小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:特殊美術

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私の整体は出張専門なので、いろいろなお宅に出かけていく。
一人暮らしの小さなアパートから高級住宅街の豪邸、企業の会議室や高級ホテルにいたるまで、行き先はさまざまだった。

友人の近野さんのおかげで(せいで)、私の患者には医師をふくめた医療関係者が多くなっていた。先日も近野さんの紹介で、高橋さんというお医者さんのお宅にうかがった。

高橋さんは東京都内で大学病院の消化器科に勤務しているそうだ。たとえ相手が医師だろうが、さしあたって他の人に施術するときとのちがいはない。

ところがいつも通りの施術で軽くおなかに手が触れたとき、手のひらに何か異質な感触のものが当たったのである。それは腸のあたりだった。

「これは何だろう」
口には出さないが、気になって丹念にその部分を指先でなぞって調べていると、高橋さん本人も「わかりますか」と聞いてくる。

実は彼も、前からその部分の異常な感触が気になっていた。自分の専門領域なので、職場で一通り検査してみたが、それが何であるかははっきりとはわからなかったのだという。

「何でしょうね?」と聞かれたが、専門の医師が調べてわからないものが、ついこのあいだ整体で開業したばかりの私にわかるわけがない。そもそも民間療法では、何かの症状に対して病名を診断する行為すら、法律上は許されていないのだ。

だがこの体験が、私にとって大きなターニングポイントとなった。
今までは特殊美術で使っていた技を使って、骨についての異常ならかんたんに見つけられるようになっていた。しかし骨と内臓はちがう。内臓となると体の外から見ても、手でさわってみても何がどうなっているのかよくわからない。

昔見た時代劇で、女優さんが「おなかの子が!」といいながら胃の位置に手を当てていた。それぐらい、一般的には内臓の異常どころか、それぞれの位置すらわからないものなのだ。

ところが特殊美術の技術を使えば、手で触れることで内臓の形だけでなく、質感のちがいも識別できることがわかってきた。しかもこの技術は大して特別なものでもないようだ。

洋服の表面をサラッとなでて、その生地が綿か絹か化繊かを当てるぐらいはだれでもできる。別に指でさわらなくたって、着た瞬間の肌触りでも、それぐらいのちがいはすぐわかる。

このセンサーを人の体に応用すると、内臓の形や質感のちがいだって判断できるようになる。しかも何か異常のある内臓は、しこり状態になっていたり、逆に弾力が部分的に失われていたりして、健康な状態とは明らかにちがっている。まるで「私はここにいますよ」と訴えているようなのだ。

こういうことがわかり始めると、私のなかで人の体に対する関心が、いわゆる健康のカテゴリーからははずれてきた。そしてだんだんと美術のモチーフになっていった。

ひょっとして医学というのはアートの延長なのだろうか。いや、むしろアートそのものなのかもしれない。そんなことを考えるようにもなっていた。この先には何があるのか。そう思うと、とてつもなくエキサイティングなのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵003-01
せっかく進学した美術大学で油絵科に籍を置いたものの、いつしか私のなかでは絵を描く情熱は消え失せていた。最低限の課題には取り組んでいたが、あとは可能な限り旅に出た。旅といっても1970年代といえば、ディスカバー・ジャパンの時代である。行き先はまだすべて国内だ。

私の大学へは、あちこちの地方から学生が集まっていた。その同級生たちの実家に泊まらせてもらいながら、夜行列車を乗り継いで貧乏旅行を繰り返す。興味の赴くままに寺社仏閣や仏像を見て回っているうち、とうとう卒業の時期を迎えてしまった。

卒業したらどうしよう。これといってやりたいことはない。企業に就職する気もないから、就職活動も全くしていない。それでも在学中に教員免許だけは取得していたので、高校で美術教員をやってみた。

教員生活では、生徒たちとの交流にはそれなりのおもしろさを感じられた。だが、このまま教員として一生を終えてよいものか。その選択は私のなかではしっくりこなかった。学校という閉鎖社会にも、いいようのない居心地の悪さを感じていた。そこで思い切って東京に戻り、大学時代の友人と二人で、美術で起業することにしたのである。

私たちが選んだのは特殊美術の業界だった。特殊美術とは、テレビ番組やCMで使う造り物や、タレントの被り物を制作する、いわゆる「美術さん」だ。これは立体の制作がメインなので、絵画とはちがって、目で見ることよりも、手で触れて形を確かめる作業のほうが多い。そこで重要なのは、何よりも鋭敏な触覚なのである。

しかも立体には、絵画のような平面よりもリアリティが求められる。その点が私にとっては魅力だった。「これは芸術だ」「アートなのだ」と息巻かなくてもよかったし、ちゃんと世の中から必要とされる物を作れば、それだけで確かな喜びが得られた。

もちろんお金に困ることもない。私が起業した当時は、日本中がバブル景気を謳歌していたので、テレビ番組の予算だって今よりもずっと潤沢だった。

ある番組のディレクターと昼食に行ったら、「1人5万以上使ってくれないと領収書が下りない」といわれたことがある。たかがランチでこの金額である。CMの企画でも、私が思い切って高めにつけた見積りが、「これじゃ安すぎてクライアントが納得しない」といって突き返されたりもした。特殊美術とは、そういう意味でも少々特殊な業界だったのだ。

                    *

そんなあるとき、日々の立体制作で培われた技術が、本業以外の場面で役に立つ事件が起きた。いつものように私は番組収録のため、テレビ局の控室でスタンバイしていた。そこへスタッフの1人が腰を「く」の字に曲げ、額には脂汗をにじませながら入ってきたのである。聞けば、腰痛がひどくて病院に寄ってきたけど、全然痛みが取れないのだという。

ひまを持て余していた私は、彼の姿を見てちょっと好奇心が湧いた。彼の腰に触れてみると、「ここが痛い」という部分は背骨がクランク状に曲がっている。しかも曲がったところが腫れて、明らかに熱をもっていた。立体制作で鍛えた指先の感覚が、私にそのことをはっきりと告げていた。

対象がモノであろうとヒトであろうと、指先の感覚を通して、形を確かめることに変わりはない。形の確認だけでなく、思い通りの形に修正するのも私の仕事である。彼の体の形はおかしいのだから、これは修正が必要なのだ。

そう感じた私は、クランク状になっている彼の背骨を、ゆっくりと正しい位置まで押してみた。すると曲がった線を描いていた背骨が動いて、徐々にまっすぐになっていく。それと同時に、熱をもっていた腫れがスーッと消えていく。それが私の指先でわかる。

私が背骨を押していると、彼は「あれ? あれ! あれ~っ!」と声のトーンを上げながら驚いていた。そして「痛くない、あれ、痛くない!」といいながら、腰を曲げたり伸ばしたりして体の向きを変えながら、さきほどまでの痛みを探している。

しかしいくらポーズを変えても痛みがない。彼だけでなく、まわりで一部始終を見ていたスタッフたちも、声も出ないほど驚いていた。さくらを仕込んだ大道芸のような光景だ。時代劇なら、ガマの油が飛ぶように売れるところである。

だが私にしてみたら、さして珍しくもない。中学のころから体験していたことだから、当たり前の結果である。ところがそれからは、テレビ局のみんなの、私を見る目が変わった。ただの「美術さん」だった人が、「治療をする人」に昇格した。ただし単なる治療家ではない。霊能力者か超能力者のような、「奇跡を起こす人」といった扱いになってしまったのだ。

なぜそうなったのかはわかる。実は私が彼の腰痛を治したとき、いわゆる民間療法家が見せるようなオーバーアクションはしていない。手が触れるか触れないかぐらいにしか見えなかったはずだ。手が動いていなければ、念力か何かで治したと思うだろう。だから奇跡に見えたのだ。

この一件が私のその後の人生を大きく変えた。私のもとへは、病気だけでなく人生相談まで舞い込むようになった。人から頼まれてのこととはいえ、何の知識もなく人の体に触れていたのだから、今思えば冷や汗が出る。しかし、おかげで頭を下げて仕事の営業をする必要がなくなって、会社はますます順調に成長していった。(つづく)

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