小説『ザ・民間療法』花山水清

人体の「アシンメトリ現象」を発見し、モルフォセラピー(R)を考案した美術家<花山水清>が、自身の体験をもとに業界のタブーに挑む! 美術家Mは人体の特殊な現象を発見!その意味を知って震撼した彼がとった行動とは・・・。人類史に残る新発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る! 1話3分読み切り。クスッと笑えていつの間にか業界通になる!

タグ:腰痛

*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 056
先日、近藤くんに連れられて行った勉強会の内容には少しガッカリだった。それでも世の中には、まだまだ私の知らないスゴイ治療家がたくさんいるはずだ。

テレビをつければ、ド派手なパフォーマンスを披露するスゴウデの治療家が登場する。本屋に行けば、腰痛のコーナーだけでもゴッドハンドの本であふれかえっている。この世にはどれだけゴッドハンドがいるのかと思うほどだが、みなそれぞれ「我こそは」とばかりに自慢の腕を競い合っている。

どうも民間療法家というのは、絵描きと似た人種のようだ。絵を描いていると、だれもが自分は天才ではないかと思う瞬間がある。そしていずれだれかの目に止まり、自分の才能が評価される日が来るものと信じている。民間療法家も、心のどこかで「私ほどの技の持ち主はいない」と思っている。

もちろん人間だれしも、大なり小なりどこかにうぬぼれる気持ちをもっているものだ。ところが絵描きの場合、ごくたまに本物の天才が現れて歴史に名を残す。しかし民間療法家には、歴史に名を残すような天才がいたことがあるのだろうか。

キリスト教では、病気治療で奇跡を起こした者は聖人の列に加えられることになっている。イエス・キリストなどは死人すら生き返らせた。逆にロシアのラスプーチンのように、悪名をとどろかせたのもいる。

民間療法家は、宝石の真贋のように、あれは本物だとかニセモノだとかいわれる。しかし宝石のように決まった基準があるわけではない。でも、きっとどこかに本物の天才治療家が潜んでいる。そう信じていたい気もする。

そんなことを考えていると、古くからの友人の山岸さんから電話がかかってきた。聞けば、腰の調子が悪いのだという。彼女は美食家で、おいしいものを食べるのが大好きだ。そのせいもあるのか、何かと体にトラブルが多い。そのため病院だけでなく、いろんな治療院に通っている。おかげでかなりの民間療法通なのである。

なかでも一番のお気に入りは、スペインで名を馳せて凱旋帰国したあと、神奈川で開業している鍼灸師の東海先生だ。山岸さんは千葉の自宅から彼の治療院まで、3時間以上かけて定期的に通っているのだ。

東海先生はハリでがんまで治すという触れ込みだったので、そんなすごい先生なら、腰も治してもらえばいいのではないか。そういうと、「東海先生はがんは治すけど腰痛はダメ」という話だった。

がんは治せるのに腰痛が治せないのはふしぎな気もするが、時間を作って山岸さんの家まで行くことにした。うちから千葉は遠いので、けっこうな遠征である。

近藤くんのときと同じで、親しい友人だとどうしても気が乗らない。特に彼女の場合は、深部静脈血栓を抱えているので気を抜けないからなおさらだ。

腰痛程度でも、背骨のズレをもどした途端、一気に血流が変化することがある。だから深部静脈血栓のような血管に問題のある人には、極力触れないことにしているぐらいだ。

ところが彼女は、ある治療家のところで「そんなモノはもみ切っちまえばイイんだ」といわれて、血栓のある部分をグリグリもまれたことがあった。民間療法家の医学知識のレベルがピンキリなのは常識かもしれないが、聞いただけで冷や汗の出る話である。

私としても、以前から山岸さんの体の状態を把握しているとはいえ、深追いは厳禁だ。「慎重に、慎重に」と自分にいい聞かせながら背骨をなぞってみる。するとやはり、腰痛が出ているところの背骨がズレている。そこでその部分だけをピンポイントで、ごくごく弱い力でもどしてみる。こんな触れるか触れないか程度の力でも、すぐに腰の痛みが解消したのでホッとした。

本人も調子がよくなって安心したのか、「実は・・・」とお誘いがあった。お誘いといっても別にイロっぽい話ではない。例の東海先生の講座があるから、一緒に行かないかというのである。

がんが治せる先生の講座なら、もちろん興味はある。ところがどっこい、私はハリが大の苦手なのだ。苦手といってもハリ治療そのもののことではない。注射などの針を刺されること全般がイヤなのだ。

おかげで子供のころは、予防注射のたびに学校を脱走していたし、いまだに病院にはめったに行くことがない。針と聞いただけで足がすくむ始末だ。そんなわけで、「せっかくのお誘いだけど、また次の機会に」といってお断りするしかなかった。(つづく)

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055
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近藤くんに連れられて行った凸凹会で、「の」の字による腎臓病の治療法はマスターした。

ここでは毎回ちがう病気をテーマにしているそうだから、腎臓病が「の」の字なら、流れとしては前回が心臓病か肝臓病あたりで、「へ」の字だったのだろうか。すると次回は「も」の字で、最後に「じ」の字で完成するのかもしれない。まわりはみな真剣なのに、一人でそんなふざけたことを考えていた。

それはそうと腰が痛い。「の」の字をマスターしたところでちょうど休憩時間になったので、近藤くんがこの会の責任者の一人に、私の腰を治してくれるように頼んでくれた。すると彼は、「腰痛はあんまり得意じゃないんだけどナ」とつぶやきながら、私の腰をポンポンと手刀で叩き始めた。

私としては、他の流派ではどのように腰痛を治療するのか興味があったのに、これはごくありふれた方法だったので拍子抜けした。

腰痛のとき、手の表や裏や横(手刀)を使って同じリズムで患部を打ち続けていると、そのうち痛みが引いていくことがある。痛みがある場所に対して同じ刺激をひたすらくり返していると、痛みの神経がにぶくなっていくからだ。

患部を氷で冷やすことでも、神経がにぶくなって痛みを感じなくなる。ピアスの穴を開けるとき、氷で冷やすのも同じ理屈である。

同じ効果をねらったものに、アーユルヴェーダのオイルによる治療法がある。アーユルヴェーダではオイルマッサージが有名だが、仰向けになった患者の額に温かいオイルを垂らしつづける方法もある。

垂れてくるオイルによる刺激がつづくことで、感覚がにぶくなって全身が脱力する。それが深いリラックスにつながるのだ。ただしこの治療法の効果は一時的なものでしかない。何かを根本的に治すことも望めないから、治療ともいえないかもしれない。

ボーッとそんなことを考えているうちに、そろそろ休憩時間も終わるころになった。ずっと手刀をつづけてくれていた彼が、「どうですか? 効果のほどは」と聞いてくる。残念ながら腰に何の変化もなかったが、「おかげさまで楽になりました」といって大人の対応をしておいた。

さて、大先生の次の講義は迷走神経の刺激の仕方である。迷走神経とは、自律神経の一つで、脳から首、胸、腹を通って内臓の働きを調整している神経である。

「自律神経のバランスが崩れることで云々」といって、病気の原因の説明をするお医者さんも多いから、「自律神経の乱れ」といわれれば、一般の人はなんとなくわかったような気になる。自律神経という言葉にはふしぎなパワーが隠されているようだ。

確かに、迷走神経の働きが悪いと胃などの内臓の働きもにぶるので、迷走神経の刺激となると期待できる。

またまた大先生が登場し、今度はモデルを仰向けにしたかと思うと、「迷走神経を刺激するには、肩にある僧帽筋の下をこのように押す」と説明し始めた。

アレ? 私の知識では、迷走神経の位置がちがうような気がする。これは先生のいいまちがいだろうか。周囲を見回したが、会場のみんなは大まじめに聞いている。

ここで私は悟った。たとえ刺激する場所が解剖学とちがっていても、それが効果を発揮するなら、それはそれでイイのだろう。人間の体のしくみなど、いわば未知の世界そのものだから、これもアリなのかもしれない。

そもそも民間療法は、医学の常識とはちがうところに存在価値があるともいえる。既存の医学と全く同じものならば、民間療法の出る幕はない。

もちろん基本的な医学知識があることは大前提である。しかし現在の医学で治らない病気も多いのだから、医学を完全に踏襲する必要はない。だからといって漢方医学への懐古趣味でもない。民間療法が現代医学よりも先に行って、最先端医学となる可能性があるはずだ。そうだ。私はそこを目指そう。

この悟りを得ただけでも、十分にここに来た甲斐があった。近藤くんには「誘ってくれてアリガトね。そろそろ仕事に行く時間なので」と告げて、私は意気揚々と会場をあとにしたのだった。(つづく)

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小説『ザ・民間療法』挿し絵054

近藤くんから電話があった。彼は私が特殊美術をやっていたころからの知り合いで、放送作家のかたわら治療院も経営しているという変わり種である。

その彼が突然ぎっくり腰で動けなくなって、同じ治療家である私に助けを求めてきたのだ。自分の腰痛だってまだ治り切っていないのに、と思いつつも、仕事の前にちょっと寄ってみることにした。

彼のアパートは隣の駅の近くだという。電話をもらうまでは、こんなに近くに住んでいることも知らなかった。教えられた通りに歩いていくと、うちと似たりよったりのたたずまいの安アパートがあった。

「これだな」
そう思いながら、一声かけてからドアを開けると、そこにはせんべい布団の上で身動きもできずに転がっている近藤くんがいた。そのいかにも独り者らしい哀れな姿に思わず吹き出すと、つられて彼も自虐的な笑みを浮かべる。

私だって、ふつうの患者さんにこんな失礼な態度はとらない。しかし親しい友人だとつい気がゆるんでしまう。近藤くんは曲がりなりにも治療家だし、どんなに痛かろうがぎっくり腰で死ぬことはないから、気楽である。

彼にしても、私がなんとかしてくれるだろうという安心感があるようだったが、あとから他の友人たちに物笑いのタネにされるのは覚悟の上らしい。

背中を見ると、やっぱり背骨が大きくズレている。ただのぎっくり腰なら、このズレている背骨をもどすだけなので、サッと矯正する。何往復か矯正を繰り返して、身動きもできない状態から、一人でトイレに行ける程度にまでは回復させた。そして、「あとは自分でなんとかするように」といい残して、待ってくださっているホンモノの患者さんの家へと向かった。

数日して、彼から電話がかかってきた。おかげであれからは腰の調子もよく、今はほとんど痛みもないという。お礼の気持ちからなのか、この週末に、彼が師事している先生の勉強会に来ないかと誘ってくれた。

その勉強会は、彼が所属する治療家団体の凸凹会がやっている。民間療法にはたくさんの流派があって、それぞれが技を競っているが、この凸凹会のことは全く知らなかった。おもしろそうなので、二つ返事で参加することにした。

次の日曜日、明大前の駅で近藤くんと待ち合わせて、会場に向かう。10分ほど歩いたところにある建物に入ると、そこには50~60人もの人が集まっていた。

この勉強会では、毎回なんらかの病気をテーマにして、大先生がその治療法を伝授する。今日のテーマは「腎臓病」となっていた。ほとんどの腎臓病は病院でも治らない。それが手技だけで治せるのなら、スゴイじゃないか。

ほどなくして登壇した60代とおぼしき男性が話し始めると、ざわついていた会場がシンと静まりかえった。みな真剣に聞き入っている。私も興味津々で耳を傾ける。

すると先生は、壇上のベッドに寝ているモデルの脚をおもむろにつかんだ。そして足の裏を押しながら、「腎臓病を治すには、このように足の裏に親指で『の』の字を書くようにして」と説明する。

「え? なんで『の』の字? 腎臓病ってなんの?」
私の頭の中が混乱し始めた。だがまわりの人たちは、身じろぎもしない。この説明に動揺しているのは私だけのようだ。

一通り説明が終わると、今度は参加者同士がペアを組んで練習することになった。みな素直に相手の足の裏に「の」の字を書いている。思わず近藤くんに目をやると、彼は申し訳なさそうなそぶりを見せた。

しかし他の参加者は、いっしょうけんめいに「の」の字を書きつづけている。彼らは本当に「の」の字で腎臓病を治すつもりらしい。「郷に入っては郷に従え」であるから、私もいっしょに「の」の字を書いた。

こうしてとりあえず腎臓病の治療法はマスターした(と思う)。だが妙な姿勢を続けたせいで、やっとおさまりかけていた腰の調子がまた怪しくなってきた。勉強会はまだ始まったばかりだというのに、こんなことではどうなるのだろう。(つづく)

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 053
最近、また腰の痛みがひどくなってきた。だれでも腰痛にはなるものだから、私だって腰が痛いときがあるのは当然だ。腰痛治療が仕事であっても関係ない。

しかも今回は痛いのが腰だけじゃない。お尻から足にかけて痛みが広がって、しびれ感まである。寝ていても、痛みで目が覚めてしまうのには弱った。これはいわゆるヘルニアによる坐骨神経痛というやつだろうか。

もちろん坐骨神経痛だろうと腰痛だろうと、施術の方法は同じである。この前も、早川さんの腰痛はたった3秒で治ったのだから、自分でなんとかすればいい。

ところが自分の体となると、なかなかうまくいかない。背中に手が回らないのも理由の一つだが、自分のこととなると指一本動かすのも億劫になる。痛みからくる不便さよりも、面倒臭さが勝ってしまうのだ。大工さんだって技術も道具もあるのに、面倒がって自宅の棚は吊らないと聞くが、その気持ちがよくわかる。

そういえば早川さんの腰痛も、病院ではヘルニア(腰椎椎間板ヘルニア)だと診断されていた。ヘルニアは、腰の骨と骨の間にあるクッション役の椎間板が飛び出した状態だ。その飛び出た椎間板が、周囲の神経を刺激すると腰痛になるらしい。

病院では、手術で痛みの原因となっている部分を切除するようだが、ヘルニアは時間がたてば自然に消えて、痛みがなくなることも知られている。それなら私の腰痛の原因がヘルニアだとしても、時間がたてばそのうち痛みが消えるはずだ。

それはそれとして、あの早川さんの腰痛はなぜ私の手技で治ったのだろう。私は彼女のズレている腰の骨を正しい位置にもどしただけで、決してヘルニアを治したわけではない。そもそもあんなことでヘルニアが治るわけもない。それではどうしてヘルニアだと診断された痛みが消えたのだろうか。しかもたった3秒ほどの矯正で。

あれから1か月ほどたつが、彼女の腰痛は消えたままである。ひょっとしてヘルニアだというのは、病院の診断ミスだったのか。しかし彼女のヘルニアは何度もレントゲンで確認していたのだから、ヘルニアそのものはまちがいなくあったのだ。

それなら、ヘルニアとは単に骨がズレた状態のことなのか。だが病院では、腰の骨がズレて腰痛になるとは考えない。ところが早川さんだけでなく、ヘルニアだと診断されていた何人もの人たちが、背骨がズレていた。そしてそのズレの矯正によって痛みが消えているのだから、関係がないわけがない。

ただしここで問題なのは、それが全員というわけではなかった点だ。全員治っているなら、ヘルニアは腰の骨がズレた状態のことだと思ってもいいかもしれない。しかしなかには、ズレをもどしても全く効果がない人もいた。これはどう考えたらいいのだろう。

ヘルニアには本物のヘルニアと、腰の骨のズレの2種類があって、ズレが原因なら、ズレをもどせば痛みがなくなるけれど、本物のヘルニアなら痛みが消えないということだろうか。

あるいは全てズレが原因なのに、矯正で効果がなかったのは、私の技術が未熟なせいなのか。このへんのところがもっと合理的に整理できれば、腰痛の根本原因にたどりつけるかもしれない。

お医者さんたちは、「どうすれば病気を治せるか」を日夜研究している。だが私はちがう。「なぜ(私の手技で)治ったのか」その理由が知りたいのだ。それさえわかれば、人体のしくみのなぞが新たに解明できる可能性もある。そう思うとなんだかワクワクして、おなかの底からエネルギーがわいてくるようだった。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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*小説『ザ・民間療法』全目次を見る 052
やっぱり健太くんのような重大疾患の人に施術するのは、私にはあまりにも荷が重すぎたのだ。それがわかっていたから無償で施術してきたのだが、これは健太くんだけではなかった。子育て中なのに膠原病になってしまった女性や、友人の肝硬変のお母さんなど、病院で「治らない」と診断された人たちはすべて無償にしていた。

もちろん、私にそういう人たちをスッキリと治せる力でもあれば、仕事としてお金をもらうことに何の抵抗感もなかっただろう。だからといって、私の施術に全く効果がないかというとそうでもない。ここが判断がむずかしいところなのである。

先日も、患者の崎村さんから、60代後半の早川さんを紹介された。彼女は30年以上も飲食店を経営していたが、数か月前から腰痛がひどくてお店に立てなくなった。医師からも、「もう店を続けるのはムリだ」といわれて悩んでいた。それを見かねた崎村さんは、私なら何とかしてくれるのではないかと考えたようだ。

崎村さんの車に乗せられて早川さんの家に着くと、彼女の表情がとても暗い。60代の女性といえば元気盛りのはずなのに、早川さんには腰の痛みだけでなく、経営のことも合わせて将来の不安がのしかかっているようだった。体の調子が良ければ前向きにもなれるが、肝心の体がいうことを聞かないのでは暗くなるのも仕方がない。

「背中をちょっとさわりますよ」

横になっている早川さんに声をかけてから、背骨を指でなぞってみる。案の定、大きくズレているところがある。これだ。確かにこれだけ背骨がズレていれば、かなり痛いだろう。原因がわかったので、これなら何とかなりそうだ。

いつもの通り、ズレている背骨をそっと正しい位置までもどしてあげた。ヨシ、これならいいだろう。そう思っていると、本人も「あれ、痛くない」といってキョトンとしている。

今まで何をやっても消えることがなかった痛みが突然消えてしまった。しかも一瞬のできごとである。早川さんは起き上がって少し体を動かしてみたが、やっぱり痛みは消えていた。

これが魔法だろうが何だろうが関係ない。痛みが消えた早川さんは、それはもう大喜びだ。そばで見ていた崎村さんも、時計を指差しながら「まだ3秒ぐらいしかたってない!」といって興奮している。

「すぐお店の準備をしなくちゃ!」

早川さんはそういうと、閉めていた店の再開に向けて忙しく動き始めた。これが本来の表情なのだろう。彼女の顔は輝きにあふれていた。

この光景は、はたから見れば奇跡のようだったろう。しかし私としては、ズレていた背骨を本来の位置にもどしただけだ。それは治療と呼べるほどたいそうなものではなく、ちょっとした手作業でしかなかった。それもたった3秒だ。すっかり痛みが消えたとしても、これでお金をもらうのも気が引ける。

今回はたまたまうまくいっただけで、今の私はいつでも同じ結果が出せるわけではない。場合によっては30分、1時間と時間を費やしても、全く効果が出ないこともある。いくら時間をかけようが、効果がなければなおさらお金をもらいにくい。どちらにしたって、人からお金をもらうのはむずかしい。

こんな悩み自体が無意味だと思う人もいるだろう。だが私には、こういった経験が必要なのかもしれなかった。そしてふと、お釈迦様の托鉢(たくはつ)の話を思い出していた。

お釈迦様は村まで出かけ、各家の前で「私の修行に価値ありと認めるならば、余食を与えたまえ」といって托鉢をして歩かれた。しかし一日中、足を棒にしても、一粒の米すら得られない日もあった。それでも「托鉢は修行のためであり、食のためならず」といって、ひたすら修行に専念されたのである。

私がお釈迦様のように悟れるとも思わないが、それでも何かしらの修行を通して、お釈迦様の悟りに1ミリでも近づきたい。無償で施術することだって、少しは修行になるかもしれない。せっかく軌道に乗っていた特殊美術の仕事を捨てて出直したのだから、この仕事はお金もうけだけの手段にしたくなかった。

それなら難病などの重大疾患や、腰痛程度でも全く効果がなかった人、私よりも収入の少ない人には無償で施術させていただこう。交通費などもいただかないと決めた。

そう決めてはみたものの、私に経済的な余裕があるわけではないから、このシステムは負担が大きかった。しかしその分だけ、私の心にいくらかの救いとやる気を起こさせてもくれた。あえてハードルを高くすることで、施術家としての成長だけでなく、人生の目標にも近づける。そんな気がしていたのである。(つづく)
モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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