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携帯が鳴った。
見ると、患者の秋山さんからだ。
通話ボタンを押して、「モシモーシ」と応答すると、何だかいつもと様子がちがう。声がくぐもっていてよく聞き取れない。アレ、どうしたんだろう。
私が戸惑っている間も、電話の主は何か話している。何度か確認したら、やっぱり秋山さん本人であることはまちがいなかった。
そのとぎれがちな声を、パズルみたいに頭のなかで組み立ててみると、どうやら彼は半月ほど前に顔面神経麻痺になって、病院で治療を受けていたらしい。でもその治療が終わったので、今度は私に診てもらいたいという話だった。この声の感じからすると、麻痺は治っていないのだろうか。
数日後、秋山さんは特大のマスクをかけてやってきた。部屋に入ってすばやくそのマスクをはずすと、「先生、これッ」といって勢いよく顔の左側を私に向けた。確かに彼の顔は左側が大きく垂れ下がっていて、強い麻痺が残ったままなのがわかる。
「ホラ、こっちの感覚が全くないんで、食べたり飲んだりしたら、口のここんところから漏れてきちまうんだヨォ」
彼は指で左の顔面をつつきながらそういうと、悲しげに顔をゆがめた。
秋山さんは今年の春に65歳になったところで、勤めていた会社を定年退職した。だが本人が二枚目を自認しているだけあって、退職したあともいつも身だしなみには気を配っていたのだ。そんな彼にとって、顔の麻痺は人一倍ショックが大きかったらしい。
「先生、これ、なんとかならないだろうか。これじゃ人前に出られないヨ」
と困り果てている。
医者の話では、彼の顔面神経麻痺は、通常とは種類がちがっているそうだ。最初に耳に帯状疱疹が出て、その後で顔面に麻痺が出たかららしい。
「帯状疱疹なんてサ、ヨレヨレのバアさんがなるもんだと思ってたから、それだけでも『なんでオレが』ってショックだったのに、耳の帯状疱疹のあとに出た麻痺だから、もう治りませんなんていわれちゃってサ」
秋山さんは一気にそういうと、「ハァ~ッ」と大きくため息をついて、さらに悲しそうな表情になった。電話よりは聞き取りやすいものの、やっぱり麻痺がひどくて話しにくそうだ。
彼のいう通り、昔は帯状疱疹といえば年寄りのものだった。しかし今では若い人でもかかるようになった。顔面神経麻痺については、まだ医学的にも原因不明だが、わりと自然に治ってしまうことも多い。それなのに医師からは、「もう治りませんよ」ときっぱりいわれたのだから、そりゃため息も出るだろう。
だが、ふつう顔面神経麻痺や三叉神経痛など顔に出る症状は、首の1、2番目の骨のズレが原因になっていることが多い。ズレが原因なら、ズレを戻せば症状は消えていくものなのだ。
そこで彼の首の骨を調べてみると、案の定、1番目と2番目の骨が左に大きくズレていた。やはりこれか。これだけ大きくズレているなら、耳に出た帯状疱疹だって、ズレの影響だった可能性が高い。
ところが困ったことに、秋山さんの場合、安易にこのズレを戻すわけにはいかなかった。彼は数年前に、大動脈乖離(かいり)の手術を受けているので、もし矯正した途端、血流が急激に変化したら、体内で何が起きるかわからないのである。
そんな懸念を伝えても、秋山さんは一向に納得してくれない。医者には見放されているから、彼も必死である。「いや、でも」とためらう私に、「そこをなんとか」と食い下がってくる。結局、彼の懇願に負けた私は、通常よりもさらに回数を分けて、様子を見ながら少しずつ矯正していくことにした。
最初のうちは、良くも悪くも大きな変化はなかった。効果が感じられない秋山さんは不安そうだったが、逆に私は変化がないことでわずかに安心した。そして3回目の矯正のあたりから、やっと顔の感覚が回復してきた。下がっていた左の口角も上がってきた。
これには秋山さんも喜んだ。そればかりか、それまでつづいていた、頭にモヤがかかったような不快な症状が消えて、視野が広がってきたのである。おかげで彼も、ようやく回復に向かっているのを実感できて、表情から影が消えた。
それからまた数回、矯正をくり返したら、首の骨のズレはすっかりなくなった。その結果、口から食べ物や飲み物がこぼれることもなくなった。ここまでくれば、もう安心だ。
「あとは筋力の問題ですから、顔の筋肉をよく動かして、自分で積極的にリハビリすれば、さらに回復していくはずですヨ」
最後に私がそう伝えると、秋山さんはニカッと笑ってみせた。復活だ。見る者が思わず、「イヨッ男前ッ」と声をかけたくなるほどの笑顔とともに、彼は颯爽と帰っていったのだった。(つづく)
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