小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:渋沢敬三

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 日本で最初に銀行を創ったことで知られる渋沢栄一が、新一万円札の顔に決まった。

選考の経緯は知らないが、彼の経歴をみれば、これまで登場しなかったのがおかしいほどだろう。

実は渋沢栄一は私の祖先に当たる人物なのである。

ただし、祖先といっても血の繋がりはない。

そしてここからの話が少々長くなる。


 渋沢栄一の孫が、日本の民俗学の基礎を築いた渋沢敬三である。

その敬三の一番弟子だったのが、歩く巨人とうたわれた宮本常一であった。

さらにこの宮本の愛弟子が、私の師である相沢韶男だ。


 相沢には萱野茂という友人がいた。

萱野茂といえば、二風谷アイヌ資料館を作り、アイヌ文化の保存に尽力したことで有名な人物である。

相沢は『萱野茂アイヌ語辞典』の編纂や、アイヌ民具の実測などを通して、彼とは何かと交流があったのだ。

そんなある日、相沢と萱野の会話で、渋沢敬三の話が出た。

萱野は「オレは金田一京助先生を介して渋沢敬三の孫弟子に当たる」といって、暗に相沢より自分のほうが上だと自慢した。

それを聞いた相沢は、後で宮本常一にあったときに、「宮本先生は渋沢敬三の弟子ですよね。すると私は渋沢の孫弟子と名乗ってもイイわけですか?」とたずねてみたのである。

すると宮本は、腕を組んでしばらく間をおいてから、「ウン、イイ」と大きく頷いた。


 そんな話を、私は相沢先生と飲んでいるときに聞いた。

そこですかさず私も「つーことは先生、なんですか、相沢先生が渋沢の孫弟子ということは、私は渋沢のひ孫弟子ということでイイんですか」と聞き直してみたのである。

すると先生はおもむろに腕を組み、しばらく間をおいてから「ウン、イイッ」と大きく頷いてくれた。

というわけで、新一万円札の渋沢栄一は私の祖先に当たるといえるのだ。

だからといって、私のもとに多めに渋沢先生が集まってくるわけではないことはいうまでもない。(花山水清)

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武蔵野美術大学には、民俗学者の宮本常一が教鞭をとっていた時期があった。

美術大学であるから、ふしぎなことではある。

他の大学からも引き合いはあったそうだが、宮本が師事していた渋沢敬三はうんとはいわなかった。

そして、武蔵野美術大学からの誘いに対してだけ、「ここならいい」といってくれたのだという。


この渋沢敬三という人はかなりの傑物だったことで知られている。

宮本の本にもたびたび登場しているが、当時、日銀の総裁だった渋沢が語った言葉は大変興味深い。

「日支事変は次第に泥沼へと足を突込んだようになっていって、その収拾をつけることのできる政治家も軍人もいないから、おそらく近いうちに世界大戦になるであろう。そうして日本は敗退するだろう。それまでの間に日本国内を歩いて一通り見ておくことが大切である。満州へゆくことも意義があろうが、満州は必ず捨てなければならなくなる日がくる。(中略)これから敗戦後に対してどう備えていくかを考えなければならない」(『民俗学の旅』宮本常一著)

民俗学の旅 (講談社学術文庫)
宮本 常一
講談社
1993-12-06



渋沢がこう話したのは、なんと昭和15年の初めのことであった。

これから起こる歴史の筋書きを、すでに見てきたかのような話ぶりである。

眼の前にある「事実」を丹念に集めていけば、彼にとっては当然の結論だったのかもしれない。

私には今の日本が良い方向に向かっているとは思えないが、彼ならこれから世界がどうなっていくと見るのか、聞いてみたいものである。(花山水清)

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