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手術の前夜、病院から逃げ出した瀬尾さんの話にもどろう。彼はそこで頚椎椎間板ヘルニアの手術を受ける予定だった。
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手術の前夜、病院から逃げ出した瀬尾さんの話にもどろう。彼はそこで頚椎椎間板ヘルニアの手術を受ける予定だった。
しかし頚椎のヘルニアの存在は、一般的にはあまり知られていないようだ。腰椎の椎間板ヘルニアであれば、腰痛のもっとも多い原因の一つとして知られているが、頚椎のヘルニアのことまでは、瀬尾さんだって自分が診断されるまでは知らなかった。
だが私は、頚椎椎間板ヘルニアだと診断された人を、これまでに何人も診てきた。病院での診断名はヘルニアでも、ほとんどの場合は骨のズレをもどすことで症状が消えた。これは腰椎のヘルニアでも同じだった。
そうなると、ヘルニアという診断はいったい何だろう。ズレている骨を正しい位置にもどしたからといって、それでヘルニアが消えるわけではない。ヘルニアはそのままなのに、ヘルニアが原因の痛みが消えるわけがないから、これはふしぎなことだ。
同様に、瀬尾さんの腕に走る痛みの原因も、ヘルニアではなくズレのせいなのだろう。しかも病院で指摘された、7番目の頚椎の下にある椎間板ではない。4番目の頚椎が、左にズレているのが原因である。
そのズレさえもどせば、彼の症状も消えるはずだ。ところが瀬尾さんの症状は思いのほか激しかった。首の腫れた部分に、指先でちょっと触れただけでも腕に激痛が走ってしまうのだ。
さらに、首には重要な血管や神経が通っているので、ズレを矯正したら急に血のめぐりがよくなって、思わぬ症状が出ることもある。どういう反応が出るか見極められない状況では、安易にズレをもどすわけにはいかない。
私がためらっていると、瀬尾さんは「思いっきりやっちゃって!」とせかす。そばで見ていた山田先生も、「だいじょうぶヨ~」と明るくけしかける。
いいのか。やるしかないのか。いつもの半分くらいの力でやってみるか。意を決した私は彼の首に指を当て、ズレている骨をほんの少しだけ動かしてみた。すると即座に瀬尾さんは、「ウーーン、響く!」といって顔をゆがめた。私はヒヤリとする。
しかし彼は「大丈夫、ダイジョウブ、やってやって!」といいつづける。その声に支えられながら2度、3度と同じ動作をくり返した。私が使っている力は、それこそ首の皮を指先で軽く引っ張る程度である。それでも腕にはビンビンと痛みが響いてくるらしい。
ここで攻めつづけるのは危険だろう。一呼吸おいて、瀬尾さんの首から手を放す。彼の気を紛らわせるために、得意のサーフィンの話をしてもらう。行きつけの大洗海岸の話になったあたりで、少しずつ痛みがやわらいできたようだ。
慣れている人なら、ここで矯正を再開するところだが、初めての人に深追いは禁物だ。ここまでで、ある程度は矯正に効果があることがわかったので、日をおいて様子を見ることにした。
それから5日後、また山田先生の歯科クリニックに3人で集まった。前回はほんの少しズレをもどしただけなのに、2日ほどは矯正前よりも腕の痛みが軽かったそうだ。それが今は「また元にもどっちゃった」といって、瀬尾さんがしょんぼりしている。
しかしこれも施術の現場ではよくあるパターンだ。矯正の効果は、3歩進んで2歩下がる感じでも仕方がない。急激なことをしないで、少しずつ矯正をくり返していくのが安全である。
さあ2回目の矯正といこう。もう彼の頚椎の感じはつかめたので、前と同じやり方でゆっくりと矯正していく。実は頚椎の4番目の骨は、7個ある頚椎のなかでもいちばん薄くて扱いづらい。そのため4番のズレをもどすときには、相手の首を微妙な角度に傾けなければ、私の指先が届かない。
まずは右手を大きく開いて、バレーボールをつかむように頭をホールドし、相手には首の力を抜いてもらう。次に頭を支えた右手で、頭の角度をわずかずつ調整しながら、左手の親指の先を骨に当ててズレをもどしていく。この場合、左手で使う力は最小でも、頭を支える右手には相当な力が必要だ。
症状が激しいと、一気に治してあげたいと思うものである。だがそういうときこそ無理をせず、何度にも分けて慎重にトライする。しかしこのときあまりしつこく同じところばかりに触れていると、指先が当たる部分で首の皮膚がすりむけてしまう。これも気をつけなければいけない。
首の皮膚は体のほかの部分よりも敏感なのだろうか。瀬尾さんの首にも、私の指先のあとがついて赤くなってしまった。ところが彼は、「そんなものかまわないから、グッとやってグッと!」と要求する。
そこで、できるだけ刺激しないように、指の位置や角度をいろいろ変えてみる。そうやって悪戦苦闘するうちに、腕の痛みがもう一段階、引いてきた。彼も「これはいけるかも!」と期待が高まってくる。脇にいる山田先生も、スポーツ観戦みたいにエキサイトしているのがわかる。
もちろん私だって観客の期待には応えたい。しかし施術は安全が第一だ。ノリや勢いで自分のペースを変えてはいけない。やはりここは焦らず、またまた次回の矯正へと希望を託すのだった。(つづく)
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