーがあって、水晶などはヒーリングにも使われるのだという。確かに、サソリに刺されたときに貼り付ける黒い小石は、オーロビルでも治療用の実用品と考えられていた。

私に石の説明をしてくれた白人女性が、漬物石ぐらいある大きな石に手をかざして「ほら、これなんかすごいパワーが出ている」といって私に同意を求めてきた。しかし私が手をかざしてみても何も感じない。「ハァ…」と気のない返事をするしかなかった。そういう私でも、しばらくインドで暮らしているうちに、マカ不思議なものに対して許容度が増してきた。

そもそもインドではごく一般的なこととして、石には力が宿っていると考えられている。ヒーリングの効果があることも信じられているから、宝石を指輪に埋め込むときにも、わざわざ石が直接指に当たるように細工してある。

日本では、大人の男性なら石のついた指輪などしている人はまずいない。ところがインドでは、宝石は財産や装身具であると同時に、パワーストーンの意味合いも強い。だから男性でも宝石を指輪にしてはめるのはふつうのことなのだ。

身につける装飾品には、ヒーリングだけでなく魔除けの目的もあるせいか、コブラやサソリをイメージしたデザインも多い。女性であれば、ペンダントやブレスレット、アンクレットをすることで魔除けの効果がさらに強化される。ブレスレットなどは、無垢の銀や真鍮(しんちゅう)でできたごついものもあるが、それらはむちゃくちゃ重い。きっと重たい分、効果も絶大だと考えられているのだろう。

魔というのは、首や手首、足首から入ってくるものであるらしい。だから、日本の坊さんが数珠を手首や首にかけるのも、アイヌの着物の袖口や裾にギザギザの三角模様があしらってあるのも、そこから魔が入り込むのを防ぐためなのである。

それでは魔とはいったい何だろう。昔も今も人間にとっての最大の魔とは病魔である。病気になるのは、病魔がとりついたせいだと考えるのは世界共通だ。その魔から守り、癒やしてくれるのがパワーストーンの役目なのである。

そういえば以前、こぶし大もあるトルコ石の原石を首からぶら下げて、鼻輪までしている部族に会ったことがある。彼らはヒマラヤのふもとの村に住んでいる。外国人がそこまで行くにはインド政府の許可が必要なので、単なる観光ではなかなかたどり着けない。

そこでは、首からトルコ石を下げるのは女性だけで、母から娘へと代々受け継がれるものだった。この風習はペンダントの本来の目的に近いらしい。私に宝石鑑定を教えてくれたイタリア人のマルコの話では、首から石を下げるのは首狩りの名残だという。それならあの巨大なトルコ石も首狩りの風習の延長なのかもしれない。

マルコにオールドジュエリーのコレクションを見せてもらうと、ペンダントにはいろいろな石といっしょに、隕石や人骨を使ったものも混じっていた。インドのある地域では、近年まで首狩りの風習が残っていたという。首狩りは、敵の首級(トロフィー)を自分の首にかけることで、相手のパワーを自分のものにするのが目的だ。今ではその首級の代わりをするのが特殊な石の役割になっているのである。

こんな話を聞いているうちに、次第に私も石のパワーなるものを信じるようになっていた。ところが、気に入った石を載せた指輪をしていたら、土台のシルバーが汗と反応して溶け出して、金属アレルギーになってしまった。指輪が当たる部分は赤く腫れて表皮がめくれ、むき出しになった真皮には亀裂が入った。そればかりか強いかゆみまである。これではもう石にパワーがあろうがなかろうが、指輪など着けていられない。たくさん持っていた指輪も、文字通りお蔵入りである。私の石にはヒーリングの効果などなかったのだ。

そこへ来て、宝石商の友だちから聞いた話でさらに考えが変わった。
上野の御徒町にあるその問屋では、二束三文で仕入れたクズ石をパワーストーンと名付けて売り出した。すると飛ぶように売れたのである。その売れ行きに味をしめた店主は、今度は適当な石を数珠に加工して、魔除けだの、異性にモテるだの、金持ちになるなどと効能をつけて売った。それでまた大儲けしたというのだ。もちろん売っている本人たちは、石のパワーなど全く信じてはいない。

他にも似たような話があったのを思い出した。
テキ屋稼業の知り合いが、農家から葉っぱ付きで形の悪い大根を捨て値で仕入れた。それにたっぷり泥水をかけてから軽トラックに積み込み、団地の中庭に運んで、「産地直送の有機無農薬野菜だ」といって売ったのだ。すると主婦たちが奪い合うようにして買っていったと自慢していた。

この世はだます人とだまされる人でできているのか。それとも信じる者は救われるのか。どっちにしても、石のパワーよりも人間の欲のほうが圧倒的に強力だと知って、私は少し目が覚めたようだった。(つづく)

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018 小説『ザ・民間療法』挿し絵018
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ある日、食べ残しの硬いパンをかじっていたら、なかにもっと硬いものが混じっていた。石でも入っていたのかと思って吐き出してみると、自分の奥歯の詰め物だった。

「これは面倒なことになった」
ため息が漏れる。日本にいても歯の詰め物が取れると厄介だが、外国暮らしであればなおさら大変だ。それがわかっていたから、国を出る前に、歯の治療だけは入念にしておいたのである。それなのに1年ももたなかったのか。そう思うと、もう1度ため息が出た。

元来私は病院嫌いである。大人になってからは健康診断すら一度も受けたことがない。しかし歯の治療となると、イヤでも行かざるを得ない。ふだんなら自然治癒力を信奉している私だが、歯だけは放っておいても治らないのである。放っておくと生活の質がえらく低下するし、放置した分だけ、治療にも手間と費用がかかることになる。

だからといって、歯医者に通えばいいというものでもない。歯医者によっては、やたらといじくり回すから、真面目に通っていると歯がどんどんなくなる話もよく聞く。その点、私が通っていた赤坂のS歯科では、余計な治療は一切やらない方針だった。歯を抜かれたことはないし、レントゲン一つ撮らない。

ところがS歯科はいつ行ってもガラガラで、待合室に患者がいるのを見たことがない。私にとっては名医だったが、一般にはヤブとして名を馳せていたようだ。

世間では「沈黙は金」などといっても、テレビなら、ペラペラとくだらない話をする人のほうが人気が高い。歯科医も同じで、余計なことを一切やらない医者よりも、なんだかんだと理屈を並べて、無駄な治療をたくさんやる医者のほうが、親切に見えて人気が高いのだ。

「ああ、今すぐ赤坂に飛んで行けたらいいのに」
歯の詰め物を握りしめて天を仰いでみたものの、いつまでもそうしているわけにもいかない。このままでは、どうにも不自由すぎる。ここは一発、この地で治療を受けるしかないのだ。

そう心に決めてはみたが、オーロビルには歯医者などいない。近所の人から、コミュニティの外の村に歯科診療所があるのを教えてもらった。またバイクを借りて出かけていくと、そこは私の向こうずねにドカ穴を開けた、例の診療所の隣だった。少しイヤな予感がする。

恐る恐る入ってみると、なかは大勢の村人でごった返していた。S歯科とはえらいちがいだ。だがそんなことに感心している場合ではない。周囲の人だかりをかき分けて、何とか受付までたどりつく。そこで受診を申し込むと、あっさりと断られてしまった。

どうやらここでは外国人は診てくれないらしい。外国人なら外国人専用の歯科医に診てもらわねばならないという。それなら仕方がないので、一旦またオーロビルに戻った。

友だちに相談すると、あそこだって「自分はインド人だ」といえば診てくれると教えてくれた。「そんな話が通用するのか」と驚いたが、隣の診療所に通っていたときは、いちどもインド人かどうかなど聞かれなかったのを思い出した。だからそんなものなのだろう。

それなら逆に、外国人専用歯科というのはどんなところかを聞いてみた。すると、みんなが口を揃えて「目ん玉が飛び出すほど高い!」と脅すのである。

私は悩んだ。1995年ごろのインドでは、猛烈な勢いでエイズ(AIDS)が流行っていた。ヨーロッパの玄関口であるボンベイなど、市民の半数がすでに感染しているとまで噂されていたのだ。

歯科治療となると、血液を介してエイズだけでなく、肝炎ウイルスなどにも感染する危険性がある。患者でいっぱいだったあの歯科診療所は、お世辞にも衛生的とはいえなかった。これはお金を惜しんでいる場合ではない。高くても外国人専用の歯科に行くほうが安全だろう。

ポンディチェリの近くにあるその歯科に着くと、室内は静かで整然としていた。これなら大丈夫そうだ。医者はインド人のようだったが、「歯は削らずに詰め物だけをしてほしい」と頼むと、かんたんにOKしてくれた。

同じ穴をふさぐにしても、向こうずねのときとはちがってほんの数分ですんだ。痛みもなかった。ホッとしたものの、いざ会計の段になると、一体いくら請求されるのかと不安が頭をもたげてきた。

日本のように健康保険があるわけではない。全額実費でキャッシュオンリーである。100ドルぐらいだろうか、手持ちのお金で足りるだろうか、とビクビクしていると、「150ルピーです」といわれた。

「え? ドルじゃなくてルピー?」聞きまちがいではないのか。150ルピーといえば、日本円で500円弱である。それを聞いて、体から力が抜けた。よかった、よかった。それなら、先に行った村の歯科診療所だといくらだったのだろう。

バブルのころに銀座でコーヒーを飲んだら、1杯2000円もした。一方、オーロビルの近くの村なら、コーヒー1杯が1ルピーだから3円ほどである。たしかに歯の詰め物だけでコーヒー150杯分だと思うとべらぼうに高い。みんなが目をむいて脅すのもわかる。しかしこの金銭感覚に慣れてしまっては、日本には戻れなくなるから恐ろしい。

では向こうずねをえぐられたときの治療費はいくらだったのか。どれだけがんばってみても、その金額が全く思い出せない。あまりの痛みのために、記憶までが脳からスッポリとえぐり取られているようだった。(つづく)

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