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最近また釣りを始めた。始めたといっても、月に1回も行けるわけではない。それでもふとした瞬間に、「今度は何を釣ろうか」と考えるだけで楽しい。

もともと田舎育ちの私は、子供のころから近くの川で釣りをするのが好きだった。しかし大人になるにつれ、釣りに行くこともなくなった。都会暮らしになると、なおさらその機会もない。今でも余裕があるわけではないが、釣り好きの高旗さんに誘われて再開したのである。

カースタントの高旗さんには、特殊美術の仕事のころからお世話になっている。彼は仲間から「ボス」と呼ばれて尊敬される存在だ。大の釣り好きとしても有名で、しょっちゅう自分で船を出しては大物を釣り上げていた。地元の漁師さんからも一目置かれるほどだから、話を聞いているだけでもワクワクする。

私も趣味は同じだが、あいにく船酔いするタチなので船釣りは苦手だった。ところがこの日はあまりに天気がよかったので、誘われるままにボスと二人で相模湾の小さな漁港まで釣りに出かけたのである。

釣りというのは、行けば必ず釣れるわけではない。釣りをしない人には理解できないらしいが、釣り好きなら、釣れても釣れなくても楽しいものなのだ。この日もポカポカとした春の陽気のなかで、のんびりと釣り糸を垂れて久しぶりにくつろいでいた。

すると突然、後ろのほうでドカンと大きな破壊音がした。釣りをしている港の後ろには国道が走っている。音がした方角に目をやると、モウモウと白い煙が立ちのぼっていた。「あ!」と思ってボスの顔を見ると、ボスは「行ってみよう!」とだけ告げて国道に向かった。

そこには大型のタンクローリーが横倒しになっていた。自動車事故である。車の前に回ると、運転席のフロントガラスを突き破った状態で、男性がぶら下がっていた。タンクからは積み荷の液体が漏れ出して道路に広がっている。そこから白い煙があたり一面に充満しているのだ。これは何だろう。

漏れた液体が引火物なら爆発の危険がある。しかも車のエンジンがかかったままなので、ガソリンが漏れてくれば一気に爆発してしまう。これがとてつもなく危険な状況であることは私にもわかった。事故の音を聞きつけて集まった近所の人たちも、近づくわけにもいかないので遠まきに見ているだけだった。

ところがそんな状況でも、ボスはためらうことなくまっすぐに車に駆け寄った。カースタントで幾多の危険をかいくぐってきただけに、反応速度が素人とは格段にちがう。即座に積み荷の表示を確認し、「温泉の湯だ!」と叫ぶなり、横倒しになった車の下にもぐりこんだ。

道路に漏れ広がっているのはお湯でも、エンジンがかかったままではいつガソリンに引火して爆発するかわからない。運転手を助けるには、まずはエンジンの停止しかないと判断したのだ。

すかさず私も運転席によじ登り、窓からぶら下がったままの男性を助け出そうとした。彼はフロントガラスを突き破った際に、頭の皮が半分ほどはがれていた。あたりは血だらけだ。声をかけても全く反応はない。首に指を当てると、かすかに脈があった。なんとしても助けたい。

ところが力いっぱい引っ張っても、押しつぶされた運転席に脚がはさまっているようで、彼の体はビクともしなかった。

そのタイミングでボスがエンジンを止めた。おかげで爆発の危険はなくなったので、近くの人に脚立をもってきてもらう。それを足がかりにして運転席にもぐりこみ、ボスと二人で悪戦苦闘した。あまり手荒なこともできないので途方に暮れかけたころ、ようやく消防のレスキューが到着した。

ここでホッとしたが、5~6人のレスキューの手でもなかなか脚は抜けてくれない。それから何分たっただろうか。脚をはさんでいた部分を機械で押し広げ、やっとのことで体を引き出した。しかし担架に乗せたときには、もう彼の脈は消えてしまっていた。

彼が救急車で運ばれるのを見送ったところで、自分の手が血だらけなのに気がついた。その手をタンクローリーから漏れ続けている温泉のお湯で洗いながら、彼の家族のことを思った。

まだだれも彼が事故に遭ったことなど知らずにいる。夕方になれば、仕事を終えた彼がいつものように帰ってくると思っているだろう。しかし事故の知らせが届いたら、一瞬でそんな日常など吹き飛んでしまう。これはだれにとっても、決して他人事ではない。

釣り場にもどっても、ボスも私も釣りを続ける気にはなれなかった。おしだまったまま道具を片づけ、帰路につく。重たい空気に包まれた車内で、運転席のボスが、「君のそんな真剣な顔は初めてみたナ」とつぶやいた。

確かに、私は自分の人生にそんなに真剣に立ち向かってこなかった。いい加減に生きているように見えたかもしれない。そんな私でも、赤の他人とはいえ、人の死に立ち会うことは大きな衝撃だったのだ。

整体の仕事を通して人の生死にかかわるようになると、いやでも真剣にならざるを得ない。ただこれまでの私は、そのことをまだ知らなかったのである。(つづく)

モナ・リザの左目 〔非対称化する人類〕

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